27
「重い……。重いです……」
苦しげな私の呻き声は、薄暗い廊下に吸い込まれた。
助けを求めたいのに、そんな時に限って通りかかる人はいない。
後方からは紳士淑女の上品なざわめきと交じり合うグラスの音、そして弦楽器が奏でる優雅な調べが遠く聞こえてくる。
やっぱり一度戻って、誰かに手伝いを頼む方がいい気がして足を止めれば、圧し掛かる重力が増す。
これは、どう考えても無理がある。
今夜はお城で大規模な晩餐会が開かれていた。
聖誕祭を終えて、降り積もった雪に包まれたお城が平時を送ったのは、ほんのひと時。
末のお姫様、クラリッサフローレット様の成人の儀を控えた城内は、再び忙しない雰囲気に包まれた。
とは言っても、国を挙げての聖誕祭とはやはり違い、お姫様と言うこともあり催しは全て城内だけで済まされる。
白騎士もアルトさんも、聖誕祭前に比べればのんびりとしたものだった。
かわりに忙しくしているのは、女官長のパメラさんだ。
お姫様の細事もろもろを取り仕切るのに加えて、各国からの来賓の滞在の指揮。
成人の儀に際しては、近隣諸国からのお客様が城に滞在されるそうで、それは各国の王の代理の使者様方で、王子だったり王女だったり、外交を担うお偉い方々。
その方たちとお付きの皆さんの数日の寝食の手筈を整えるパメラさんは、連日たくさんのメイドを引き連れて城の至る所で忙しそうにしていた。
成人の儀の前夜には晩餐会が行われ、各国の使者が持て成される。
成人の儀が済んだその夜には、お姫様の成人を祝う晩餐会。
二晩続けての晩餐会のために、聖誕祭の最後の日とは打って変わって、城中の勤め人が総動員される。
もちろん今回も、パメラさんの命によって私は給仕として駆り出されている。
今回は一つの仕事を繰り返しおこなうことを命じられた。
晩餐会場から食器を厨房に下げるというお仕事。
見習い従者の私は、パメラさんの認識では城の勤め人としては半人前もいいところなのだろう。
晩餐会場に決して立ち入らないこと、来賓の方の目に触れないようにと、十分に釘を刺されてから給仕の制服に袖を通したのだった。
白騎士もアルトさんも、給仕の制服を持って部屋に現れたパメラさんに渋い顔をしたけど、忙しさの最中に居られるパメラさんの気迫は尋常では無く、早々に私は彼女が手にしていた白と黒の制服を受け取った。
そうして迎えた一日目の晩餐会の夜。
順調に仕事をこなす私の元にパメラさんがやってきた。
晩餐会場の裏手部屋で、下げられた食器類をワゴンに乗せている私の所に。
「速やかに、そして密やかに、これを部屋にお運びなさい」
明かに怒気を含んだパメラさんの声の先、険しく鋭い視線の先には、壁にもたれてゆらゆら揺れる白いもの。
パメラさんが裏手部屋に運び込んできたのは、すっかり泥酔した白騎士だった。
「え? ……あの、どうしたらいいんですか?」
私の問いかけにパメラさんは答える暇もないといった様子で、晩餐会場へと踵を返した。
もちろん、白騎士を置いて。
そして、ゆらゆら、ふらふら揺れる白騎士を伴って、いま廊下にいるというわけになっている。
完全に酩酊状態の白騎士は、千鳥歩きの見本のような歩き方しか出来ず、それをどうにかこうにか引きずり歩いてここまで来た。
白騎士は移動したことによって更に酔いが回ったようで、先ほどからブツブツと聞き取り不可能なひとり言を口にしている。
そんな白騎士の様子も多少は気になるけど、私のいま一番の気がかりは、先ほど接触して割ってしまった壺のことだ。
廊下の途中に飾られていた壺。
絶対に確実に、高い代物に決まっている。
そうでないものが、一国の城の廊下に飾られるはずは無いのだから。
私の脳裏をよぎるのは、パメラさんの凍てつく眼差し。
あれは、私の所為になるのかな?
弁償ということになったら、今までのお給金だけじゃ絶対に足りない。
部屋までの道のりは、まだ半分以上。
泣きたくなってくる。
支える白騎士の身体は、重い上にお酒臭い。
はぁ。とため息をつけば、すっかり座りきった目の白騎士が私にぎゅうぎゅうと圧し掛かる。
「なぜ、とまる……」
「いえ、このままでは部屋にたどり着ける気がしないので、誰かを呼んできます」
「主一人、運べなくて、従者が、務まると、思っているのか」
泥酔い状態でも、理不尽な物言いは健在のようだ。
助けを呼ぼうにも呼べないまま、ようやく部屋にたどり着いた時には私はへとへとだった。
実はまた一つ、壺を割ってここまできた。
もう、全面的に白騎士がぶつかって落としたことにしようと決めている。
半覚醒の白騎士に促されるまま、執務室の隣の部屋へと進む。
柔らかなオレンジ色の灯りが燈る部屋の長椅子に白騎士をどうにか預けると、私は床にぐったりと座り込んだ。
白騎士はそのまま寝落ちるかと思いきや、うわ言のように『みず、みず、みず……』と繰り返す。
「水ですか?」
げんなりしながら立ち上がり、くるりと部屋を見回しても、この部屋に水差しらしき物は見当たらない。
私は自室へ戻ると、自分用の水差しとコップを手にする。
急いで白騎士の元へと行けば、長椅子にその姿が無い。
冷たい風に頬を撫でられて見れば、カーテンが夜風にはためいている。
カーテンの向こう側はバルコニーだった。
バルコニーには、緑青色のテーブルとイスが設えられていた。
そのイスに、月明かりに照らされ冬の夜風に吹かれて白騎士がいる。
自分でそこまで移動できるのなら、廊下の移動も協力してほしかった……。
などと思いながら、寒いバルコニーへと私は渋々出る。
白騎士はぼんやりとした目つきで、眼下の雪の積もる暗い庭を眺めていた。
冷たい夜風に冷まされたのか、先ほどまで真っ赤だった顔も、白く落ち着きを取り戻している。
水差しからコップに水を注ぐと、白騎士の前へ置く。
とりあえず一杯。この水を呑んでもらったら、部屋に入ってもらわなければ。
こんな寒い所にいたら、白騎士はひかないかもしれないけど、私は確実に風邪をひくと思う。
白騎士はテーブルに置かれたコップに目をやると、手を伸ばし一息に飲み干した。
「大丈夫ですか? ここは寒いので、お部屋に戻ってください」
空になったコップがテーブルに戻される。
白騎士がこちらを見た。
唐突に乱暴に、白騎士の手が私の腕を掴んだ。
私の手から落ちた水差しが、バルコニーに音を立てる。水が零れる。
立ち上がった白騎士が、私を掴む手にさらに力を込めた。
驚いて白騎士を見上げた途端、私の視界は白騎士に閉ざされる。
落ちてきたのは、白騎士の唇だった。
くい、と押し付けられた柔らかな感触に目を見開けば、金色の髪が私の睫毛をかすめる。
背中が、バルコニーの白い石の手摺に押しつけられた。
後頭部に回された白騎士の手が、私の顔を上向きに固定する。
至近距離すぎて、白騎士がどんな顔をしているのかは見えない。
これは……。
これは、いわゆる、キスですよね。
あれ? なんで白騎士は私にキスしているんでしょうか?
えーと? 白騎士は男の人で、白騎士の知る私は少年で、……男の人で、……少年で、本当は違うけれど、私たちは同性で……。
唇と唇がぴったりと合わされたまま、ようやく私の思考が動きだした。
私の声にならない抗議の声は、白騎士に全て吸い込まれていく。
体内の酸素が絶対的に不足しだした。
息苦しさは、私の混乱を加速させる。
頭の片隅ではまとまらない思考が、バラバラと勝手に走りだす。
何故か、クヴェルミクスがあの桃色の本を手にした姿が脳裏を過ぎる。
綺麗な桃色の本。飾り文字。
見開きに描かれる男の人と、男の人……。
白騎士に囲い込まれた身体も、そこから逃れようと必死に身動ぎを始める。
逃れようとする私の動きに、白騎士は拘束する力を強めた。
身動きを完全に封じながら、白騎士の指が私の髪をくしゃりくしゃりと掻き乱す。
息苦しさに耐えかねて、口から酸素を取り込みたくて、私の固く結んでいた唇が緩む。
それを唇で察した白騎士の舌が、口の中へ割り入ってくる。
全力で身を引いても、私を抱え込む白騎士の戒めはびくともしなかった。
「くっっ!!」
白騎士が小さく呻いた。
さらに奥へと進もうとしていた舌が怯み、囲われた腕の力が弱まった。
私はしゃがみ込む様にして、白騎士の元からすり抜け逃れる。
自分の口元を押さえた白騎士が私を見るのと同時に、私はバルコニーから部屋へと駆け戻る。
執務室に走り込むと、両開きの扉を音を立てて閉める。
ずずっと足から力が抜けて、扉を背にへたり込む。
肩で息をして、酸欠の魚みたいにぱくぱくと大口を空けて呼吸を繰り返す。
酸素を取り込めば取り込むほど、鼓動が加速した。
「ユズコ?」
不意に頭上から呼びかけられて、私の身体は驚き跳ねる。
いつの間に入ってきたのか、見上げればそこにはアルトさんがいた。
「……どうかしたんですか?」
床に座り込み、乱れた呼吸の私に、アルトさんは眉を寄せる。
なんでもない。と、即座に返答することが出来なかった私の口元に、アルトさんの視線が留まる。
「怪我をしたのですか?」
口元に伸ばされたアルトさんの手を遮るように、乱暴に口元を拭う。
伸ばした手をそのままに、アルトさんは私を凝視した。
「ユズコ。なにがあったんです――」
「なにもありません! 大丈夫です! あの、私、仕事が途中なので戻ります!」
アルトさんから視線を逸らして、私は一息にそう言うと廊下へ出た。
背後から呼びかけてくれるアルトさんの声は、聞こえないふりをして扉を閉める。
ほとんど走る様に、廊下を進む。
口の中に少しだけ感じるのは血の味。
白騎士の行為を止めたくて、私はその舌に噛みついてしまった。
ちらりと見れば、口元を拭ったシャツの袖口にかすかな血の跡が残っていた。
ぐったりと湯に浸かると、疲れた身体がほわほわと温まる。
はぁ。と大きなため息が、明け方間近の浴室に反響した。
晩餐会場から食器を下げるが終わった後は、自ら進んで厨房の洗い場を手伝った。
大量の食器を無心で洗う。
洗っても洗っても減らない食器にどこか安堵していたのに、やがて食器は全て洗い尽くされて、洗い場の人たちに感謝されながら私は厨房を後にした。
重い足取りで自室へと向かう。
廊下から直接部屋に入ると、バルコニーへ持ち出したままだったはずの水差しは戻ってきていた。
明日も朝から給仕としての仕事があるから、二人の騎士と顔を合わせずに済むかもしれない。
たぶんアルトさんはあの後、白騎士を介抱してくれているはずだ。
温かいお湯の中で、今夜の出来事を思い返す。
ずんと胸が重くなる。
白騎士は酔っていた。
それも、そうとう酷く酔っていた。
と、言うことは、恐らくアレに何ら意味などないのだろうし、きっとソレは記憶にすら残っていないと思う。
なので、そんな酔っぱらいの戯れは、さっさと忘れてしまうのがいい。
ばしゃりばしゃりと、意味も無くお湯をかき混ぜる。
白騎士だって、酔って醜態をさらした上に、少年と認識している見習い従者にしたことなんて知りたくもないだろうし、私としても一刻も早く忘れたい出来事だ。
ざぶりと鼻の下まで湯に浸す。
今、私の顔が上気しているのは、お湯に浸かりすぎているからだ。
決して、アレソレを思い出して赤面している訳ではない。
赤面していたとしても、それは照れとか恥じらいからではなくて、憤慨しているんだ!
だって、あんなのが、まさかの初回になってしまうとは……。
別段、大切に守ってきた訳ではなくて、ちょっと機会に恵まれなっただけなのだけど、あれが、ファーストキスになる……。
思いだすと顔が更に熱くなる。
ざぶんと頭の先まで湯に沈めて、固く目をつぶった。
……犬だ。
あれは、目付きは悪いけど毛並みの良い大型犬に、じゃれつかれたと思うことにしよう。
ゴールデンレトリーバー的なのにありがちな、過度のじゃれ付きが起こした事故みたいなものだ。
息の続く限り、お湯の中でそう繰り返し念じたことで、浴室を出る頃にはだいぶ平常心になっていた。
けれど、割ってしまった壺のことを思い出して、胃の辺りがきゅうと苦しくなった。
起床までの短い睡眠時間。
私は吊り目の黄色い大型犬から、壺を抱えて追い回されるという分かりやすい夢を繰り返し見た。
 




