二
「マリア! ほら、見てみな!」
砂浜に駆け出したサリが、両手を広げて指し示す。
「これが海だよ!」
マリアは、サリの手が離れた場所から動けずにいた。
目の前にあるのは、広大で真っ青な、水溜り。その果ては見えずに、緩やかな曲線を描いている。
「どうしたんだい、マリアちゃん。行かないの?」
追いついたスレイグがマリアの背に手を沿え、海の方へと押し出そうとする。だが、その手が触れるか触れないか、というところでサリの怒声が響いた。
「あんた! このスケベ男! マリアに触るな!」
駆け寄ってきたサリはマリアの手を取り、ぐいぐいと引っ張る。
「ちょっと、サリさん。もう半年も一緒に旅してるっていうのに、連れないなぁ、ホント」
「うるさい! あんたが勝手についてきているだけだろ!」
サリの頭からは、怒りのあまり、湯気が立ちそうだ。
半年前、確かに目の前の優男に別れを告げた筈だった――サリは。
だが、町を出て三日後。
次に立ち寄った村で、不意にサリは肩を叩かれた。
振り返った彼女は、そこに見たくもないものを見て、あんぐりと開けた口を閉じることができなかった。ニコニコと笑うスレイグが、サリとマリアにヒラヒラと手を振っていたのである。
「――!」
「あれ? サリ、どうしたの?」
ハクハクと口を開閉するサリに、まるで毎日会っている相手に挨拶するかのように、スレイグは訊いてくる。その様子に、全く悪びれたところはない。
「あんた、あたしたちをつけてきたのか!?」
「まさかぁ。僕が国中の支店を視察して歩いているのは話したでしょ? 方向が同じだったんだね。奇遇だなぁ」
胡散臭い。この上なく、胡散臭い。
「もう、サリさんってば。そんなに怖い顔をしていたら、せっかくの美人が勿体ないよ? 怒っている顔もきれいだけど、ちょっと微笑んだら、道中の男を悩殺できるのに」
溜息を吐いてみせる優男に、サリの気が萎える。口で勝てる気がせず、サリはマリアの手を引いてさっさと歩き出した。もう相手にしないぞ、と心に言い聞かせて。
スレイグが偶然だと言うのならば、この先、二度と会うことはない筈だ。
そう、信じようとした。
だが、しかし。
蓋を開けてみれば、いつの間にか、もう半年も同じ行程を進んでいる。
最近では偶然を装うことすらしなくなり、「ご飯を独りで食べるのは寂しいし……」「女の子二人きりの旅なんて、危なくて見てられないし……」などと屁理屈を並べるようになってきた。
最近では、常にスレイグが傍にいる状況に違和感を覚えなくなってきている自分に、サリは気付いていなかった。
波打ち際にしゃがみこみ、潮が行き来する様をジッと見つめているマリアを、サリは少し離れたところから見守る。初めて見る海に興奮している――と思われる――マリアに満足しているサリは、隣にスレイグが腰を下ろしても、珍しく目くじらを立てることなく受け入れた。
「嬉しそうだねぇ、マリア」
「そうだろ?」
相変わらず表情の変化は乏しいマリアだったが、サリとスレイグには、彼女の喜怒哀楽が何となく判るようになってきた。
子どもが遊ぶ様を見守る母親のようなサリの風情に、スレイグが小さく笑みを漏らす。それを聞きつけて、サリがムッと振り返った。
「何だよ?」
「いや、本当に母親みたいだな、と思って」
「そんな年じゃないよ。……でも、そうかな、そんな気分かもな」
サリは一瞬眉を吊り上げかけたのをおさめて、少し俯きがちに頷いた。
いつものように食って掛かってこない彼女に、スレイグは、ふと以前から訊きたかった疑問を投げかける。
「君は、何でそんなにあの子に入れ込んでいるんだい? 旅の途中で出会ったことは聞いたけど……」
サリの言葉は、すぐには返ってこなかった。だが、スレイグは急かせることなく、待つ。
やがて、彼女は口を開いた。
「出会った時は、自分に重ねていたんだと思う。あの子は、放ったらかしの状態で閉じ込められていたんだ。今もそうだけど、もっと全然、言葉も知らなくって。最初のうちは、知恵遅れなのかと思ったぐらい」
言葉を探す様に、目を閉じる。スレイグは、その整った横顔に見入った。
「……あたしも、進む道を決められて、閉じ込められていたようなものだったからさ。何か、どうしても、外に連れ出してやりたくなったんだ」
サリは顔を上げてマリアを見つめる。少女は相変わらず水の動きに夢中になっているようだ。
「でも、あの子はあんなだからさ、どんな風に感じているのかなんて、サッパリ判らなくて。一緒にいても、本当は不安だった。満足しているのはあたしだけで、実は、あの子は元の場所に帰りたいんじゃないかって」
サリが、ふと笑みを漏らす。彼女の視線を追うと、マリアが少し強めに打ち寄せた波に驚いて、尻餅をついていた。
「あの時、あの子にあたしと居たいって言われて、凄く嬉しかった。ホントに」
そう言うと、サリは、一点の曇りもない笑みを浮かべた。スレイグには滅多に見せることのないその笑顔に、彼は思わず息を詰まらせる。
「今はね、最初の頃と違うな。あたしってさ、母さんに無茶苦茶愛されたんだよ。あたしの中には母さんからの愛情が一杯詰まっていて、きっと、それを次の誰かに渡したくって仕方がなかったんだと思う。あの子に会って、ようやく出口が見つかったって感じだよ」
言い終えたサリは、照れ臭さを隠すようにそそくさと立ち上がり、大きな波を頭から被ったマリアに走っていく。声を掛けたサリを、濡れ鼠のマリアが途方に暮れたように見上げるのが見て取れた。マリアの服を引っぺがし、自分が着ていた上着を被せてやるサリの笑い声が響いてくる。
二人の様子は、下手な実の親子以上に仲睦まじい。
ふと、スレイグの眼差しが曇る。
サリとマリアの仲が深まれば深まるほど、『計画』の成功率は上がる。彼は観察者であり、報告者だ。
時機が来たら、動かなければならない。
だが……。
スレイグは、『その時』を思い、空を仰いだ。