18
朝の冷たい空気を以てしても、私の眠気は全く払拭されない。
騎士の訓練場の片隅で立ったまま船を漕ぎ、何度も手に持ったタオルを落としかけて早小一時間は経過していると思う。
人気の無い訓練場では、白騎士さまが今日も一人、鍛練に励んでいらっしゃる。
昨晩、無事に魔法を掛けてもらった私が魔法塔を出たのは、ほんの数時間前。
部屋に戻って寝支度をして、布団に潜り込んだのが明けの刻を過ぎたころ。
白騎士に叩き起こされたのが、朝の刻の鐘の前だったから、正味二時間も寝ていないことになる。
四日に一度、あの痛い魔法とこの寝不足の早朝鍛練観戦は大変かもしれないと、今日何回目になるかわからないアクビを噛み殺す。
けれど雇われの身な上に、いろいろと便宜を図って頂いているこの現状で、文句を言える筈もない。
それにお城に来てからは、あまりこれといった仕事もしていない。
洗濯は係りの人がしているし、私がしていることといえば、お茶の支度に、こうして寒空の下のタオル持ちくらいなのだ。
それでも、眠いものは眠い。
再びこっくりこっくりと舟を漕ぎ始めた私の頭上に、冷たい声が落ちてくる。
「おい」
「は、はい!」
目の前には白騎士。
今日はいつもより早く、鍛練を切り上げたようだ。
「タオルですね。どうぞ。」
そそくさと差し出したタオルを無言で取り上げて、汗を拭う白騎士。
なんだか、運動部のマネージャーの様な気持ちになって来る。やったことはないけれど。
ぴかぴかの金髪にきらきらの汗。白いタオルが良くお似合いになる。
これは、お城のメイドさんたちにキャーキャー言われているのも頷けるけれど……、
「戻るぞ」
バサリ。と私の頭上にタオルを雑に落とすと、白騎士は歩き出す。
いつもどおり、私の歩幅を全く無視した歩行速度の白騎士の背中を私は小走りで追った。
早朝鍛練の後、白騎士は自室に戻り入浴、そして朝食を取る。
朝食の手配、支度、給仕は、あのパメラさんが取り仕切っているということなので、私に出る幕はない。というか、下手にパメラさんの前に出ることは避けたい。
その時間を、私は食堂でゆっくりと過ごせることになっている。
毎朝、選び放題食べ放題の、まさに朝食ブッフェは、私のここでの一番の楽しみだ。
「シュテファンジグベルト様。私は、ここで」
白騎士が自室に戻るために上る階段前で、いつものように告げる。
ここで白騎士を見送った後は、食堂で自由時間だ。
「今朝は早めに戻れ」
いつもなら、無言で頷いて階段を上がっていくはずの白騎士が振り返った。
「? はい。わかりました」
私の返事を聞くと、白騎士はそのまま自室へと戻っていく。
なんだろう? 今日は何か特別な用事でもあるのかもしれない。
食堂に入ると、今朝も部屋一杯に美味しい香りが満ちていた。
白騎士の早朝鍛練が本当に、他を群と抜いての早朝なので、私はいつも混雑前の食堂を使うことができる。
出来たての料理がたくさんあるし、ほとんど空席の食堂で、かなりのんびりと過ごせる。
この点だけは、早起きな白騎士に感謝してもいいかもしれない。
訓練上がりの騎士たちで溢れかえった食堂は、一言でいえば混沌そのもの。
とても落ち着いて食事どころか、目当ての料理にもたどり着けないと思う。
並ぶ料理を一通り見て、私は黄色いスープをもらった。
普段なら、一汁三菜……といわず五、六菜は選ぶ朝食だけど、今朝は寝不足でいまいち食欲がわいてこない。
少なめに盛ってもらったスープで簡単に朝食をすますと、いつもの食後茶をフフ茶ではなくジィジィ茶にする。
苦みの強いジィジィ茶は、普段なら飲まないけれど、眠気覚ましを期待しての選択だ。
眉間にしわを寄せながらジィジィ茶を飲み干して、食堂を出る。
白騎士の言いつけどおり、早めに部屋に戻ろうと廊下を進むと、向こうから歩いて来る人たちがいる。
食事用のワゴンを押すメイドさん達の後ろに、パメラさんを見つけて、私は廊下の端に寄れるだけ寄って立ち止まった。
「お、おはようございます」
挨拶をしない訳にはいかない。
相変わらず、厳しい顔つきで私の挨拶に頷きを返したパメラさんは、立ち止まり私を見下ろした。
メイドさん達はそのまま行ってしまい、廊下に二人きりになる。
鋭い目つきで見られて、私は今朝の自分の身支度を思い返す。
寝癖もそんなに付いていないし、服にもおかしなところは無いはずだけど……。
「……。昨晩は魔法塔で何を?」
たっぷりと様子を点検された後、パメラさんがようやく口を開いた。
パメラさんが口にした言葉に、私は驚いた。
昨夜の今日で、もう私の行動を彼女は把握していたのだから。
女官長の情報網、恐るべし。
「え? あ……。クヴェルミクス様に、魔法史を教えて頂いています。えと、シュテファンジグベルト様の薦めで、その、……」
人目に付かない時間のこととはいえ、夜更けに魔法塔に出入りするに当たって、アルトさんは建前を用意しておいてくれた。
それを、まさかもう使うことになるとは思わなかった。
たっぷりと間をおいて、パメラさんは頷いた。
「……わかりました。あまり遅い時間に出歩くのは感心しませんが、粗相のないようにお過ごしなさい」
「は、はい!」
そう言い置いて、パメラさんは去っていく。
その背中を見送ってから、私は急ぎ足で部屋へと戻った。
なんだか、嘘を見透かされている気がする。
今後も、なるべくパメラさんには、お近付きにならないようにしておこう。
「ユズコです。戻りました」
「おはようございます。ユズコ」
部屋にはすでにアルトさんがいた。
書き物机の上で、書類を揃えている。
白騎士は、窓際に立って手にした書類に目を通している。
「私たちは、これから会議にいってきます」
まとめた書類の束を持ってアルトさんが言うと、白騎士が命令する。
「お前はここで、留守番をしていろ。ちょろちょろと出歩くなよ」
なるほど、それで早く戻るように言われたのか。
けど、ちょろちょろするなって、言われなくてもしません。迷子になるし。
思うところはあったものの、私は大人しく返事をする。
「夕べは遅かったのでしょう? 休んでいていていいですよ」
労わる様にアルトさんが言うと、白騎士がむっとした顔をする。
甘やかすなとでも言いたげだ。
私を残して、二人は部屋を出ていった。
部屋に残された私は、取りあえず長椅子に座る。
アルトさんのお言葉に甘えて、少し休憩をしよう。
それから、なにをしていようか? 掃除も係りの人がやってきてしてくれるし……。自分の部屋の掃除でもしようかな。
そんな風に考えているうちに、私はストンと眠りに落ちてしまった。
「貴方が今の従者?」
凛とした高い声に目を開けた。
まだ霞む視界いっぱいに、見知らぬ人の顔。
「え? は?」
かすれ声で驚く私に構わず、興味深そうに私を覗きこむ少女が居る。
まだ覚醒しきっていない視界と頭で、辺りを確認する。
ここは、白騎士の部屋で間違いない。
目の前の人物は、艶々した栗色の髪を素敵に結い上げて、豪華なドレスを着ていた。
ドレス。
こんなに近くで見たのも、それを着ている人にお目に掛るのも初めてだ。
きゅっと締まった腰から、ポワリと広がるスカート。スカートの裾と袖元に、ふんだんにあしらわれたフリルとレースは三段展開。全体は上品なアプリコットカラーで、ポイントの装飾部分には赤が使われている。
ドレスの装飾と同じ赤い髪飾りが、窓からの陽光を受けてチカリと光った。
美しいドレスを完璧に着こなした少女は、大変な美少女だった。
意思が強そうな少し上がった目尻の大きな瞳は赤く、長い栗色の睫毛に縁取られている。
大人びた顔立ちをしているけれど、きっと私より年下だろう。
「なんだか、今までの者とは感じが違うわね」
そう言うと美少女は、未だやや放心状態の私が座る長椅子の向かいにある一人掛けに腰を下ろした。
そこでようやく自分が座ったままだったことに気がついて、私は慌てて立ち上がった。
「すみません。あの、どちらさまで――」
少女は深く溜息を吐き、座った椅子に身を預ける。
なんだかお疲れのようだ。そして、私に対する興味は薄れたようだ。
「はぁぁ。お茶にしたいわ。用意して頂戴」
さっきまであれほどこちらを見ていた少女は、今度は私を見もせずに気だるそうに告げた。
とても慣れている。人に命令することに。
「えーと……。はい。ただいま?」
とりあえず、言うことを聞いておくのが間違いなさそうな人物なのは間違いない。
だって、ドレスだし。美少女だし。
そそくさと部屋を退出して、私は支度部屋に急いだ。
「失礼します! お茶をお願いします」
小走りに支度部屋に駆け込むと、いつものメイドさんが迎えてくれる。
「あら、ユズコ? 珍しい時間に来るのね。シュテファンジグベルト様とアルトフロヴァル様のお茶? ……あら、でも。お二人とも今は会議にお出かけよね」
首を傾げるメイドさんに、私は頷く。
「ええ。そうなんですけど。白騎士様のお部屋に、お姫様の様な方が突然いらしてまして、お茶をと言われたんですが……」
困惑気味に伝えると、メイドさんには思い当たる節があったようだ。
「お姫様? あぁ、その方はクラリッサフローレット様よ。お姫様の様な方じゃなくて、正真正銘のお姫様よ」
「お姫様ということは……」
「ホルテンズ王国の第三王女クラリッサフローレット様。一番末の王女様よ。あら、いけない、クラリッサフローレット様がお茶をご所望なら、急がないと! 待たせると、怒られるわよ」
慌ただしく、メイドさんがお茶の支度を始める。
私は取り出しかけた、手帳をポケットに戻した。
名前。
例によって、またしても長い名前だった。とても一度や二度、三度では覚えられない。
そうこうしているうちに、驚きの早さで用意されたティーワゴンと共に、支度部屋を送り出された。
ワゴンの上はいつもとは全く違った雰囲気だ。
ティーセットは姫様好みのピンクの可愛らしいものが揃えられ、いつもは無いデザート皿には焼き菓子が並ぶ。
走ることは出来ないので、出来る限りの早足で部屋に戻ると、お姫様の叱責に出迎えられた。
「遅いわよ! すぐに支度して頂戴」
慌ててお茶を入れ始める私から、お姫様はティーワゴンに視線を移す。
「お茶はローズベリ―がいいわ。……こんな地味な焼き菓子しかないの?」
並んだ焼き菓子にお姫様は眉を顰めた。
つやっとしたきつね色の焼き菓子はとても美味しそうだけど、たしかに見た目に派手さは無い。
この点はメイドさんも懸念していたようだ。用意をしながら、『このところいらしてなかったから、お好みのお菓子の用意が出来ていないのよね』と零していた。
「すみません」
お茶を淹れる手を止めて謝罪すると、お姫様はふいと顔を横に向けた。
「まぁ、いいわ」
お許しの言葉を頂けたようだ。
ティーポットにお湯を注ぐと、赤色のお茶が入る。上って来た香りは、華やかで甘酸っぱい香り。
お姫様ご所望のお茶、『ローズベリー』は、薔薇と木苺の紅茶だそうだ。
これがお気に入りのお茶らしく、『取りあえずこの紅茶があれば大丈夫よ』とメイドさんは言っていた。
「どうぞ」
ピンクの可憐なティーカップに赤い紅茶を注ぎ、お姫様の前に慎重にお出しする。
何度もここでお茶を淹れたけれど、まだまだ緊張してしまう。
上品な仕草で紅茶を飲むお姫様は、満足げに目を細めると焼き菓子へ手を伸ばした。
「クラリッサフローレット様!」
突然開け放たれた扉から厳しく呼ばれて、お姫様の手は焼き菓子の上で止まった。
聞き覚えのあるその声に、私はビクビクと扉を振り返る。
仁王立ちというには、上品な佇まいで、けれど十分な気迫で、そこにはパメラさんが立っていた。
パメラさんの後ろには、困った顔をしたメイドさんが数人いる。
「パメラ……」
焼き菓子に伸ばしていた手を引っこめると、お姫様は苦々しく呟いた。
廊下に引き連れたメイドたちを残し、パメラさんがお姫様のそばへ歩み寄る。
不機嫌そうに顔を顰めて、お姫様は紅茶を飲んで、パメラさんから顔を背けた。
「採寸も生地の見立てもまだ終わっていません。ここで何をしておいでです?」
パメラさんの冷たい声の問いかけに、お姫様は少しも怯まなかった。
「なにって、お茶よ」
ツンと答えると、お姫様はまた一口、優雅に紅茶を飲む。
「お茶ならお部屋にご用意します」
パメラさんの声はすっかり凍りついている。
聞いているだけで、なんだかこちらが叱られているような気になる。
「部屋でお茶なんて、休まるものも休まらないわ。みんなの着せ替え人形になるのは、ご免よ」
「お母様も、お姉さま方も、クラリッサフローレット様のためにとお集まりなのです。さぁ、お戻りください」
さらに温度を下げたパメラさんに、お姫様は渋々と紅茶をテーブルに置き部屋を出ていく。
後に続くパメラさんがこちらをちらりと見たけれど、彼女も何も言わずに部屋を出ていき、扉は閉められた。
しんと静かになった部屋に、お姫様の残した紅茶の香りが漂う。手付かずの焼き菓子が残される。
「え? なんだったの?」
取り残された私の独り言が、ぽろりと部屋に落ちた。
 




