二
「サリ……サリ?」
頬を軽く叩かれ、サリは眠りの中から引きずり出される。妙に頭が重い。
「何だよ……」
寝返りを打とうとして、ハッと気付く。
「マリア!」
飛び起きたサリは、真っ先に少女の姿を探したが、視界に入ったのはスレイグだけだった。寝台から身を乗り出して彼の胸倉を掴み、引き寄せる。
「マリアは!?」
「ちょっと、落ち着いて……」
喉をグイグイと締め上げられて、スレイグは暴れ馬を宥めるように両手をあげる。
「落ち着いていられるか! どうなってるんだよ!」
「あんまり駄々をこねていると、間に合わないよ?」
「どういう意味だ……?」
間に合わない――いったい、何に?
サリは、訳が解らないままに不吉な予感に襲われる。
解放されて一息ついたスレイグは、乱れた襟元を直しながら立ち上がった。
「急ごう」
いつもの彼らしくない簡潔な言動に、サリは本当に切羽詰った状況なのだと理解する。
寝台から下り、彼女を待つことなく部屋を出て行ったスレイグを追った。部屋の外は銀色の廊下が続いており、サリは既視感を覚える。だが、続いたスレイグの言葉が与えた衝撃でその既視感は吹き飛んでしまう。
「もう直、このキルツの山が噴火するんだ」
追いついたサリを振り返ることなく唐突にスレイグが放った言葉を、彼女は一瞬理解できなかった。
「……え?」
「山が、噴火する。とてつもなく大きな噴火で、この国は壊滅的な打撃を受ける。噴火自体で、キルツの町を中心として、この国の四分の一は潰れる。続く火山灰の影響で、数年は作物の収穫は大きく落ち込むだろう。しばらくは大きな地震も群発する。多くのものが、ジワジワと死んでいく。最終的に生き残るのはわずかだ。立ち直るのは至難の技となる」
スレイグが何を言っているのか、理解できない――いや、したくなかった。
サリの脳裏に、これまですれ違ってきた多くの人たちのことがよぎる。決して親しくしていたわけではないが、「どうでもいい」と吹っ切ることはできない。
――彼らが、死ぬのか?
サリはぶるりと身を震わせた。
「聞こえてる、サリ?」
振り返ったスレイグが問い掛けてくる。普段とは全く違う淡々とした物言いに、サリはぼんやりと、どちらの彼が本来の姿なのだろうかと、どうでもいいことを考えた。余程時間がないのか、その間も、スレイグの足と口は止まらない。
「マリアは、それを救うために選ばれた子だよ」
「え……?」
「マリアが特別なのは、君も解っていただろう?」
解っていたけれど、マリアがマリアであればよく、彼女の不思議な力など、気に留める必要はなかったのだ。
「あの子は、これからこの国のために祈りに入る」
「祈りって……いつまで?」
「……。あの子は、自分で選んだよ」
それは、サリの問いに対する答えになっていない。
そのことに、言いようのない不吉な予感がサリを襲う。スレイグに畳みかけようとしたとき、彼は唐突に足を止めた。
「マリアは、ここにいる」
スレイグはそう言うが、そこにあるのは銀色の壁ばかりだ。と、彼が壁に手を触れた瞬間、シュッという空気が漏れるような音と共に壁が開いた。
唐突に口を開けた壁に、この場所に見覚えがあった原因に思い当たる。
――マリアと初めて出会った場所に似ている。
飾り気のない銀色の廊下。
壁にポカリと開く入り口。
廊下を振り返ってみると、確かにあの場所に良く似ていた。
――連れ戻されたのだろうか。
サリの頭にはそんな考えが思い浮かぶ。だが、そうだとすれば、いったいどれほどの時間を眠っていたというのだろう。グリムとキルツは、徒歩で三月近くはかかる筈だ。
「サリ?」
足を止めた彼女に、スレイグが振り返る。サリはハタと状況を思い出し、彼の待つ部屋へと進んだ。
その先にあったのは、マリアと出会った中庭とはかけ離れた、無機質な部屋。
金属で作られていると思われる、用途不明な物体が、幾つも置かれている。チカチカと様々な色の光が明滅し、この部屋全体がまるで生き物のようだ。部屋の中心に置かれている、サリが余裕で入れそうな大きさの卵型の物が、一際目を引いた。
「サリ」
見たことのない異様な光景に気を取られていたサリの耳に、求めていた声が届く。巨大な卵から視線を横に滑らせると、そこに少女はいた。最後に見たときは地面に崩れ落ちていたが、今はいつもどおりの様子で立ち、真っ直ぐにサリを見つめている。
「マリア!」
サリはマリアに駆け寄り、思い切り抱き締める。そして腕を伸ばして身体を離すと、上から下、前と後ろに視線を走らせ、何もないことを確認する。
「怪我とかは? 痛いところはない?」
「大丈夫。サリも大丈夫?」
おろおろとするサリに対して、マリアはいたって平然としている。
ひとしきりマリアの無事を確認し、人心地がついたところで、サリはようやくマリアの後ろにいた人物に気が付く。確か、サリが意識を失う直前に名乗っていた筈だ。
「あんた、えっと、グラ……グラ――」
「グラシアナ・スターシャです」
「そう、それ……って、違うだろ!」
何の変哲もない挨拶のように自己紹介されて、すんなり受け入れそうになったサリだったが、ここに至る前の状況を思い出し、ハッと我に返る。
「あんた、『世界樹の眠り』の教祖だろ?」
「ええ、そういうことにしていました」
「変な言い方だな。あんたがあれを作ったんじゃないの?」
自分が興した宗教に対して突き放したような言い方をするグラシアナに、サリは怪訝な顔をした。彼女との会話には、何処となく違和感が漂う。
「今回の災害は、人を短期間避難させるだけでは避けきれないものでしたので。一連の計画のために、八年前に作りました」
「今回の災害って……スレイグが言っていたやつ?」
後ろを振り返ると、スレイグが無言で頷いた。
「でも、火山って、噴火って……この国で、そんなの聞いたことがない」
半信半疑どころか殆ど信じられずにいるサリに、グラシアナが淡々と言う。
「前回の噴火は四二七年前です。あの時の噴火はそれほど大きくもなかったので、記録にもあまり残っていません。あなたが知らなくても当然です」
「四百って……なんだか、その場にいたような言い方だな」
「おりました」
「……は?」
「その場におりました。あの時は、噴火の間だけ、人を避難させておくだけで済みましたので、対応は容易でした」
自分の耳がおかしいのか、それとも相手の頭がおかしいのか。
サリがもう一度振り返ると、スレイグは黙って肩をすくめただけだった。
混乱するサリをよそに、グラシアナは変わらぬ口調で続ける。
「私は人ではなく、自動人形のようなものです。詳しく説明しても、あなたには理解不能ですし時間もないので省略します。私が作られたのは、七五八年前でした。それから二一六年は主の血筋に従い、この国を護ってきました。しかし、最後の主は五四二年前に行方がわからなくなり、その後は私のみでこの国を護っています」
「ちょ……っと、待って。もう、何が何だか……」
つらつらと言われても、サリの理解はさっぱり追いつかない。
頭を抱えた彼女を不憫に思ったのか、それまで無言で通していたスレイグが口を挟んだ。
「グラシアナは、もう七百年以上も『生きて』いるんだよ。色々なことを知っていて、ずっと、この国を、この国の民を護ってきてくれた。ここではある程度、災害を予測することができるんだ。大きな災害がある時には人を避難させたり、対処方法を教えたりとかしてね」
少しおいて、サリの頭がついてくるのを待つ。
「グラシアナの言う『主』というのは、古代人の一人で、彼女やこの施設を作った人たちなんだそうだよ。個人ではなく、一つの村程度の人数はいたらしい。遥か昔は、人はこれだけのものを作れる知識や技術を持っていたんだ。だけど、ある時、とても大きな戦が起きて、多くのものが破壊され、人類の文化水準はグッと後退してしまった」
スレイグの語る内容は、サリにとってまるでお伽噺のようだ。だが、自らを人形だというグラシアナは確かに目の前に存在しているし、金属でできた巨大なこの建物も、自分の足元にしっかりと感じられる。
スレイグの話を引き継ぎ、グラシアナが再度語り始める。
「主は大戦が始まる前に、人を護るための場所を国の数箇所に用意しました。その中の一つがここですし、あなたとマリアを会わせた場所も、その一つです。そして、これらの施設を管理し、人を繁栄させていくための存在として私を作りました。主は徐々に減っていき、最後の一人になった主が私に全てを任せ、主は出て行きました」
人形だというグラシアナが、何処となく悲しげに見えたのは、サリの気の所為だろうか。軽く目を伏せたグラシアナの横顔に、サリは思わず見入ってしまう。
「彼女が言うには、僕は出て行った最後の『主』の血に繋がる者らしい」
スレイグの言葉にグラシアナは頷き、卵に手を伸ばす。
「ここの装置は、火山の活動を制御するために設けられました。これは、この核の中に入った人間の精神力を動力として作動します。主の殆どは、他の人間よりも強い精神力をもっています。これまでも、何度か主によって噴火を抑制したことがあったので、今回も主を探し出せばいいと考えました」
そうして見出された、スレイグだったが。
「僕もその頃は若かったから、皆を救うと言われてその気になったのだけど、ダメだったんだ」
「主を用いて計算をしたところ、動力が足りなかったのです。今回の噴火を制御するには、より強い精神力が必要でした」
そこで、スレイグの目がマリアに向けられる。
「焦ったよ。幸い、まだ噴火までに猶予があった。一年を費やして片端から人の精神波を追い、少しでも強い波を出しているものを拾っていって。――最終的に見つけたのが、まだ三歳ほどだったマリアだ」
スレイグの眼差しの先にいるマリアも、静かに彼を見つめ返している。
「マリアは、その当時、孤児院に入れられていたんだ。他の子どもたちにも、世話をする修道女にも懐かず、一人で中空を見つめていることが殆どで、誰もこの子のことなど気に掛けていなかった――マリアを引き取るのは簡単だったよ。そして、僕とグラシアナは、マリアを君とこの子が初めて出会ったあの場所へ、閉じ込めた」
「何で、そんなことを……!」
出会ったばかりの、人形のようだったマリアを思い出し、サリは憤る。
「より精神力を高める為だよ。刺激のない場所に閉じ込められて、マリアは情報を求めて、意識をいっそう遠くへ飛ばすようになった。力はみるみる伸びていったよ」
「そんなの、ひどいじゃないか!」
なじるようなサリの眼差しを、スレイグは真っ直ぐに受け止めた。
「うん、ひどいね。僕もそう思う。でも、国中の人の命とマリア一人を天秤にかけたら、国中の人の命の方に傾いたんだ」
彼の口調は断固として迷いがないように聞こえる。だが、その口元はわずかに歪んでいた。
「――僕たちはマリアを閉じ込め、とにかく力を伸ばした。そして、その目的は達成され、五年もすると、計算上は充分火山を抑制し得る数値になったよ。だから、次の段階に進んだんだ」
「次の段階?」
サリは怪訝な顔をする。マリアと出会った時、彼女はただ閉じ込められているだけのように見えた。何か他にしていたというのなら、サリがマリアを連れ出した時点で、失敗になってしまったのではないだろうか。
ほんの少しだけ、サリの中に申し訳なさが生じる。
そんな彼女には気付かず、スレイグは先を続けた。
「力の大きさは充分でも、その力に方向性を持たせなければ、意味を成さない。今度は、マリアに、いかに人を助けたいという気持ちを持たせるか、が課題になった」
スレイグの目は、ヒタとサリに向けられ、わずかも揺らがない。何故かサリの中にはじんわりと不安が押し寄せてくる。
「それまで、マリアには、誰もいなかった。そんなあの子に、一人だけでもいいから『護りたい大事な人』を作らせようとしたんだ」
「それって、でも……そんなの、できっこない」
スレイグの言葉に、サリは嫌な予感を覚える。彼女の中の不安は膨れ上がり、今にも溢れんばかりだった。
「それが、できたんだよ」
サリは、それ以上聞きたくなくて、頭を振る。しかし、スレイグの声は止まらなかった。
「僕たちは、多くの候補の中から選んだ人間で、性格、生い立ち、思考方法、言動なんかを要素にした模擬実験をした。何通りもね。そして、マリアと引き合わせた時に、一番強い絆を作ってくれそうな人間を見つけた――サリ、君だ」
スレイグが呼んだ自分の名が、ナイフのように感じられる。
出会いも、その後に続く気持ちも、全て仕組まれていたものだというのか。
『感情』を道具のように振り回され、サリは憤る。だが、その怒りよりも強い恐れがあった。
「あんたたち、あの子に何をさせようっていうんだ?」
押し殺した声で、サリは問う。返事は、スレイグからではなかった。彼は、サリからもマリアからも目を逸らしている。
「マリアを核に入れ、火山が鎮まるように祈らせます」
グラシアナの澄んだ――だが、冷淡な声が、後を引き継ぐ。
「あんたたちは、小さい頃からマリアをあんなところに閉じ込めて、今度はこんな小さな入れ物に押し込めようってのか!? いったい、どのくらいの間!?」
「計算上は、五四年間で火山活動やそれに伴う地盤の移動は終息します。その頃には、制御する必要がなくなるでしょう」
「五四年間!?」
サリは殆ど悲鳴といえるような声で繰り返した。だが、グラシアナは彼女の声音には頓着せず、ただ、問い返されたものとして答える。
「大丈夫です。身体の代謝は本来の十分の一程度に抑えられるので、全てが終わった時点でも肉体年齢は十五歳程度の筈です。その後、充分、存命可能です」
「そういうことじゃない!」
「意識も半覚醒状態に落とすため、核の中にいる間もそれほど精神的苦痛はない筈です」
「違う! スレイグ、何とか言ってよ、このクソ人形に!」
スレイグに縋りつくようにして身体を揺さぶってくるサリを、彼は辛そうな、しかし断固とした口調で諭す。
「君が眠っている間に、マリアには全て話した。今、君にしたようなことを、全て。マリアは、自分で選んだんだよ。もう、決めているんだ」
サリの手のひらが、スレイグの頬で甲高い音を立てる。叩き付けた手はジンジンとしびれたが、それには構わず、サリは身を翻してマリアの腕をつかんだ。
「マリア、行こう。あんただけがこんな目に遭うなんて、間違ってる!」
そのまま、部屋を出て行こうとする――が、動けなかった。
振り返った先で、マリアはサリをジッと見つめていた。
「わたしは行かない。ここに残る」
「何で!? 五十年も会えないんだよ? あんたが出てきた時には、あたしなんてもう死んじゃってるよ!? ここで離れたら、もう会えないんだから!」
「でも、サリが今死ぬのは嫌だ。リルも、スレイグも」
リルの名前を聞いて、サリはグッと言葉に詰まる。
「わたしは、みんな一緒に死ぬよりも、ここに独りで入った方がいい」
「そんなの、あたしは嫌だ」
「サリ」
少し前まではろくに言葉も話せなかったマリアの声が、今はまるで幼子を諌める母親のようだ。
「わたしは、サリが死ぬのは嫌だ。他の人のことを放り出して逃げて、サリが苦しむのも嫌だ。わたしとサリだけで助かっても、絶対に後でサリは泣く」
「マリア……」
マリアの目を見つめ、その奥底を覗き、その気持ちは変えることができないと悟った。
それが解ってしまったサリの頬を、ホロホロと雫が伝っていく。
「サリ、泣かないで」
マリアの手が、サリの頬を拭う。
ずっと、サリがマリアを護るのだと思っていた。だが、今、サリを護っているのはマリアだ。
「サリ。わたしは、サリに会うまで何も知らなかった。サリがあそこから出してくれて、色々教えてくれた。知ったものの中で、一番大事なのは、サリを大好きだという気持ち」
「あたし……、あたしの、所為で、あんたはここに入るの? あたしに会っちゃったから、やるの?」
しゃくりあげるサリの頬を撫でるマリアの様は、まるで母親のようだ。
「違う。『所為』じゃない。わたしがそうしたいと思ったから、する。サリが笑うのを見るだけで、わたしは体の中が温かくなる感じがする。サリに会えなかったら、これを知らないままだった。知れて嬉しい――幸せ。だから、わたしは、サリを……サリの全部を、護りたい」
――サリだけでなく、サリを取り囲む全て、サリの一部をなす全てを。
他の者を切り捨てて逃げ出したのでは、同時に、サリの中の何かも壊れてしまう。
マリアは一歩後ずさる。
小さなその手が離れていく。
表情は相変わらず動かないけれども、深紅のその目は微かに微笑んだのではないだろうか。
一歩分の距離が開き、思わず追おうとしたサリの背に、軽い衝撃が走る。
ここに連れてこられた時と同じだ、と思った瞬間、何も判らなくなった。
意識が遠退く最後の瞬間に、「大好き」という小さな声が、聞こえたような気がした。
*
意識を失ってくずおれたサリの身体をスレイグは受け止め、そのまま抱き上げる。
普段は勝気なサリの頬が涙で濡れそぼっているのが痛々しい。
――本当は、もっと早い時期に、余裕を持って計画を進めている筈だった。
しかし、サリとマリアの仲睦まじさがスレイグをズルズルと引き止めてしまっていたのだ。二人を引き離すことを、彼は躊躇ってしまった。
もう、あまり時間はない。放置すれば、おそらく数日以内に火山は噴火するだろう。
視線を感じてサリの顔から目を上げると、二人をジッと見つめているマリアと行き合った。
「サリを泣かせないで」
「力を尽くすよ」
難しい相談だ、と思いながらも、スレイグはマリアに向けて頷く。
それからも呼吸数回分、マリアはスレイグを見据えていたが、やがてクルリと向きを変え、グラシアナに向かって歩いていく。そこには、わずかでも怯む気配はない。
大きく口を開けている卵の中に入ると、静かに眼瞼を下ろした。
殻がゆっくりと、静かに、閉じていく。
暗闇に包まれた時、マリアの脳裏にあったのは、ただ一人のことだけだった。