16.5
巡回中の衛兵が大袈裟に道を譲って頭を垂れる。
すれ違えば、足早に衛兵は去っていく。まるで逃げるように。
そこで、暗いガラス窓に鈍く反射した自分の顔を見て、アルトフロヴァル・ラズールは納得した。
――ずいぶん不機嫌な顔で歩いてしまっていたようですね。
眉間に寄せた皺を解き、吊り上がった眦を下ろす。忌々しげに歪んだ口元を整えると、いつも通りの穏やかな表情がガラスに戻って来るのを確認して、彼は再び歩き出す。
夜の刻に城を歩く者は少ない。
特に魔法塔に向かうこの廊下をゆく者など、普段なら見回りの衛兵くらいだろう。その魔法塔に入ってしまえば、内部は衛兵すらも歩いていない。
そんな心細い道のりを一人で歩かせなければならなかったこと、妙なところで気の回る、性悪魔法使いに彼は心底腹が立った。
らしくないほど腹を立てたのは、久しぶりだった。
四日に一度、ひと晩。と、限られた時間内のこととはいえ、あの魔法使いの住処には出涸らしの紅茶葉一掴みだってやりたくないのが彼の本心だ。
だが魔法が絡んでしまえば、腐っても爛れても、彼が忌み嫌うあの魔法使いが現在の魔法塔で随一の実力者なのだ。
故に、その力を使えなければ、従者として勤めさせ続けることも、延いては王都に留め置くことすらも難しいのは分かっていた。
意識せずともたどり着ける部屋の扉を形ばかり叩いてから部屋に入る。
書き物机に向かっていた部屋の主が顔を上げた。
形式上は彼の上司になる金の髪の青年は、青い瞳で怪訝そうにアルトフロヴァルを見る。
「なんだ。はやかったな」
「そうでしょうね。魔法塔の入り口で、門前払いされましたからね」
不貞腐れたようにも聞こえる返答をして、アルトフロヴァルは長椅子に腰を下ろした。
その物腰は、普段よりもだいぶ粗雑だった。
「あれは、置いてきたのか?」
「ええ。一人で行かせました。『付き添いの入塔は認めず』との達しをわざわざ出していたようで。……本当に忌々しい」
悪態を零したアルトフロヴァルを、シュテファンジグベルト・リヒト・ディアマンルーイは軽く鼻で笑うと視線を書き物机の書類に戻した。
「……取って食われる、ということもないだろう」
素っ気なく言うと、シュテファンジグベルトは、持ちなおした羽根ペンで手元の書類にサインを入れ、次の書類を手に取る。
彼の前には明朝までに片付けておかねばならない書類が、ちょっとした書物分くらいの厚さであった。
「……わかりませんよ」
ボソリと剣呑な声色で呟いたアルトフロヴァルを、シュテファンジグベルトは意外そうに見返す。
色だけは穏やかそうな蜂蜜色の瞳が、不機嫌そうに細められていた。
同時に、シュテファンジグベルトは、身の内に妙な風が吹き込む様な、極些細な違和感を感じた。
シュテファンジグベルトは部屋の隅の扉を見る。
そこは、最近僻地で拾った見習い従者に与えた部屋だった。
貧弱な少年は、全く以って気が利かず世間知らずだったが、図らずもさせた食事の支度、洗濯の仕方は、悪くなかったので召抱えてやった。
今までの紹介状付の従者の様に、あからさまに媚び諂うことも無く、給金以外の見返りを求めてこないのも悪くなかったのだ。
このまま見習いから、従者へ、ゆくゆくは騎士見習いにしてやってもよかろうと、シュテファンジグベルトは道中で決めていた。
よもや、別の世界から来た者だとなど、考えもしなかったのだ。
そもそも、別の世界という物が存在することすら考えたことが無かった。
しかし、荒唐無稽な話だと一笑に付せなかったのは、黒い瞳を目の当たりにしてしまったからだ。
漆黒の瞳を前に、冷静沈着を売りにしているアルトフロヴァルでさえ、動揺を隠し切れてはいなかったことを、シュテファンジグベルトは思い出す。
本来ならば、シュテファンジグベルトの立場ならば、それは然るべき所に報告すべき事柄だった。アルトフロヴァルにおいてもそうだ。
けれど二人の騎士はそれをしなかった。
得意げに秘密を暴いた魔法使いが、異常なほどの関心をむけているのが面白くなかった。
報告してそれを公にしてしまえば、それの所有権は魔法塔に、魔法使いの下になることは明白だった。
何の示し合わせも無しに、シュテファンジグベルトとアルトフロヴァルは秘密を共有することを了承していた。
それは、魔法使いクヴェルミクス・ブルートロンプに対する感情から来るものだけではないことに、シュテファンジグベルトは気付いていなかった。
「随分と溜め込みましたね」
不意に掛けられたアルトフロヴァルの声に、シュテファンジグベルトは視線を扉から離す。
書き物机の傍らに、呆れたようにアルトフロヴァルが立っていた。
「だから、付いてこなくてよいと言ったのですよ」
アルトフロヴァルが言っているのは、北の端への任務にシュテファンジグベルトが無理矢理同行したことだ。
「城にばかりいては息が詰まる」
不機嫌に答えるシュテファンジグベルトと山積みの書類を見比べて、アルトフロヴァルは穏やかに言う。
「聖誕祭に、成人の儀と、催しが続くこの時期に何日も城を開けられるはずがないんですよ。暫らくは城下に出る暇もなさそうですね」
「そうだな」
「では、私が買いに行きましょうか?」
唐突な提案に心当たりが無く、シュテファンジグベルトは少し考えてから聞き返した。
「……なにをだ?」
「忘れたんですか? ユズコにチョコレートを弁償するのですよ。あと、焼栗でしたか?」
にっこりと外向けの笑顔を向けられて、シュテファンジグベルトは眉を顰めてからボソリと答える。
「暫らくは必要ない。……俺が、用意する」
「……そうですか、わかりました」
シュテファンジグベルトの返答は、アルトフロヴァルの予想していたものでは無かった。
意外に思いつつも、先程シュテファンジグベルトが見ていた扉をちらりと見やる。
今までの従者たちには、決して使わせなかったそこを。
「少し手伝いましょうか。ソレが終わらなくて苦労するのは、私ですからね」
シュテファンジグベルトは、無言のまま書類の束を差し出す。
それを受け取って、アルトフロヴァルは長椅子へ戻った。
紙を捲り文字を追い処理しながら、彼は頭の端で別のことを考え始める。
アルトフロヴァルは、近いうちに城下に行こうと決めていた。
見習い従者に身に着けさせるための、新しい衣装を仕立てるために。
それに、今は味気ない白色のスカーフを巻いている首元に、衣装に合わせた色味の、もっと柔らかなスカーフを用意するために。
自分の選んだスカーフをあの白く細い首に首輪の様に巻く、少年の様な従者を想像すればアルトフロヴァルの口の端は自然に上がった。
ふと、書類から顔を上げたシュテファンジグベルトは、長椅子を見て静かに眉を顰めた。
浮かべる微笑みが、あの魔法使いの微笑みにそっくりなことをアルトフロヴァルは知らないのかもしれない。
シュテファンジグベルトが、言ったところで認めないだろうから口にはしないが、その微笑みはクヴェルミクスに負けじとも劣らぬ邪悪なものだった。
恐らく、また善からぬことを考えているのだということだけは、シュテファンジグベルトにも分かる。
そんなシュテファンジグベルトの視線を余所に、深く黒く微笑みながら、アルトフロヴァルは書類の束を捲った。




