三
ここしばらく野宿が続いており、久しぶりにまともな生活がしたいとスレイグが主張して立ち寄った町だった。
そこそこ大きな町なのだが、全体を不隠な空気が包んでいた。夕飯時で本来は賑わいを見せているはずの時間だというのに、町の規模に比して人通りが少ない。
不審に思いつつも、三人は宿屋を探して通りを歩く。
やがて町の中心と思しき広場に着くと、そこには多くの人が集まっていた。人だかりの奥の方からは、悲鳴に近い女性の鳴き声が響いてくる。
「いったい何事なんだい?」
スレイグが近くの男に声をかける。男の眉間には、心配そうな深い皺が寄っていた。
「ああ、旅の人かい? 悪い時に来たもんだな」
「何か揉め事でも?」
「ああ。女の子が一人、見当たらねぇんだ。まだ三つの子なんだけどな、もう半日以上姿を見た者がいねぇ。直に暗くなるってぇのに……」
確かに空は紅く染まり、太陽は山肌に触れつつある。この時季は、夜になったら気温も下がってくるだろう。
サリは心配になって、スレイグと男が話しているところに割り込んだ。
「もう、随分探してるのかい?」
「ああ、町の者総出で、昼からずっとだ。一通り探したんだが、サッパリ見つからん。町の外に出ちまったってことはないと思うんだけどな」
三歳の子なら、それだけの間独りぼっちでいたら、心細くて泣いている筈だ。それとも、泣けるような状態にないということなのだろうか。
大勢の人々が交わす囁きを切り裂いて、母親と思われる女性の泣き声がひときわ大きくなった。
子どもを案じる母親の嘆きに、サリは胸が締め付けられる。女の子も、どんなにか怖い思いをしていることだろう。もしかしたら怪我をして、気を失っているのかもしれない。
ふと、サリは、出会った頃に見せられた、マリアの不思議な力の事を思い出した。
方角も判らないような深い森を真っ直ぐに進み、地図に載っていないような小さな村へ簡単に導いた力。
すっかり記憶の片隅に追いやっていたが、あの力は、今の状況に使えるのではないだろうか。
だが、しかし。
サリはマリアを見下ろすと、頭から被った長衣の陰から覗く彼女の紅い瞳と、まともに視線がかち合った。
全く追っ手の姿はないとは言え、自分たちは逃亡者の身の上であることは変わらない。下手に目立つ行動を取って、今まで無事に過ごしてきたものを壊してしまうことにはなる恐れは充分にあった。
それに、何より、マリアを道具のように扱うことに抵抗がある。
一緒に過ごしていて、普通に暮らしている分には、マリアは他の少女と変わりはなかった。閉じ込められていた理由と言えば、あの力しか思い浮かばない。助け出した者が、閉じ込められていた原因を使わせるのか。
サリの中で、子どもを助けたいという気持ちと、マリアをそっとしておきたい気持ちがせめぎ合う。
複雑な思いを張り巡らせるサリを、マリアはジッと見つめていた。繋いだサリの手からは、焦りや不安、同情、恐怖など、様々な感情が伝わってくる。
見知らぬ子どもの事を案じ、同時に自分のことを護りたいと思ってくれているサリの想いが、ひしひしと伝わってきた。
マリアは、意識を拡げてみる。
町中を占めているのは、大多数は子どもの身を案じる大人たちの不安。
その中でも、一人の女性からは痛いほどの恐怖が放たれている。その近くにいる男性は、子どもの事だけでなく、女性の事も心配しているようだ。
もう少し、先まで行ってみる。
広い町の中を、小さな声も逃さないように隈無く探った。
町の外れの方までいったところで、一つだけ、人間の気配を感じる。それは、この広場で嘆きの声を上げている女性と似通っていた。穏やかで、眠っているように感じられる。
マリアはクイクイとサリの袖を引く。
「あっち」
「え?」
「あっちにいる」
マリアの声は小さいものだったが、周囲の人の気を引くには充分な大きさだった。
「お孃ちゃん、あの子を見たのかい? でも、あんたら、この町に着いたばかりだろう?」
先にサリが声を掛けた男が、声を上げると、連鎖的にざわめきが広がっていく。
直に人ごみを掻き分けて、まだ年若い男女がまろび出てきた。
「あなた方、娘を見たんですか!?」
母親がサリに縋りつく。
「何でもいいんです。何か知っているなら、教えてください!」
こうなってはごまかしようがない。だが、マリアの力の事を悟らせるわけにはいかず、サリは何と言っていいか判らずに口ごもった。
そんなサリをよそに、マリアがまた彼女の袖を引き、心ここに有らずの様子で歩き出してしまう。
「マリア……!」
夢見るような足取りだというのに、進む方向には迷いがない。
どこか神秘的な雰囲気を醸し出す少女に、自然と人垣が割れる。そして、サリの手を引き無言で歩く彼女の後を、広場中の人間がついて行く。
やがてマリアは、枯れて長い間使われていないであろう古井戸の前で足を止めた。井戸はマリアの腹ほどの高さで、三歳の子どもがよじ登るのも不可能ではない。不注意なことに、蓋がされていなかった。
確かに、ここに落ちていたら誰も気付かないだろう。
だが、付いてきた人々の中から、失望混じりの声があがる。
「ここは真っ先に探したよ。でも、何も見えなかったんだ」
「そうだよ。声を掛けても返事はなかったし」
町人がそう言うなら、そうなのだろう。
サリは、子どもが見つからなかったことに落胆しながらも、マリアが人々の気を引かずに済んだことに安堵する。そして、そんな自分に罪悪感のようなものも覚えた。
「マリア、ここにはいないって。行こう?」
マリアの手を引き、その場を離れようとする。だが、彼女は動こうとしない。
「ここにいる」
その声は確信に満ちている。
「でも、もう探したってさ」
「ここにいる」
普段、我を通したことのないマリアが、頑として言い張る。
「ここ、中には下りてみたの?」
スレイグが一緒になって覗き込みながら、町民に尋ねた。彼らはお互いに顔を見合わせて、やがて首を振る。
「いや、上からカンテラで照らしただけだ。それで、充分底まで見えたから……」
「じゃあ、試しに下りてみようか。僕が行くから、縄を持ってきてよ」
町民の一人が慌しく駆け出し、直に太い縄を手にして戻ってくる。
「じゃ、合図したら引き上げて」
スレイグは自分の身体にしっかりと縄を巻きつけると、躊躇なく暗い井戸の底へと下りていく。それほど深い井戸ではないようで、間もなく縄が止まった。
スレイグの持っていったカンテラが井戸の中を明るく照らしていたが、不意にそれが陰る。どうしたことかと上の人間が息を呑んでいると、再び灯りが戻り、スレイグの声が響いてきた。
「いいよ。引き上げて」
固唾を呑んで彼が上がってくるのを見守る中で、スレイグの栗色の頭が井戸から覗く。その腕の中では、小さな女の子が寝息を立てていた。
「……!」
母親が声もなく駆け寄り、スレイグの腕から子どもを受け取る。父親と思われる男性が、二人を同時に抱き締めていた。
「この井戸、横穴があってさ、その中にいたよ。陰になるから上からは見えなかったんだね。怪我はなさそうだけど、よく寝ているから声を掛けても起きなかったんだろう」
スレイグが服の埃をはたきながら、呆然と見守っている町民たちに言う。そして、屈託なく笑いかけた。
「僕たち、今晩この町に泊まるつもりだったんだけど……」
――町一番の宿屋に案内されたのは、言うまでもなかった。