30
テラスをじりじりと後退する私を、冷たい薄水色の瞳は何の感情も含まずに見る。
いまさら隠しても遅いのだろうけど、黒く戻ってしまった自分の目を隠したくて、目を逸らそうと何度も試みるも、視線を逸らせば恐ろしいことが起きる様な気がして、視線を交わしたまま距離を取る。
男は一目で上質だと分かるテールコートを着ていた。
間違いなく晩餐会の招待客なのだろう、ということだけは分かる。
クヴェルミクスほどではないが男の髪は長く、冷たい色をしていた。
夜風に男のブルーグレーの髪が揺られ、飾られた髪飾りが鳴る。
男の髪は、顔の右側を縁取る部分だけが顎の位置ほどに短く切り揃えられ、後の髪は胸を隠す長さで一つに結われ、左肩から前へ流されていた。
薄水色の切れ長の瞳の上で、真っ直ぐに切り揃えられた前髪が規則正しく夜風に揺れる。
黒い目の私に驚きもせず、ただ見据える男に私は言いようの無い恐怖を感じていた。
後ずさっていた背中が、テラスの柵に阻まれる。
「こんなところに紛れ込んでいたとはな。どおりで見つからないはずだな」
無表情のまま、男は淡々と口を開く。
それは私に対して言っているのではなく、独り言の様だった。
「運ぶのに、手間取りそうだな」
私を頭から爪先まで一瞥すると、男はそう言った。
紛れ込む。見つからない。運ぶ。
男の少ない独り言から理解する。
目の前の人物こそが、私をこの世界に呼んだのだろう。なにか、目的を持って。だから私を探していたのだ。
探していた答えを持っている人が目の前にいる。
それなのに、私が感じているこの恐怖は何なのだろう。
ただ見られているだけなのに、声も出すことができず、逃げようとする身体はさっきからずっと震えていた。
怖い。怖い。怖い。と、身体の奥から湧きあがる感情に戸惑う。
目の前にいるのはたった一人の男の人で、線も細く、見た目には恐ろしい所など一つも無い。
けれど、その目が、声が、私を怖がらせた。
大広間から漏れ聞こえる弦楽器の奏でる旋律が、薄情そうにテラスに届く。
白騎士もクヴェルミクスも、まだ戻って来てはくれない。
「騒ぎ立てないところは賢いな。それとも、なにも分かっていないのか」
男がこちらに手を伸ばした。
走りだして逃げたいのに、身体は凍りついたように動かない。
私の顔を目がけて光る粉末が降ってくる。
抗うことが出来ず、私はそれを吸い込んでしまう。
すとんと暗闇に落ちるように、私は意識を手放した。
ほかほかと胸が温かかった。
久しぶりに聞く懐かしい人たちのざわめき。
乳白色のもやの中、大きな丸テーブルにみんながいた。
紅茶と珈琲の行き交うテーブル。山盛りのチョコレート。尽きないお喋り。
私の分の椅子は、ちゃんと空いていた。
ぽかりと開いたその空席に、早く座らなくてはと走る。
走って。走って。走って。でも、たどり着けない。
それどころか、丸テーブルは遠ざかっていく。
足を止めた時には、そこには何もない。誰もいない。
はっと目を見開いた。
けれど私の目は、なにも映さなかった。
真っ暗闇の中、私は何度も瞬きをするけど、相変わらずの暗闇。その上、どこか息苦しさも感じる。
自分が今置かれている状況が、まったく理解できない。
姿勢は、横たわっている。そろりと手足を動かすと、特に拘束されている感じはしないけれど、なんだか違和感を感じる。
手を伸ばす。伸ばせない。
置き上がる。起き上がれない。
目を見開く。何も見えない。
どうやら私は、大きな袋に入れられているようだ。
手探りする手が触れるのは布。その布の向こうに硬い感触がある。
暗闇と圧迫感に叫びだしたくなるのを堪えながら、辺りを探り続ける。
私を入れた袋の口は固く縛られているようで、中からはとても開けることは出来なそうだ。
それが分かると、息苦しさは増してくる。
もう一度、自分を包む布地に触る。手触りからは、ごく普通の綿の布地だと思う。
……それなら、中から破けばいい。
胸元を探り、魔法石をたぐり出す。
緑色の魔法石を手に感じて、少しだけ呼吸が落ち着いた気がした。
汗ばむ手で魔法石を握る。
手と足を使って布地をピンと張ったところに、雫型の魔法石の先端を突き立てる。
プツと秘かな音を立てて、布に魔法石が刺さった感触を感じた。
そこを見失わないように、すぐさま魔法石が開けた穴に指を掛ける。
一度、二度、と指先にありったけの力を込める。
三度目に布目と力の向きが一致したのか、大きく布が裂け始めた。
広がった穴を両手で掴み、さらに引き裂く。
空気が入ってくる。けれど、まだ暗闇のままだ。
横になったまま上に手を伸ばすと、今度は固い物に触れる。ざらりとした質感は木の板の様だ。
手でたどると、右側も左側も同じ感触。
どうやら布袋に入れられた上に、木箱にでも入れられているようだ。
厚そうな板を触って、ため息をつく。
これを壊すことは無理だろう。そう思って力なく木の板を押すと、冷えた空気と薄明かりが滑り込んできた。
「えっ? えぇ!?」
驚きの声を零してしまった口を自分の手で塞ぐ。
入りこんでくる空気を胸の奥まで吸い込むと、ゆっくりと手を伸ばし木の板を持ちあげる。
微かに軋みながら、けれど呆気なく、木箱の蓋は難なく開いた。
身を起こして見回すと、そこは見慣れない部屋の一室。
灯りの消えた薄暗い部屋は、広々とした寝室だった。
部屋の隅に置かれた木箱の中から静かに這い出す。
嵩張るドレスのおかげで、布袋から抜け出すのに手間どってしまった。
木箱から出ると、窓へと駆けよる。
カーテンをめくり覗いた景色は、見覚えのあるものだった。
城下街の灯りにホッとする。
ここはお城の中の一室のようだから、この部屋を出れば、どうにか戻れるだろう。
寝室には、廊下に出る扉が無い。
続き間へ続く扉から隣室に入り、そこから廊下に出ることが出来るはずだ。
幸いにも隣室に人気は無い。
扉に付けた耳を離すと、静かにドアノブに手を伸ばす。
ガチャリと音を立てて扉が開く。
が、開いたのは隣室の扉だった。
ドアノブを握ったまま、私は息を殺す。
出ようとしていた隣室に、タイミングも悪く誰かが入って来た。
扉から離れて隠れるべきだと思った。
けれど隣室から漏れ聞こえてきた声に、私は耳をそばだてる。
「騒ぎは起きていないか?」
聞こえてきた声に、背筋がひやりと冷える。
抑揚も感情も無い声音は、あの薄水色の瞳の男のものだった。
「そうですね。取り立てて大広間に目立った動きはありませんが、居なくなったことに、まだ気が付かれていないだけかも知れません。一人で晩餐会に出るとは考えられませんから、連れがいるはずです」
低い男の声が答える。こちらの声に、聞き覚えは無かった。
話している内容は、間違いなく私のことだろう。
大広間からここまでどうやって連れてこられたのかは分からないけど、気を失ってからそんなに時間は経っていないようだ。
クヴェルミクスも白騎士も、まだ私がテラスから居なくなっていることに気が付かないのだりろうか?
いや、気が付いたとしても、騒ぎ立てて探すことなんて出来ないだろうけど。
「連れか。誰かの庇護下にいたことは、間違いない様だな」
「そのようですね」
「まぁ、いい。それらの追及はここを出て、国に戻ってからだ。出立は予定通り明朝だ。お前は、もう少し周囲を調べてから戻れ」
「承知いたしました。それで、あの状態のままでお運びになりますか?」
「あぁ、あのままで構わない。ラヴァンソニの粉を吸わせたからな、二日は目を覚まさないだろう」
薄水色の男の声に、粉っぽさが喉に張り付くような感じがしてくる。
男があの時テラスで私の顔に投げつけたのは、睡眠薬の類だったようだ。
二日は目を覚まさないなんて、なんて強力な粉なんだろう。
それなのに今こうして目覚めていることは、不思議だけど助かった。そうでなければ、袋詰めで箱詰めされたまま運ばれていたということだ。
「お前も、持ち場に戻れ。私も広間に戻らねばな。あまり姿を隠していて怪しまれても面倒だ」
話は終わったようだ。
部屋を出ていく男たちの動きに、耳を澄ませる。
扉が閉められる音がする。
静まり返った部屋の様子を、辛抱強く探る。
本当はすぐにでも逃げ出したいけれど、ここで見つかってしまったら意味がない。
十分すぎる間をおいて、ゆっくりと扉を開いた。
灯りが付いたままの隣室には誰もいない。
廊下へと出る扉に駆け寄り、そっと扉を押す。細く開けた扉から、外の様子を窺う。
そこに誰の気配もないのを確認すると、私は廊下に走りだした。
冷たい石の廊下が、靴を履いていない私の足を冷やす。
靴はテラスで脱いだままにしてきてしまったけど、あの靴では走れなかったから良かったのかもしれない。
見慣れない廊下を走りながら窓の外を見ると、図書館が見えて足を止める。
図書館があの位置にあるのなら……。
何となくながら、白騎士の部屋の位置が分かった。
重いドレスの裾をたくし上げて、私は再び走り出した。
与えられた自室に入った時には、安堵感からか腰が抜けたように床にへたり込んだ。
このままベッドに潜り込めたら、どんなにいいだろう。
見慣れた部屋をぐるりと見渡すと、力の入らない足をどうにか立たせる。
白騎士の執務室は無人だった。
まだ晩餐会の最中なのだろう。おかげで、廊下で誰かに遭遇することもなかった。
クヴェルミクスが着せてくれたドレスも、結われた髪も、久しぶりの化粧も、散々な有様だった。
綺麗な薄紅色のドレスはすっかり皺だらけになってしまっているし、結われた髪もばらばらに乱れている。
浴室に入り、鏡を見ながら付け毛を外す。
案の定、化粧はすっかり崩れている。あんな袋に入れられた上に、ここまで汗だくで走って来たのだから。
そして、鏡の中からこちらをおどおどと見返す私の目は、やっぱり黒いままだった。
それを見ないように、私は急いでドレスを脱ぐ。
勢いよく出した蛇口の水で、乱暴に化粧を落とす。
冷静になろうと、何度も冷たい水で顔をこすった。
顔を拭くのもそこそこに浴室を出ると、衣装箪笥を開けた。
引出しから皮の荷袋を引っ張り出す。ここには、森を出た時に着ていた服が入っている。
サイズの合わない大きめのズボンに、少しごわつく木綿のシャツ。分厚いセーター。綻んだ皮靴。そして、大きなフードの付いた年代物のコート。
着替えた私は、城の一室には不釣り合いな格好になっているのが鏡を見なくても分かる。
衣装箪笥をちらりと見れば、行儀良く従者の衣装が並んでいる。
アルトさんが揃えてくれた衣装は、まだ袖を通していないものもあった。
荷袋を背負うと、コートのフードを被る。
しっかりと深くフードを被ると、私は部屋を出た。




