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鈍く痛む左の足首をなるべく意識しないように、夜更けの城下街の暗い石畳の上を歩く。
城を出るのは上手くいった。
晩餐会の招待客達の馬車が、城の外庭に幾つも停まっていたのだ。
御者たちは一ところに集まり、赤い灯りを囲んで談笑していた。
荷箱のある馬車を探し、その箱の中へ入り込み、馬車が城を出るのをじっと待った。
幸運なことに、荷箱の中を改めることなどもされず、馬車は主を乗せて城外へと走り出る。
そこまでは、上手くいったのだけど……。
ズキリと左足がまた痛んだ。
走り出した馬車が速度を落としたのに気が付いて、荷箱から外を窺い見ると、馬車は石畳の城下街に入ったところだった。
ここで降りなければ、いつ馬車の持ち主の家に着いてしまうか分からない。
それに再び馬車の速度が上がれば、降りれなくなってしまう。
意を決した私は荷箱を開くと、走り過ぎる石畳を見る。
速度を落としたといっても、馬車の早さは人が走るよりも数段早い。
怖気づく身体を無理やりに奮い立たせ、荷箱から地面へと一息に降り立つ。
両足は石畳を無事に捉えたのだけれど、次の瞬間には左足が嫌な痛みを訴えた。
冷静に考えたら、私の鈍い運動神経がこなせる業ではなかったのだ。
立って歩くことは出来ているのだから、折れてはいないのだろうけど、痛む左足を庇いながら私は街を歩きだした。
まばらな街灯の燈る薄暗い街を、建物の影の濃い暗がりを選んで歩く。
通りに人気は無く、夜更けの街は静かだった。
王都に来た晩のことを思い出して後ろを振り返れば、小さな灯りが幾つも燈る王城が見える。
あの灯りのどこかで、自分が寝起きしていたと思うと不思議な気持ちになった。
未練がましくお城を見つめていた自分の頭を振る。
お城に背を向けて、再び歩き出す。
もう、あそこには戻れない。……戻っては、いけないのだと思う。
盗み聞きしたあの男の会話では、私が誰の保護下にいようと構わない風だった。
晩餐会の招待客だろうあの男は、それを確かめもしないまま私を運んだ。
それはつまり、私があの場にいた誰の連れでも、その相手を黙らせるだけの力を持っているということなのだろう。
それが一国の王子でも、魔法塔の長でも……。
そうでなければ、あんな場所から人を攫うことなんて出来ないはずだ。
人として扱われないことがどういうことなのか、初めて知った気がする。
あの男の薄水色の目は、私を人とは見ていなかった。
クヴェルミクスに言われていた、この世界の生き物では無いということがどんなことなのか、あの冷たい眼差しに知らされた。
ソニアは私のことを人として扱ってくれた。吉凶なんて、関係ないとしてくれた。
でも、どうだろう。
本当にそうだろうか?
西の端へ旅立った馬車の後ろ姿が、思い起こされる。
彼女は優しい言葉を掛けてくれたけど、あれは彼女が望んだことじゃない。
私にさえ関わらなければ、今ごろソニアは慣れ親しんだ北の地に居れたはずだ。
この世界の誰もが持つはずの魔力を持たない身体。
守護神の祝福を受けない黒い目。
そんな得体の知れない物は、この世界にどう思われるのだろう。
そんなことは、想像するまでもない。
冬の夜風に身体は凍え始めていたけれど、痛む左足だけがじんじんと熱を発していた。
何のあてもなく、ただお城から遠ざかるために歩く。
本当は先のことをきちんと考えるべきだと、頭の片隅では思う。
お城で、彼らの庇護のもと、過ごせるだけ過ごすべきなのが賢い行動だとも思う。
けれど、頭の大半と心は感情に支配されていた。
迷惑がかかるだろう。
白騎士にもアルトさんにも。クヴェルミクスにも。
いや、迷惑なんて言葉では軽すぎる厄介事に私はなってしまうだろう。
あの男から逃げ出して、無人の執務室に戻った時。
私は、どこかで期待してしまっていた。
護ってもらえるのではないかと。
執務室にアルトさんと白騎士がいるのではと、もしかたらクヴェルミクスさえも、そこにいてくれるのではないかと思っていたのだ。
心のどこかで、そう強く思い望んでいた。
なんて、おこがましいことだろう。
けれど、執務室は無人だった。
私は勝手に期待して、勝手に失望したのだ。
そんな自分に、私自身が愕然とした。
だから逃げた。
薄水色の瞳の男からだけでなく、私に優しくしてくれた人たちからも。
煩わしい存在となり、やがてその手から出されるのなら。
そうなる前に、自分の足でそこから出たかったのだ。
不安。焦燥。恐怖。
あらゆる負の感情が、自分の身体の中を渦巻いているみたいで息苦しい。
でも、それらと対峙するのは後回しだ。
いまはもう、目の前のことだけ考えればいい。
お城から離れて。次は、王都から出る。
そこまでしたら、次を考えよう。
それ以上先のことなんて、もう何も考えたくなかった。
庇っていた左足の痛みを無視する様に、私は歩く速度を上げた。
傍らの路地から灯りが見える。
どうやら酒場のようだ。
そこから、酔いに浮かれた話声と足音が近づいてくる。
慌てて反対側の路地に身を潜めて、酒場帰りの人たちが通り過ぎるのを待つ。
再び静まり返った通りを見回して、人がいないことを十分に確認すると、通りに戻るべく足を踏み出した。
「いっ! 痛ぅ!!」
痛みが増した左足首に、踏み出した右足もバランスを崩す。
転ぶ! と、思った私の身体は、なぜか横からがしりと支えられた。
驚いて見れば、黒い壁が私を支えてくれている。
「大丈夫か?」
低い声で尋ねてきた黒い壁には覚えがあった。
深く被ったフード越しに窺ったそこには、いつかの赤毛の男の人が立っている。
「怪我でもしているのか?」
再び尋ねられて、私は俯き首を横に振る。
暗がりで、加えて深く被ったフードのおかげで、私の目の色は見えていないはずだ。
「だ、大丈夫です」
はっきりとそう答えて、赤毛の男の人にもたれていた身体を起こし立つ。
体重を掛けたとたん左足首がひと際痛み、あやうくまた悲鳴を上げそうになった。
「ど、どうも、あ、ありがとう、ございました」
痛みに声が震えるけれど、どうにか立つことは出来た。
けれど、明らかに不自然な私の様子に赤毛の男の人は気が付いたようだ。
「足か? こんな夜更けにどこに行く? 王都とはいえ、子供の出歩く時間じゃない。……家はどこだ? 送ってやる」
赤毛の男の人の申し出に、私は大きく首を横に振る。
「結構です。大丈夫ですから。」
「子供が遠慮するな」
「遠慮じゃありませんし。私、子供じゃありません。ですから、一人で大丈夫です」
「子供じゃない? どう見ても成人前だと思ったが? 違うのか?」
また子供扱いか。と思いながら、首を傾げる赤毛の男の人を、チラリと見上げる。
相変わらずの不精髭を擦りながら、私を見下ろす深紅の瞳。
「聖誕祭の初日に会ったな? その前にも一回? 覚えているか? なんだ、ずいぶんとナリが変わったな。 勤め先をクビにでもなったか?」
赤毛の男の人の問いに曖昧に頷きながら、私はじりじりと歩きだした。
左足首は猛烈に痛む。
「まぁ、そんなところです。その節は、ありがとうございました。では、これで」
「無理するな。そんなおかしな歩き方で、どこまで行くつもりだ?」
進みだした私の行く手を、文字通り壁の様に赤毛の男の人が塞ぐ。
「……仕方ないな」
そう言うと、赤毛の男の人の黒いマントがはためいた。
「え! えぇ!? な、なにするんですか!」
「とりあえず、足の手当てだな」
造作もなく抱き上げられ、視界がぐんと高くなる。
私を自分の左腕に軽々と乗せて、赤毛の男の人は歩き出す。
意図せず私の手が黒いマントを掴む。
「お、下ろしてください!!」
「そう騒ぐな。人が出てくるぞ」
荒げた私の声に、嗜める様に赤毛の男の人が言う。
そう言われてしまえば黙るしかなく、私は口を閉じる。
「立ち話もなんだしな。聞きたいこともあるからな、ちょっと付き合ってくれ」
聞きたいこと。そう言われて、身体がびくりと強張る。
この人は、あの薄水色の瞳の男の仲間かもしれない。
マントを握っていた手をゆるめて、探る様に聞き返す。
「聞きたいことって、なんですか? どこにいくんですか?」
「ま、あとでゆっくりな」
赤毛の男の人は進行方向を向いたまま、そうゆるりと答える。
この腕から飛び降りて、走って逃げることは難しそうだ。
ぶらりと揺れる私の左足は、変わらずに痛み続けている。
でも、隙を着いて路地に逃げ込めば、などと考えて辺りを見渡す。
そんな私の様子に、赤毛の男の人のやや呆れたように口を開く。
「別に取って食おうってわけじゃない。そんなに警戒するな」
そう言われても、強張った身体から力は抜けず、視線は相変わらず落ち着かない。
赤毛の男の人は、ため息にも似た息を一つ吐くと、私を抱き上げた腕に力を込める。
その腕が私をしっかりと拘束して、赤毛の男の人は歩みを速めた。
大丈夫かもしれない。
フードの奥から、癖毛の赤毛がもさもさと揺れるのと、不精髭を見ているとなぜかそう思えた。
もし、あの男の仲間だとしたら、見つけられ次第、またすぐに袋詰めにされるだろう。
こんな風に私と会話をしたりしないはずだ。
……そう思いたい。
ぐるぐる考える私をよそに、赤毛の男の人は歩き続ける。
大通りから路地に入り、さらに細い道へと入っていく。
路地に入ると街灯が無くなり、辺りはどんどん暗くなる。
暗闇に目が慣れてきたころ、細い道は行き止まりになり、その突き当りに古い木戸の年季の入った建物が現れた。




