三
キルツに着くと、マリアはサリの期待通りの反応を見せてくれた。
まず、町中に立ち込める温泉特有の「卵の腐った臭い」に顔をしかめた。更に、その臭いの元である濁った湯に入るのだと言われた時には、明らかに固まっていた。
放っておいたら一向に動く気配を見せそうになかったので、結局サリが持ち上げて湯の中に入れてしまったのだが、その時のマリアの様子がまた傑作だった。湯が熱かった所為もあるのだろうが、まるで池の中に落ちた仔猫のような慌てぶりで、悪いと思いながらも、サリは笑ってしまった。流石に三日も経った今ではマリアもすっかり温泉に慣れ、むしろ好んで入るようになっている。
そしてもう一つ良かった事がある。
それは宿屋の若夫婦に幼い子どもがいたことだ。
リルという名前の五歳になる女の子なのだが、マリアに懐き、始終彼女を引っ張りまわしている。今まで子どもと接したことのないマリアだったが、その活動量の多さに振り回されながらも、表情は柔らかい。
――そろそろ、どこかに定住してもいいのかもな。
マリアとリルが額をつき合わせて蟻の巣を見つめている様を眺めながら、サリの頭を、ふとそんな気持ちがよぎる。
母親と死に別れてからは旅から旅への生活で、どこかに留まることなど欠片も考えたことがなかった。どこかで野垂れ死んでも、それまでだと思っていたのだ。だが、マリアがいる以上、そんなわけにはいかなくなった。
「サリ、何を考えているんだい?」
ボーっと物思いにふけっていたサリの隣に、商談から帰ってきたスレイグが腰を下ろす。
常にぴたりとくっつこうとする彼の距離感に、当初はいちいち目くじらを立てていたが、最近ではあまり気にならなくなってきている。慣れというのは恐ろしいものだ。
「んー、いや、そろそろ、どこかに落ち着こうかなって……」
「そうなの? じゃ、僕の奥さんなんてどう?」
求婚にしては、あまりに軽い。
この程度の冗談にも、サリはもう腹を立てなくなっていた。あっさりと受け流す。
「あんたがあちこちの女と手を切ったらね」
「あれ、ホント? じゃ、早速結婚式を挙げようか」
「この町にも女がいるんだろ?」
「いやだなぁ、アレは単なるお友達。愛しているのは君だけだよ」
「あんたの愛は、本当に軽いな」
そう言ってサリは立ち上がろうとしたが、スレイグに手を強く引かれてまた座り込んだ。
「何を――」
――するんだ。
いつものように怒鳴り飛ばそうとしたサリだったが、予想外に真剣なスレイグの眼差しと合い、思わず口を噤んでしまった。
目を見開いているサリに、スレイグが低い声で呟くように言う。
「君の愛は重いよね。ひたむきだ。でも、一人だけに向けていると、失った時に立てなくなるよ」
「失う? マリアを?」
「だって、マリアだって一人の人間だろ? いつか君から離れなければならない時がくる」
「そんなの!」
有り得ない――そう言おうとして、言えない自分に戸惑う。どんなに大事な相手でも別れはやってくるということを、サリは身をもって知っている。
唇を噛み締めるサリの頬に、スレイグの手が触れた。
「君とマリアの間にあるものは、見ていて羨ましくなるが、同時に怖くもなる。あまりにお互いしか見ていないから。マリアは、今、多くのものを吸収していっているよ。そのうち、自分で自分が進む道を選ぶ時が来る。そして、君は、彼女が自分で選んだ道を進むことを許すだろう――マリアのために。マリアはきっと、独りで歩いて行ける。君からもらったものを糧にして。でも、君はどうだい?」
伏せそうになったマリアの顔を、スレイグが両手で包んであげさせる。
「君は、もう、独りには戻れない。君はとても強い人だけど――その強さは、誰かがいてこそ成り立つんだ」
そんなことはない、と言えない自分が悔しい。
瞬きしたら何かが零れてしまいそうで、サリは大きく目を見開く。
ギリギリの、限界だった。
「あ、好敵手に気付かれちゃった」
スレイグが呟いた言葉の意味を問い返す間もなく、サリの背中にドン、と何かがぶつかり、温かくなる。
「サリをいじめないで」
「いじめているんじゃないんだよ。大事なことなんだ」
サリの頬から両手を離したスレイグは、『降参』というように、マリアに向けてヒラヒラとそれを振ってみせる。その軽い様子は普段の彼のものだ。
「でも、サリは泣いてる」
常に平坦なその声がいつもより尖っているように聞こえたのは、サリの願望だろうか。
サリはクルリと振り向いて、背中にしがみついていたマリアを抱き締め返す。
確かに、スレイグの言うとおりだった。いつの間にか、この温もりがなければ、サリは立てないようになってしまった。マリアと初めて会った時は、自分がこの少女を救うつもりでいたというのに。
マリアとサリが一つの存在でない以上、確かに、スレイグの言う「別れの時」は必ずやって来る。だが、今は、それを考えたくはなかった。