16
夜の刻が半分ほど過ぎた頃、冷えびえとした人気のない廊下に私の靴音だけが響く。
灯りが減らされた廊下は薄暗く、心細さが募ってしまう。
普段行き来していた城内とは違い、魔法塔は華美な装飾の類は一切なかった。
通り過ぎていく黒い扉は一様に同じ形で、扉には数字が記されていて、部屋番号の役目を果たしている。
つるりと磨かれた黒い石造の廊下を、教えられたとおりに真っ直ぐに進む。
目指すべきは、ここの最奥。
魔法塔一の実力者、クヴェルミクス様のお部屋だ。
本当はその部屋までアルトさんが付き添ってくれる筈だったのだけど、魔法塔の入り口に立つ衛兵さんがクヴェルミクスの命により、付き添いの入塔を認めてくれなかったのだ。
それを知ったアルトさんは、笑顔を崩さなかったけど、少し目が怖かった。
衛兵さんは、あからさまにアルトさんから目を逸らしていたし。
ようやくたどり着いたのは、番号の付いていない扉。
少し緊張気味の呼吸を整えて、私はその黒い扉を叩いた。
「はーい。どうぞー」
明るく間延びした、緊張感の欠片もない部屋の主の声を聞いて、私はドアノブに手を伸ばす。
ところが、ノブに手が触れる前に、乱暴に扉は開け放たれた。
勢いよく開いた扉にぶつかりそうになって驚く私の脇を、部屋の中から飛び出してきた人物が走り抜けていく。
城内の至る所で見かけるお馴染みの黒いワンピースに白エプロンのメイドさんが、胸元を掻き合わせたまま全力で走り去っていく。
本来なら結い上げられているはずの髪をたなびかせて、メイドさんは廊下の闇に消えていった。
それを唖然と見送る私に、部屋の中から声が掛かる。
「どうぞ。中に入って」
ミントグリーンの壁紙に、天井に向かって蔦模様の白いレリーフが施された部屋。設えられた家具は白木造り。廊下の雰囲気とは違い、爽やかで華やかで、若々しく清純な雰囲気に満ちている。
それは、この部屋の主に全く以ってそぐわない。
部屋の中央の可愛らしい長椅子に、深く腰を掛けたクヴェルミクスは寛いだ様子でいる。
相変わらずの黒いローブ姿の美貌の銀髪が、不似合いな部屋で微笑む様子はなんだか気味が悪かった。
悪夢みたいな光景だ。
微笑みを浮かべて私を迎えたクヴェルミクスに、私は胡乱な視線を送る。
私がどんなタイミングでこの部屋を訪れたのか、なんとなく察しは着く。あのメイドさんの慌てぶりに加えて、着衣と頭髪の乱れ。
ただ、お茶を淹れてました――って訳ではないのだと思う。
テーブルの上には、飲みかけの紅茶が置かれている。
部屋の中には香水なのか、強めの薔薇の香りが漂っている。あのメイドさんが残していった香りなのかもしれない。これも、全く部屋に合わない香りで鼻がムズムズした。
置き去りにされたティーワゴンの傍らに、不自然に落ちていたレースを拾ってから私は口を開いた。
「お邪魔をしてしまったようで、すみません」
「そろそろ来るころかなぁって、思ってたんだよ。迷わなかった?」
嫌味のつもりで言ってみたのに、欠片も伝わっていないようだった。
拾ったレースをワゴンに乗せようと、手の中を見る。レースで作られた輪っか。なんだろうこれ? シュシュに似ているけど。
「あー。それ、さっきの子の忘れものだ。そこにもあるんだけど、すぐに取りには来なそうだから、適当に置いておいていいよ」
長椅子から立ち上がったクヴェルミクスは、一人掛けの椅子を指で示した。
椅子の上には細長い布。靴下だ。長い靴下。
私が拾い上げたのは、どうやらメイドさんの靴下留めで、椅子には彼女の忘れ物の靴下が二足に、靴下留めがもう一つ。そして、……。
……スカートの下を大分、スースーさせて走っていったようですね。
というか、私の訪問があることを知っているはずなのに、この男は何を――。
「持って帰る?」
靴下留めを握ったまま、メイドさんの忘れ物を凝視して硬直していた私をクヴェルミクスが覗き込む。
「け、結構です!!」
慌てて椅子に靴下留めを置くと、私はそこから視線を引き剥がした。
頬を赤くして眉をしかめる私に、面白そうにクヴェルミクスが言う。
「純情だねぇ。まだまだ、お子様なのかな?」
きっと睨むように見返してから、私は姿勢を正した。
「お約束どおり伺いました。魔法をお願いします。それと、私は何をお手伝いしたらよろしいですか?」
あえて、慇懃無礼に言ってみたものの、頬の熱が引かないままだから格好がつかない。
クヴェルミクスはそんな私の様子をさして気に留める様子もなく、部屋の奥へと招いた。
「さてと。ここでは、なんだからね。奥に行こうか。それとも、お茶でも飲もうか? すぐに用意させるけど」
首を横に振ると、クヴェルミクスはペパーミントグリーンの壁の一部に触れた。
何の変哲もない壁だったそこが、ぽっかりと開き、その奥に階段が見える。
目を丸くしている私を振り返り、クヴェルミクスは悪戯そうに微笑む。
「秘密の入口。僕しか開けないようになっているんだ」
秘密の入口。――そんなところを、私なんかに知らせていいんだろうか?
戸惑う私を手招いて、クヴェルミクスは階段を上っていく。
恐る恐ると続いて開いた壁の中に入ると、私の背後で壁が閉じた。
窓も灯りもない筒状の空間に、ぐるりぐるりと螺旋階段が続いている。
素気ない石で造られたここには、あの部屋の爽やかさは微塵もなくて、なんだか息苦しい。
クヴェルミクスの持つランタンの灯りを見失うのが怖くて、彼の歩調に合わせて階段を上がっていくとすぐに呼吸が乱れ始めた。
運動不足を痛感する。白騎士の朝の鍛練に、混ぜてもらった方がいいのかもしれない。
それにしても、体力の無さそうな見かけに反して、クヴェルミクスは息一つ乱さずに進んでいく。
私は、黒いローブに垂らされた銀髪を恨めしそうに見ながら階段を上り続けた。
ようやく部屋にたどり着いた時には、すっかり息は上がり、膝もガクガクしていた。
呼吸を整えながら、きょろきょろと部屋を見回す。
灯りが順に点されていき、部屋の様子が見えてくる。
元がなに色だったか分からない、まだら模様に汚れた壁。染みだらけの床は、ざらざらしてるかと思うとベトついたり。書棚から溢れ出した本が山になり、雪崩を起こして、その雪崩の上にまた山ができ。大きなテーブルの上には所狭しとガラスの器具が乱雑に置かれて、所々で不気味に発光している。
ホコリ臭さとカビ臭さともう一つ何かが混じったような、淀んだ空気に満たされた部屋で、私は無意識に窓を探した。
鎧戸が閉じられた窓は、木箱に刺さった巻物の林に阻まれて近づけそうもない。
「汚部屋……」
引き気味に呟く私をよそに、クヴェルミクスは部屋を歩き回る。
階下の爽やか純情部屋との落差に、本当に悪夢を見ているような心地になってくる。
ただ、クヴェルミクス様には、こちらのお部屋の方がお似合いなのは否めない。主に、内面的な点で。
クヴェルミクスは、混沌としたテーブルの中から何かを掘り出すと近づいてきた。
そして、くいと顎を取られて上を向かされる。相変わらず冷たい指先と、唐突な行動。
二色の瞳に覗きこまれて、私はおどおどと口を開く。
「なっ、なんですか」
綺麗な形の唇が上がる。
「ほら、やっぱり。もう解けてしまったね」
そう言うと、クヴェルミクスは手にしたものを渡してきた。
すっかり黒ずんでいるけど、銀の手鏡を渡され、それで確認をしてみる。
「瞳の色、黒く戻ってるよ」
言われたとおり、緑色だったはずの瞳が何の前触れもなく、元の黒に戻ってしまっていた。
思わずうなじに手を当てるが、何の痛みも違和感も感じない。
いつから、黒く戻ってしまったのだろう。誰かに見られた後でなければいいのだけど、それも分からない。
「部屋に来た時は緑だったよ。ソニアヴィニベルナーラの魔法では四日は持たないようだから、僕は少しやり方を変えるよ。それでも、四日ごとに掛けなおすのが確実だね。君も人前で突然魔法が解けてしまうのは困るだろう?」
優しげな言い振りに、素直に頷く。
「お手数をおかけします」
「気にしなくていいよ」
「でも、できる範囲で、お仕事させていただきます」
「あぁ。そうだったね。仕事ね。そうだなぁ……」
そう。私からはなにも返せるものがないのだから、お仕事を誠心誠意勤めさせて貰おう。
この際、お給金無しでも構わない。魔法代と思えば、安いものだし。
僕の助手をと自ら発言していたのに、具体的なことを考えていなかったのか、クヴェルミクスは少し考えこんだ。
そして不意に顔を上げると、満面の笑みで告げた。
「そうだ! ここ。この部屋の掃除をしてもらおうかな」
「え」
「うん。そうしよう。ここ、他の人を入れないからさ、片付けてくれる人もいないから、少し散らかっちゃってね」
「少し?」
「そう。少し散らかってきたなぁって、思ってたところだったから、ちょうど良かった」
うんうんと、一人満足げに頷くクヴェルミクスの後ろに広がる、汚れ散らかり切った部屋を改めて見回して、私の口から溜息と悲鳴が混じった息が出る。
この、汚部屋を掃除……。
もちろん、嬉々としたクヴェルミクスは、私の様子に全く気を掛けずに喋り続けた。
「決まりだね。僕は君に魔法を掛けてあげる上に、君の帰り方も探してあげる。君は、ここの掃除と、僕に君の世界のことを教える。どうかな?」
「……よろしくお願いします」
もちろん、私に拒否権などはない。
だって、魔法を掛けてもらえなくて困るのは私で、クヴェルミクスではない。
そう考えると、良心的な交換条件の様な気がしてくる。
「では、掃除から始めます」
「うーん。掃除は次からでいいよ。ほら、道具もここには無いし。次までに用意しておくから。今夜はまず、君を見せてよ」
「え?」
「はい。ここに座って」
そう言ってクヴェルミクスは、部屋の隅から椅子を引き寄せる。
木製の一人掛けは、もちろん汚れきっている。座った途端に呪われそうな雰囲気すらする。
躊躇する私をよそに、クヴェルミクスはもう一つ椅子を用意する。
そちらは布張りの一人掛けで、私に出された椅子よりは幾分ましな様に見えるけど、やはり汚れているのが一目で分かった。
意を決して、用意された椅子に腰を下ろす。
ぞわりと悪寒がお尻の辺りで発生する。今日のこの服は、念入りに洗濯しようと心に決めた。
座った私の目を、興味深そうにクヴェルミクスは見つめた。
「本当に真っ黒だね。それも、まったくなんの混じり気もない黒だね」
立ったままこちらを見下ろしたクヴェルミクスの髪が、彼の肩を伝い零れ落ちて涼しい音が立つ。
「綺麗だね」
何の含みもなく言われると、顔が熱くなってしまう。失態だ。
でも、仕方ない。中身がどうあれ、外見がこんなに美しい人に褒められることが今までになかったのだから。
「あれ。顔が赤い?」
ニヤリと邪悪に笑われて、私の赤くなっていた顔はさっと青くなる。
薄れかけていたクヴェルミクスに対する恐怖心が、駆け足で戻って来た。
そうだ、この性悪魔法使いに気を許してはならないと、私の第六感が発した警鐘を思い出す。
クヴェルミクスはそのまま薄笑いを浮かべながら、私の髪を一房手に取り弄び始めた。
「あの、髪を触る必要が?」
非難がましく見上げてみても、私の髪は解放されない。
「そうか、男の子だもんね。触られ慣れてないかな? そんなに警戒しなくても、取って食べたりしないよ。僕は女の子専門だし。君を食べるほど困ってもいないけど……食べられたい?」
紫と薔薇色の瞳が細められて、私は慌てて首を横に振る。
そして、この男の前で少年でいられることに感謝した。
「滅相もございません」
「つれないねぇ。……それにしても、見ていて飽きないなぁ。黒い瞳に、黒い髪」
「黒髪は、そんなに珍しくないと聞いてますけど」
「そうだね。黒髪はいるよ。だけど、君の黒とは違うな……。こちらの黒髪は、どちらかというと赤いね。茶色を濃くしていったような色だよ。君の髪は、青身を帯びた黒だね。それにこの手触り……、濡れていないのに、水を撫でているみたいだねぇ。気に入ったよ」
熱心に髪を見つめて、飽きることなくその感触を確認するクヴェルミクスを下から盗み見る。
絹糸のような銀髪に、透けるほど白く大理石みたいに滑らかな肌。美しく配置された顔のパーツ。
物語の登場人物のような、美貌の魔法使い。
だけど、その意地悪そうに上がる口角と、好色そうなたれ目に、内面は滲み出るものなんだなぁ。と、妙な感慨にひたる。
「君が、女の子じゃなくて残念だよ。いや、女の子じゃなくても、……試してみる価値はありそうだねぇ」
不意に、恐ろし気なことを呟きだしたクヴェルミクスに、私は椅子の中で身震いする。
「やめてください。私にそのような趣味はありません」
「そうかー。残念。では、愛でるのはこのくらいにして、君の話を聞こうかな」
名残惜しそうに髪から手を離すと、クヴェルミクスは私の向かいに置いた椅子に座った。
「私の話ですか?」
「そう。どうやってこの世界に来たのか、順を追って話してみて」
椅子に深々と座ると、好奇心を隠そうともしないクヴェルミクスがこちらを向く。
私は、なるべく理路整然を心がけて、そして詳細を思い出しながら話し始めた。




