四
「まったく、こんな森だとは思わなかった。これでガセネタだったら、あいつらタダじゃおかないからな!」
盗み聞きした話だということは遠くに放り投げ、サリは名前も知らない酔っ払いたちに毒づいた。大声での独り言は間抜けだよな、と思いつつ、獣避けにわざと声を張り上げる。
うっそうとした森だというのに下生えは膝ほどの高さに茂り、歩きにくいことこの上ない。太陽も殆ど確認できないため、今自分が目指す方向に進んでいるのか、出口に向かっているのか、あるいは全く見当違いの場所に行きつつあるのか、サッパリわからない。
幸いにして木の実や小動物が豊富であるため、餓死することはないが。
「遭難したら、このまま森の人……? そんなのゴメンだ」
遭難して方角がわからなくなったら動かないことが肝要だが、助け手が来る事は絶対に有り得ないため、サリはとにかく歩き続けた。彼女の座右の銘は、「止まっていて好転することはない」である。
上から彼女の動きを見ていれば、右に行ったり左に行ったり、大分進んだかと思えば半分ほど後戻りしたり、と埒が明かない進み方をしていることがわかっただろう。
しかし、森に入って三日目頃から、いつの間にか、その動きが変わってきていた。
半ばやけくその様にめくら滅法に進んでいたサリ自身は、いつの間にか自分の足取りが迷いなく一方向を目指すようになっていたことに気付いていない。
「なんか、こっちであってるような気がする」
自分を励ますようにウンウンと頷きながら、ひたすら下生えを掻き分ける。
「あ、何かある!」
はじめは、気の所為かと思い、立ち止まって目を細めた。
だが、確かに、木々の隙間に、ちらちらとそれまでの森の色彩とは異なるものが見え隠れする。
「あれ……なんだろう? 光ってる……鉄でできてるのか?」
近づいてみると、かなり大きな建物であることが判ったが、材質は木やレンガではなく、明らかに金属だとしか思えなかった。だが、各地を渡り歩いてきたサリでも、金属でこれほど大きなものを作っているのは見た事が無い。
見上げてみると、壁の高さは優にサリの背丈の三倍はある。壁は彼女の顔が映るほどに滑らかで、鏡のようだ。手がかりや足場になりそうなものもなく、よじ登るのはかなり難しい。
壁伝いにしばらく歩いてみる。
緩やかに曲線を描いているところを見ると、どうやら円筒形の建物のようだが、一巡するにはかなりかかりそうだ。今まで見てきたどの金持ちの家よりも大きい。
「どうやって入ろうかな」
歩幅を数えて歩いたが、三十歩になっても何も変わらない。
行けども壁ばかり……と思いきや、五十三歩目を数えたところで、少し先がポカリと口を開けているのが見て取れた。
足早に近づいてみると、扉らしきものはなく、ただ、壁に穴が開いているだけだ。
「これ、開きっ放し? 無用心だな」
盗みに入ろうとしている自分のことは棚に上げて、サリは呟く。
恐る恐る覗き込んでみる。窓がないというのに、建物の中は外よりも明るかった。
「なんっか、胡散臭いな……どうしよっかな……」
明らかに怪しい建物に、流石のサリも躊躇する。
だが、ここまで来て手ぶらで帰るのも嫌だ。
それに、なんだか、無性にこの先に行きたいような気がしてならない。
「こんな森の中で、無事に辿り着いたのも何かの縁だよな……。よし」
意を決すると、サリは一歩を踏み出した。
建物の中も外壁と同様に金属でできており、所々に明かりが灯っている。ガラスの玉の中に炎を閉じ込めたような感じで、とても明るいのに、手をかざしてみても火傷をする事が無い。一つ持って帰ろうかと外そうとしたが、びくともしなかった。
「何なんだろうな、ここ……」
まるで魔法で作られたような建物だ。
何もない廊下をしばらく歩いていると、入ってきた時と同じように、前方の壁の一部が開いているのが目に入る。
壁に隠れるように覗いてみると、草木が生い茂っているのが見て取れた。外側から見た構造から考えると、建物の反対側に出たというよりは中庭であると考える方が妥当だろう。
人のいる気配はなく、他に探索する場所もないため、サリは取り敢えずそこに入ってみることにした。
かなりの広さがあり、植えられているものは観賞用というよりは実用的な、野菜や果物ばかりだ。ただ、今の時期にこの地域では見られないようなものも多く見られる。まるで、東西南北の食用植物を集めたような場所だった。
「こんなのあり……? 楽園みたいだな」
呟いて、サリはたわわに実ったりんごを一つ採る。噛りつくと蜜が溢れ、これまでに食べたことのない香りと甘さが口の中に充満した。
サッパリ人の気配がないことに気を緩ませたサリは、緊張感なくブラブラと散策する。
庭はかなり綿密に手入れされているようで、広いとは言え限られた土地の中に、効率よく多種多様な植物が植えられている。庭師の二、三人は必要そうな庭だというのに、それらしい姿は全く見かけない。
しばらく歩くと四阿の屋根のようなものが見え隠れし始めた。相変わらず人の気配はなく、ちょっと一休みしようかと、サリは完全に緩みきってそこに近づく。ちょうど茂みがあって、四阿の中の様子は見えていない。
茂った枝をガサリと掻き分け、サリは硬直した。
真っ直ぐに見つめてくる眼差しと、まともにかち合う。
年の頃は十かそこらの、少女の形をした何か。
たっぷり三秒は、両者とも完全に固まっていた。
アーモンド形の目の中で輝く深紅の瞳と、うっすらと赤みを帯びたふんわりとした銀髪が、周囲の景色と相俟って幻想的な雰囲気を醸し出す。
突然、全く知らない人間が現れても、微動だにしない。幼いながらも硬質な美しさを湛えている容貌に、サリは一瞬、精巧にできた人形かと期待する。が、次の瞬間、パチリと瞬きされ、それは木っ端微塵に打ち砕かれた。
これまで、各地で色々な邸に忍び込んできたものだが、家人と遭遇したのは初めての経験である。明らかな不審者を前にして何の反応も示さない少女に、サリはどうしたらいいのかと思案する。こんな、風が吹いてもよろけそうな風情の相手に乱暴なことはしたくない。
さしあたって、人を呼ぶ気はなさそうな少女に向けて、片手を上げてみた。
「……ここの家の子?」
「……」
少女の頭が、微かに傾ぐ。
「誰か、他にいる?」
「……」
今度は、反対側に、微かにコクン。
その色彩もあって、まるで仔ウサギの様だ。
反応はあるので聞こえてはいるようだが、話せないのか、理解できていないのか。
「ここってさ、『世界樹の眠り』のもの?」
「……」
今度はゆっくりと瞬き。
これでは埒が明かない。
試しに、サリは少女に近づいてみることにした。それで悲鳴をあげられたら、その時はその時だ。驚かさないようにゆっくりと近づき、一歩手前のところで止まる。
少女はまじまじとサリを見上げていたが、相変わらず、逃げようとも誰かを呼ぼうともしない。その眼差しは何かを探るようで、彼女は決して愚鈍ではないのだということをうかがわせる。
不意に、少女は手を上げ、その細い指の先でサリの手に触れた。
それは、羽根が掠めたような感触だった。その瞬間に、サリの中を何かが駆け巡り、全てを見透かされたような感覚に、肌が粟立つ。
――この子は、『特別』だ。
サリは、そう直感する。
教団がここに隠しているのは宝『物』ではなく、きっと、この少女なのだ。
未知の存在に対する畏怖の念がサリの中に浮かんだのは、一瞬のことだった。
代わりに、苛立ちが沸いてくる。
この建物に入ってから随分時間が経っているというのに、人の姿を見たのはこの少女が初めてだ。人が立ち働いている気配すらない。
年端もいかないこどもを独りきりで放置しておくなんて、どうかしている。こんな森の奥では、人が尋ねてくることもできないだろうし、彼女が人里に出て行けるとも思えない。
「ここに閉じ込められてるのか?」
返事は期待していなかった。
恐らく、この少女にとっては、今の状況は当たり前のことなのだ。
放っておけば、変わらず過ごしていくのだろう。
しかし、不自然であることを感じなければ、幸せなのか?
サリには、そうは思えない。この少女は、まるで、雛の時から鳥かごに閉じ込められて、飛ぶことを知らずに育った小鳥のように見えた。
危険な存在であるから、閉じ込めているのかもしれない。
だが、知ったことかと、サリは思う。今、こうして目の前にいても、別に自分に何か起きたわけでもない。
会ったばかりの相手に入れ込みすぎだ、と囁く声もある。だが、サリには、少女を見なかった振りをして、このまま立ち去ることはできなかった。
選択肢を与えて、少女自身が望むなら、また戻してやればいい。
――はなから一つの道しかないなんて、不公平だ。
サリは、座ったままで見上げてくる少女に、片手を差し出す。
「……一緒に、来る?」
少女は、その深紅の眼差しを数回瞬かせる。
差し出した手をそのままに、サリは待った。