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寒い。
頬がジンジンと冷えて、吐き出す息がどんどん白くなる。
目深に被ったフードをずらして上を見上げると、空の灰色がぐっと濃くなっているのに気付いて歩調を速めた。
夕刻にはまだ時間があるはずなのに、森がみるみる暗くなる。
きっと、もうすぐ雪が降るんだ。ソニアの言ったとおりだ。
彼女の読みは外れない。
村で買い込んだ背中の荷物を背負いなおして、私はさらに歩調を速める。
『冬の始まり雪』が降り出すと、この森は一息に雪に飲み込まれて真っ白になる。
そしてひと冬中、森は白く白く凍りつく。
森に春が来るのは、村に初夏が訪れる頃だ。
雪解けまでの数か月、私は一人で森の家で過ごす。冬の間は村に身を寄せるソニアの留守を預かり、ひっそりと冬を過ごす。
一度降り始めた雪は三日は止まない。しかも、降り始めの雪はみぞれになるのが常だ。
出来れば濡れたくない。いま着ている、大きなフードの付いたコートはなかなかの年代物で、防水性は全く期待できないのだから。
それに、ぬかるむ森の小道のおかげで皮のブーツが冷たく重くなっている。その上、ブーツのどこかに綻びができていたみたいで、右足の先が凍えている。
早く家に帰ってストーブに火を入れて、濡れたブーツを脱いで凍えた足を温めたい。
熱い紅茶も飲みたい。とっておきのチョコレートも出そう。荷袋の焼栗も少し出そう。今年の栗は去年よりずっと大粒で甘いと評判らしい。
そうやって自分を励ましながら湿った森の小道を進み、家まであと一息。というところだった。
「おい、止まれ」
突然の不機嫌そうな呼びかけと同時に背中の荷袋がぐいっと引っ張られて、私はべちゃりと尻餅を着いた。
この時期に、この森に、人がいることに驚く。
冬の森に入り込むもの好きなどいないと、ソニアは言っていた。
冬の森には何もない。本当に何もない。
そもそも、冬以外にもこの森に入って来るものはほとんどいないと。
南の森のようにベリーやキノコも取れない、獣もほとんどいない。スノーツリーという寒さにすこぶる強い針葉樹が延々あるだけの森なのだ。
お尻の下のコートがぬかるんだ土でじわりと汚れていくのが分かって、悲しい気持ちになる。足先だけでなく、お尻も凍えることになるかもしれない。
のろのろと起き上がり振り返り、私はもう一度驚いた
白い騎士装束の男が一人、大げさに眉をしかめて不機嫌そうに立っていた。
ぴゅうと寒風に揺れた白いロングジャケットの中には、剣を下げている。
村に騎士はいないので、私は騎士という物を初めて見た。
この寒空の森の中、コートもマントも身に付けずに寒くないのだろうか。それとも、高価そうな騎士ジャケットの防寒性能は、私の木綿の衣類なんか遠く及ばないほどのものなのかもしれない。
こちらはコロコロに着膨れている。コートの下にはセーターやらシャツやら、とにかく重ね着にかさねぎ。下半身だってズボンの下にはタイツと靴下で重ねられるだけ重ね履いている。それでも寒いのに。
あー。足が冷たい。
そんなことをつらつら考えながら黙ったまま白い騎士を見上げている。
白騎士はじろじろと無遠慮な視線をこちらに巡らせて、大きなため息をついた。
ため息つきたいのはこっちなのですけど。
「天気読みはどこにいる?」
人をぬかるみに転ばせておいて、謝罪もなく、この不機嫌そうな表情に口調。
私は瞬時に警戒する。嫌な奴そうだなと。
そんなこちらの様子にお構いなく、白騎士が喋る。
「スノーツリーの森の天気読み。知っているだろう。どこにいる?」
スノーツリーの森の天気読み、それはソニアのことだ。
もちろん知っている。彼女は私の保護者兼同居人なのだから。
私はモコモコ手袋に包まれた右手で白騎士の背中の方角を指差した。
「天気読みは冬の間は森にはいません。森を出た先の村にいます」
白騎士は背後を振り返る。
「ノト村か…」
ここから村までは私の足では一時間以上は掛かるだろうけど、白騎士ならその半分くらいでたどり着けるだろう。なにしろ身軽な装備だ。剣以外の持ち物も見当たらない。
それに、騎士と言えば馬。馬に乗ればもっと早く森を抜けられるはずだけど、馬は辺りに見当たらない。
「それでは、失礼します」
村の方向を見ながら、なにやらブツブツ言う白騎士の背中に声をかける。
暖かい家を目前に足止めされた私の身体はすっかり冷え切っている。おまけにお尻にも想定外の凍え。
とにかく、雪が降り出す前に家にたどり着きたい。
「まだいたのか。もう行っていいぞ」
尊大な口ぶりで白騎士は振り向き手を振る。
その手の振り方は、犬とかを追い払う時に使うアレだ。
失礼なやつだ。やっぱり嫌な奴認定だ。と、私が顔をしかめた次の瞬間には、白騎士の姿は忽然と消えた。
「あぁ。えーと、移動魔法かな? 初めて見た」
ポチャン。頬にみぞれが落ちた。
降り始めてしまった。
次々に降り注ぐみぞれから逃げるように、私は駈けだした。