六
その朝、サリは珍しく、いつもの時間に起きてこなかった。
それもその筈で、彼女が眠りに就いたのは、夜も白み始めた頃だったのだ。
「まりあ……もうちょっと……」
揺さぶっても毛布を被ってしまったサリを、マリアは無言で見つめる。今日はミルが私用で出かけるため、仕事は休みになっている。つまり、寝坊してもいいということだ。サリが起きるまで、マリアは大人しく椅子に座って待つことにした。
頭の中で数を数えながら、マリアはサリを見守る。と、毛布の陰から何かが覗いているのに気付いた。
近寄って、そっと毛布をめくる。そこにあったのは、先日サリに買ってもらったのと似ているが、もっとキラキラしている物だ。
こういうキラキラした物を、今までサリが持っているのを見たことがない。
何で、ここにあるのだろう?
サリが必要のない物を買う筈がない。この間、あんなに怒っていたのに、またスレイグに貰ったのだろうか。
マリアがしげしげとそれを見つめていると、サリの目がパチリと開いた。
「おは――」
よう、と続けようとして、サリは高価な首飾りが露わになっていたことに気付く。
昨晩、この町一番の金持ちの家から、ちょっと失敬してきた物だ。マリアに見せるつもりはなかったのだが。
案の定、マリアが首飾りを指差して訊いてくる。
「これ、もらった?」
「ん……まあ」
「スレイグ?」
「まさか!」
「……?」
マリアの好奇心は3歳児並だ。一度疑問に思ったら、完全に解決するまで答えを求める。
「――たくさんあって、余ってるところから貰ってきたんだよ」
どうせ金持ちは、一度身に着けた物は二度と使わない。無くなった事にすら気付かないだろう。首飾りも存在を忘れ去られるぐらいなら、有意義に使われた方がいいに違いない。
だが、当然、マリアにそんな理屈は通じない。
「前に、店から取ろうとしたら、ダメだと言った」
「あれは売り物だから」
「? でも、いっぱいある。何で違う?」
そう問われても、そもそも、店頭から勝手に取ってはいけないことと、金持ちから盗ってはいけないこととの違いはないのだから、答えようがない。
「違うものは違うんだ」
「でも、サリは……」
「もう、いいだろ!」
初めて聞く、自分に向けられたサリの大声に、マリアがビクリと身を竦ませる。
怒鳴ったサリ自身が、息を呑んだ。
大きく見開かれた深紅の眼差しに見つめられ、サリは毛布を跳ね除けると、上着だけを手にして部屋を飛び出していく。
残されたマリアは、ピクリとも動けない。サリの強い感情に圧倒されていたのだ。
色々な感情が混じっていたが、その中にマリアに対する怒りのようなものがあったことは確かだ。
サリはよく怒るが、それがマリアに向けられたことはない。マリアが何か間違ったことをしても、怒らずに、彼女が理解できるように正しい答えを教えてくれたのだ。
サリは、もう戻ってこないのだろうか。
そんな考えが、ちらりと頭をよぎる。
その瞬間、世界が揺らいだような気がした。ひどく足元が心許なくて、うまく立つことができない。
目の奥が熱くて、物がよく見えなくなった。
いったい、自分に何が起きているのだろうか。
サリと出会うまでは、「誰もいない」状態が当たり前であったというのに、今は「サリがいない」状態に耐えられない。
サリと過ごすうちに、色を知り、音を知り、匂いを知り、味を知った。そして、きっと、まだまだ他にもある。
マリアはふらりと歩き出す。また怒らせるかもしれない。けれど、とにかく、サリを追おうと思った。
部屋を出て、階段を下り、店を出る。
と、そこに、背後から声がかかった。
「あれ、マリア? 独りで出歩いていいの?」
振り向いたマリアを見て、声の主であるスレイグがぎょっとする。
「どうしたの!? 何で泣いてるの?」
慌てて駆け寄り、手巾で頬を拭ってくる。
「ちょっと、サリはどうしたんだい?」
「わからない」
「わからないって、そんな……。とにかく、店に戻ろうよ。君みたいな子どもが独りでふらふら歩いていちゃ、いけないよ?」
そう言うと、マリアの手を引いて店の戸を開ける。
「あれ、今日は休みなんだね。ほら、座って、話を聞かせてよ」
促されるままに、マリアは椅子に座る。
「で、どうしたの? サリは?」
「怒って、行ってしまった」
そう言うと、またポロポロと頬を雫が転げ落ちていく。表情は何一つ変わらないのに、涙だけは堰を切ったように止まらない。
「ああ、ほら、もう泣かないで。何があったか話してごらんよ」
「サリが、キラキラした物を持っていた。たくさんあるところから持ってきたと言っていた。前に、マリアが店の物を勝手に取ったら、ダメだと言われた。何が違うのかと訊いたら、サリが怒った」
「あー、ああ、そういうことね……」
「サリは、もう帰ってこない?」
マリアが、ようやく深紅の瞳をスレイグに向ける。
「んー、どうかなぁ。あ、そうだ。マリアちゃん、このまま僕と一緒に行かない?」
「行かない」
即座に返る拒否に、スレイグはガクリと崩れる。
「ええ? 僕はお金持ちだから、苦労させないよ?」
「サリがいい」
それは、殆ど刷り込みのようなものなのかもしれない。しかし、マリアが一緒に時を過ごしたいと思うのは、サリしかいなかった。
静かに涙を流しながら断言するマリアを見るスレイグの眼差しが、どこか憐れむようなものであることに、彼女は気付いていない。幼い子どもの世界の狭さを憐れむものなのか、それとも、全く別のものなのか――。
スレイグも、もうそれ以上誘いをかけようとはせず、マリアの頬が濡れるさまを見守った。
嗚咽一つ漏れない静寂が続く。
が、不意に、その静けさは破られた。
戸口が、壊れんばかりのけたたましい音と共に開け放たれる。
振り返った二人の目に、仁王立ちになった人影が映る。その表情は、逆光で良く見えない。
それは突風のようにマリアに駆け寄ると、彼女の頭を力の限りに、その豊満な胸に押し付けた。
「ゴメン、マリア。あたしが悪かった! あんたは何も間違ってない!」
ギュウギュウと、窒息しそうなほどに圧迫され、マリアの涙もぴたりと止まる。
「サリ……?」
「あんた、泣いてる? あたしが泣かしたんだよね、ゴメン」
「なく……? これ? 目から、水が止まらなかった」
「ああ、もう! 笑わせるのよりも泣かせる方が先になるなんて!」
そう言って、またマリアの頭をグリグリと抱き締める。
「ちょっと、サリさん……? そろそろ解放してあげないと、本当に窒息しちゃうよ?」
遠慮がちにそう声を掛けられて、サリは、今初めて気が付いた、とばかりにスレイグを見る。実際、気が付いていなかったのだが。
「あんた、何でここにいるの?」
「それはないでしょう……」
情けない顔で項垂れたスレイグに代わって、マリアが答える。
「独りで外は、だめ、と……」
「マリアを止めてくれたの?」
「ええ、まあ。こんな可愛い子を独りでフラフラ歩かせたら、あっという間に消えちゃうでしょ」
当たり前、という顔で言われ、サリは目を逸らす。世間知らずの子どもを独りで置き去りにしたのは、彼女だ。
「……助かった。ありがとう」
普段ぼろくそな対応をしている相手だけに、礼を言うのも気まずいものがある。だが、今、マリアがここにいるのは、紛れもなくスレイグのお陰だ。目を伏せ、頬を赤くしながら、サリはボソボソと感謝の言葉を口にした。
「う……わ、可愛い」
滅多に見られないサリの仕草に、スレイグの口からついポロリとこぼれてしまう。案の定、ギラリと睨み付けられた。
「うるさい! 確かに助かったけど! あたしたちはこれから大事な話をするから、さっさと出て行け!」
頬の火照りが取れないままでは威嚇も効果半減だったが、それでもサリは何とかスレイグを店の外へと追い出した。
少し息を整えておいてから、マリアに向き直る。
マリアの頬はすっかり乾いていたが、若干赤くなった目元と鼻だけがいつもと違っていた。サリは、彼女とちょうど向かい合わせになるように座る。
「ゴメンな、置いていって。でも、あんたを嫌いになったんじゃないんだよ」
手を伸ばして頭を撫でてやると、何処となくホッとしたように見えたのは、気の所為だろうか。
「マリアの言うとおり、金持ちから盗るのも、店から勝手に取るのも、どっちもイケないことなんだ。さっきのアレは、自分でもごまかしていた事を言われたから、あんなふうに怒鳴ったんだ。マリアの事を嫌いになったからじゃない」
難しいことを言っても、この少女にはまだ理解できないかもしれない。だが、サリは、マリアにわずかな不安も残しておきたくなかった。
「あたしは、娼館で育ったんだ。母さんはいいとこのお嬢さんだったんだけど、ろくでもない男に惚れて駆け落ちして、結局捨てられた。その頃にはあたしができてたから、家にも帰れなかったんだよね。家に帰ったらあたしと引き離されちゃうから、怖くて帰れなかったって、言ってた。でも、何にもできないお嬢さんは身体を売るしかなくってさ。売るって言っても、別に、腕や脚を切って売るわけじゃない。男から金をもらう代わりに、自分の身体を好きにさせるんだ」
サリは少し口を止める。マリアはいつもと変わらぬ静かな表情で聞いていた。
「そうするとね、見た目は別に何も変わらないんだけど、心はどんどん減っていくんだ。娼館にいた姐さん達は、みんなそうだった。『たいしたことじゃない』って言うんだけど、目は全然違うことを言ってた。母さんは、身体ももたなかったな。あたしがあんたよりも少し大きいくらいの時に、あたしに『ゴメンね』って何度も言いながら死んでった」
多分、サリを娼館に残していくことを、謝っていたのだろう。母親の容姿を引き継いでいたサリは、幼い頃から器量が目立っており、娼館の女たちに「いい稼ぎ頭になる」と言われていた。母親は、どんな思いでそれを聞いていたのか。
「そのまま娼館にいたら、多分、食べることには困らなかっただろうと思う。きっと、凄い稼いで、もしかしたら、いいところの妾にでもなってたかもしれない。でも、あたしは、最初から最後までそんなふうに閉じ込められた生き方なんて、イヤだった」
そしてサリは、ずっと閉じ込めてきた考えを口にする。
「でも、これはあたしの考えなんだ。マリア、あんたを連れ出して、本当に良かったのかな、と思う時がある。あんたにとっては、あそこでの生活が幸せだったって事はないのかなって」
閉じ込められ、変化のない生活、自分の意に沿わないことをする生活は、サリにとっては苦痛なことだ。だが、マリアのような者であれば、安定と平穏こそが全てではないのだろうかとも思える。サリの感覚でこんなふうに連れ回っていてもいいのだろうか、と。
「ねえ、あんたが望むなら、あそこに帰してあげるよ?」
マリアの両手を包み、サリは言う。
サリの気持ちは、この手を放したくない。
だが、マリアの事を考えるならば、彼女の望みこそを叶えてやるべきだ。
審判を待つ気持ちで目を閉じ、マリアの言葉を待った。
「サリ」
名前を呼ばれて、サリは眼瞼を上げる。目の前のマリアは、再びポロポロと大粒の涙をこぼしていた。
「マリア……」
「マリアは、サリといる。……マリアは、サリがいい」
「ほんとに、いいの?」
念を押されて、マリアはコクリと頷く。そこに迷いは感じられない。
サリは思わず立ち上がり、マリアをギュッと抱き締める。
「色んな所に連れてって、色んなものを見せてやる。まだまだ、あんたの知らないことがたくさんあるんだから」
おずおずとマリアの手が上がり、サリの服を握り締めた。
*
戸を開け、顔を覗かせたサリは、脇に寄りかかっているスレイグを見て眉間に皺を寄せた。いるだろうな、とは思っていたが、殆ど条件反射のようなものだ。
マリアとの事が落ち着いてみると、曲がりなりにも世話になった相手に、先ほどの態度はあんまりだと思い直したのだ――今いなければ、そのまま放っておこうと思っていたのだが。
「落ち着いた?」
「うん、まあ。……ありがとう」
ペコリと頭を下げたサリに、スレイグが複雑な顔をする。
「……何?」
「いや、君が素直だと、何だか変な感じが……」
ムカッとしたが、この男とも今日までだと思えば堪えられた。
「世話になったけど、あたしたち、明日ここを出るから」
「明日!? そりゃまた、急な」
「んー、マリアに、もっと色々なところを見せてやりたいんだ。海とか、雪とか」
「へえ、そりゃいいね」
「だろ? だから、あんたと会うのも今日が最後だから」
「そりゃぁ、残念だ」
「そうだね。じゃあね」
意外とあっさりとした別れに気を良くして、サリはおまけにニッコリと笑顔を送った。おそらく、スレイグに笑いかけたのは初めてだろう。
「じゃあ」
スレイグが手を振ると、目の前で扉が閉まる。その後に続いた彼の言葉を、サリは耳にすることがなかった。
「……またね」