五
スレイグは「用を済ましてくる」と出かけていった。
サリも非常食などの旅支度を整えに行きたいところだが、マリアをどうするか決めかねていた。
――置いていくのも心配だけど、連れて行くと騒ぎになりそうだ。
大勢に群がられてもわずらわしい。
迷った末に、部屋で待たせておくことにする。
「いいか、マリア。あたしかスレイグの時しか、戸を開けたらダメだからな。静かにして、いないふりをするんだ。誰かが戸を叩いても、返事もしたらダメ。あたしが出たら、戸のここのところに、椅子を引っ掛けておくんだよ?」
目をしっかりと見つめながら重々言い含めて、不安を残しつつも部屋を出る。戸が閉まると同時に中からゴトゴトと音がして、戸を開けようとしても何かに引っかかって動かなくなった。
「じゃあ、マリア。すぐ戻るから」
多分、扉の向こうでコクンと頷いているのだろう。
後ろ髪を引かれる思いで離れると、駆け足で宿を出る。紙に書いておいたものを、予め宿の主人に聞いていた店を巡り、効率よく回収していった。
恐らく、これ以上早く行動するのは無理だろう、というほどに、大急ぎで戻った筈だった。
しかし、宿の前に溢れる人だかりに、サリは嫌な予感が込み上げる。
そのうちの一人がサリに気付いて、声を上げた。
「あ、あんた……連れのあの子が……」
最後まで聞かずとも、サリは荷物を落とし、人垣を掻き分けて部屋を目指す。
部屋にはスレイグが立っていたが――彼だけであった。
「マリアは!?」
たいして広くもない部屋を見回しても、欲しい姿は見つからない。
「どうも、『世界樹の眠り』の信徒が連れ去ったらしい――あそこの教団の服を着ていたそうだ」
常の彼らしくない厳しい顔で、スレイグが答える。
振り返ってみると部屋の戸の蝶番が壊れており、明らかに力任せで押し入った形跡が残されていた。
再び閉じ込められ、ポツリと独りでいるマリアの姿が脳裏に浮かぶ。
その瞬間、サリの目の前が怒りで真っ赤になった。
「あいつら……あいつら! 赦さない!」
「サリ……」
宥めようとするスレイグの声も耳に入らなかった。
「また、あの子を閉じ込めるなんて、絶対に赦さない! すぐに取り戻してやる!」
「ちょっと、待ってって」
「うるさい! だいたい、お前がここに寄ろうなんて言うからだ!」
「そうだね、ごめんね。でも、少し落ち着こうよ」
腕を捕らえたスレイグの手を振り払おうとするが、どんなに力を入れても外れない。
「放せって言ってるだろ!」
「そんな調子で飛び込んでいったら、うまくいくものも失敗するよ」
びくともしないスレイグの胸に腕を突っ張ってもがくサリの姿は、まるで罠にかかって恐慌状態に陥っている獣のようだった。
スレイグは諦めたように息をつく。次の瞬間、パン、と高い音がなり、サリは頬に感じた衝撃に動きを止める。気が付くと、背中と頭に腕を回され、頬は硬い胸に押し付けられていた――そこから、自分のものよりも穏やかで力強い、鼓動を感じる。
安定した律動に、サリは徐々に自分を取り戻していく。そこに心地良さすら感じていた。
「落ち着いた?」
その身体から力が抜けた頃に、頭の上からスレイグの声が響く――直接耳に感じた方が大きく、彼女は先ほどまでと違う理由で混乱した。
「!」
勢いよく身体を起こすと、今度は容易に解放される。頬が熱く感じられるのは、気の所為だと思いたかった。
「落ち着いたところで、策を練ろうか?」
「……うん」
「よし。まず、マリアを連れて行ったのが『世界樹の眠り』の信徒だというのは判っているだろう? まずは、ここの教会に探りを入れてみよう。忍び込むのは君の得意技だしね。運がよければマリアがまだいるだろうし、いなかったとしても、何かの情報は手に入るだろう」
普段と全く変わらない様子で淡々と言うスレイグに、サリは取り乱した自分を思い出して自己嫌悪に陥る。あの時彼に放った言葉は、完全に八つ当たりだった。
「じゃあ、動こうか。明るいうちは不利だけど、時間が経つとどこかに移されちゃうかもしれないからね……」
「ごめん!」
「え、何が?」
サリの唐突な謝罪に、スレイグが目を丸くする。
「だから、さっきは、お前の所為だって……」
「ああ、あれ。まあ、確かにその通りだし」
「本当は、あたしの所為だったんだ。あたしがあの子を独りにしてなかったら……」
噛み締めた唇に、スレイグがそっと触れる。
「君って、ホントに――素直だよねぇ」
彼の頬に浮かぶ笑みに、わずかな苦味があるように見えたのは、気の所為だろうか。それに気を取られていたから、サリは続くスレイグの言葉を聞き逃した。
「……もっと、責めてくれてもいいんだ」
「え?」
問い返そうとしたサリに、スレイグは笑って首を振ると、握った片手を差し出す。
「これ、落としていったから、君から渡してあげてよ」
そう言って開いた手のひらに載せられていたのは、サリがマリアにあげた首飾りだった。
「うん」
素直に受け取り、そっと握り締める。買ってあげてから、マリアはこの首飾りを外したことがなかったのだ。判りにくいけれど、確かにこれを大事にしてくれていた筈だった。
出会ってから、今まで。
話をするようになったし、わずかとは言え、色々な表情も見せるようになった。
もっともっと、世界には様々なことが溢れているのだということを、教えてやりたい。
――そして、喜ぶ様を見ていたい。
少しでも早く、この手にマリアを取り戻したかった。
*
突然に戸が破られ、何も判らなくなり、気付いたらここにいた。
寝台と、椅子。
それだけ。
何もない部屋は、かつて暮らしていた場所によく似ている。
また、元に戻っただけ。
だけど、何かが違う――それが何なのか、マリアにはわからない。
サリの気配は近くにある。ということは、恐らく、町を移動してはいないのだろう。
マリアはここにいる――しかし、サリがそれを知る術がない。
――サリは、自分を置いて行ってしまうのだろうか。
そう考えたら、頭の中が真っ暗になった。何も、考えられない。
サリと会うまでは、『独り』なんて、どうということもなかったのに。
サリと、二度と会えないかもしれない。
そう考えると、目の奥が熱くなり、目から水が零れてくる。
――これは、『泣く』ということ。
それもサリから教わったことだった。
美味しいということ、嬉しいということ、泣くということ、驚くということ、きれいということ……。
サリに教えてもらったことはたくさんあり過ぎて、マリアの中から溢れ出しそうなほどだ。
「サリ、サリ……会いたい」
今まで、何かを得たことなどなかったから、一度手に入れたものを失うということがこんなにも辛いなんて、知らなかった。
いっそ、出会わなければ良かった――などとは思えない。
今のマリアには、サリと会わなかった自分など、想像もできなかった。
きっと、サリの為ならば、自分はどんなことでもできるだろう。