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世界樹の祈り  作者: トウリン
卵の殻が割れるとき
10/23

 その朝、サリは珍しく、いつもの時間に起きてこなかった。

 それもその筈で、彼女が眠りに就いたのは、夜も白み始めた頃だったのだ。

「まりあ……もうちょっと……」

 揺さぶっても毛布を被ってしまったサリを、マリアは無言で見つめる。今日はミルが私用で出かけるため、仕事は休みになっている。つまり、寝坊してもいいということだ。サリが起きるまで、マリアは大人しく椅子に座って待つことにした。

 頭の中で数を数えながら、マリアはサリを見守る。と、毛布の陰から何かが覗いているのに気付いた。

 近寄って、そっと毛布をめくる。そこにあったのは、先日サリに買ってもらったのと似ているが、もっとキラキラしている物だ。

 こういうキラキラした物を、今までサリが持っているのを見たことがない。

 何で、ここにあるのだろう?

 サリが必要のない物を買う筈がない。この間、あんなに怒っていたのに、またスレイグに貰ったのだろうか。

 マリアがしげしげとそれを見つめていると、サリの目がパチリと開いた。

「おは――」

 よう、と続けようとして、サリは高価な首飾りが露わになっていたことに気付く。

 昨晩、この町一番の金持ちの家から、ちょっと失敬してきた物だ。マリアに見せるつもりはなかったのだが。

 案の定、マリアが首飾りを指差して訊いてくる。

「これ、もらった?」

「ん……まあ」

「スレイグ?」

「まさか!」

「……?」

 マリアの好奇心は3歳児並だ。一度疑問に思ったら、完全に解決するまで答えを求める。

「――たくさんあって、余ってるところから貰ってきたんだよ」

 どうせ金持ちは、一度身に着けた物は二度と使わない。無くなった事にすら気付かないだろう。首飾りも存在を忘れ去られるぐらいなら、有意義に使われた方がいいに違いない。

 だが、当然、マリアにそんな理屈は通じない。

「前に、店から取ろうとしたら、ダメだと言った」

「あれは売り物だから」

「? でも、いっぱいある。何で違う?」

 そう問われても、そもそも、店頭から勝手に取ってはいけないことと、金持ちから盗ってはいけないこととの違いはないのだから、答えようがない。

「違うものは違うんだ」

「でも、サリは……」

「もう、いいだろ!」

 初めて聞く、自分に向けられたサリの大声に、マリアがビクリと身を竦ませる。

 怒鳴ったサリ自身が、息を呑んだ。

 大きく見開かれた深紅の眼差しに見つめられ、サリは毛布を跳ね除けると、上着だけを手にして部屋を飛び出していく。

 残されたマリアは、ピクリとも動けない。サリの強い感情に圧倒されていたのだ。

 色々な感情が混じっていたが、その中にマリアに対する怒りのようなものがあったことは確かだ。

 サリはよく怒るが、それがマリアに向けられたことはない。マリアが何か間違ったことをしても、怒らずに、彼女が理解できるように正しい答えを教えてくれたのだ。

 サリは、もう戻ってこないのだろうか。

 そんな考えが、ちらりと頭をよぎる。

 その瞬間、世界が揺らいだような気がした。ひどく足元が心許なくて、うまく立つことができない。

 目の奥が熱くて、物がよく見えなくなった。

 いったい、自分に何が起きているのだろうか。

 サリと出会うまでは、「誰もいない」状態が当たり前であったというのに、今は「サリがいない」状態に耐えられない。

 サリと過ごすうちに、色を知り、音を知り、匂いを知り、味を知った。そして、きっと、まだまだ他にもある。

 マリアはふらりと歩き出す。また怒らせるかもしれない。けれど、とにかく、サリを追おうと思った。

 部屋を出て、階段を下り、店を出る。

 と、そこに、背後から声がかかった。

「あれ、マリア? 独りで出歩いていいの?」

 振り向いたマリアを見て、声の主であるスレイグがぎょっとする。

「どうしたの!? 何で泣いてるの?」

 慌てて駆け寄り、手巾で頬を拭ってくる。

「ちょっと、サリはどうしたんだい?」

「わからない」

「わからないって、そんな……。とにかく、店に戻ろうよ。君みたいな子どもが独りでふらふら歩いていちゃ、いけないよ?」

 そう言うと、マリアの手を引いて店の戸を開ける。

「あれ、今日は休みなんだね。ほら、座って、話を聞かせてよ」

 促されるままに、マリアは椅子に座る。

「で、どうしたの? サリは?」

「怒って、行ってしまった」

 そう言うと、またポロポロと頬を雫が転げ落ちていく。表情は何一つ変わらないのに、涙だけは堰を切ったように止まらない。

「ああ、ほら、もう泣かないで。何があったか話してごらんよ」

「サリが、キラキラした物を持っていた。たくさんあるところから持ってきたと言っていた。前に、マリアが店の物を勝手に取ったら、ダメだと言われた。何が違うのかと訊いたら、サリが怒った」

「あー、ああ、そういうことね……」

「サリは、もう帰ってこない?」

 マリアが、ようやく深紅の瞳をスレイグに向ける。

「んー、どうかなぁ。あ、そうだ。マリアちゃん、このまま僕と一緒に行かない?」

「行かない」

 即座に返る拒否に、スレイグはガクリと崩れる。

「ええ? 僕はお金持ちだから、苦労させないよ?」

「サリがいい」

 それは、殆ど刷り込みのようなものなのかもしれない。しかし、マリアが一緒に時を過ごしたいと思うのは、サリしかいなかった。

 静かに涙を流しながら断言するマリアを見るスレイグの眼差しが、どこか憐れむようなものであることに、彼女は気付いていない。幼い子どもの世界の狭さを憐れむものなのか、それとも、全く別のものなのか――。

 スレイグも、もうそれ以上誘いをかけようとはせず、マリアの頬が濡れるさまを見守った。

 嗚咽一つ漏れない静寂が続く。

 が、不意に、その静けさは破られた。

 戸口が、壊れんばかりのけたたましい音と共に開け放たれる。

 振り返った二人の目に、仁王立ちになった人影が映る。その表情は、逆光で良く見えない。

 それは突風のようにマリアに駆け寄ると、彼女の頭を力の限りに、その豊満な胸に押し付けた。

「ゴメン、マリア。あたしが悪かった! あんたは何も間違ってない!」

 ギュウギュウと、窒息しそうなほどに圧迫され、マリアの涙もぴたりと止まる。

「サリ……?」

「あんた、泣いてる? あたしが泣かしたんだよね、ゴメン」

「なく……? これ? 目から、水が止まらなかった」

「ああ、もう! 笑わせるのよりも泣かせる方が先になるなんて!」

 そう言って、またマリアの頭をグリグリと抱き締める。

「ちょっと、サリさん……? そろそろ解放してあげないと、本当に窒息しちゃうよ?」

 遠慮がちにそう声を掛けられて、サリは、今初めて気が付いた、とばかりにスレイグを見る。実際、気が付いていなかったのだが。

「あんた、何でここにいるの?」

「それはないでしょう……」

 情けない顔で項垂れたスレイグに代わって、マリアが答える。

「独りで外は、だめ、と……」

「マリアを止めてくれたの?」

「ええ、まあ。こんな可愛い子を独りでフラフラ歩かせたら、あっという間に消えちゃうでしょ」

 当たり前、という顔で言われ、サリは目を逸らす。世間知らずの子どもを独りで置き去りにしたのは、彼女だ。

「……助かった。ありがとう」

 普段ぼろくそな対応をしている相手だけに、礼を言うのも気まずいものがある。だが、今、マリアがここにいるのは、紛れもなくスレイグのお陰だ。目を伏せ、頬を赤くしながら、サリはボソボソと感謝の言葉を口にした。

「う……わ、可愛い」

 滅多に見られないサリの仕草に、スレイグの口からついポロリとこぼれてしまう。案の定、ギラリと睨み付けられた。

「うるさい! 確かに助かったけど! あたしたちはこれから大事な話をするから、さっさと出て行け!」

 頬の火照りが取れないままでは威嚇も効果半減だったが、それでもサリは何とかスレイグを店の外へと追い出した。

 少し息を整えておいてから、マリアに向き直る。

 マリアの頬はすっかり乾いていたが、若干赤くなった目元と鼻だけがいつもと違っていた。サリは、彼女とちょうど向かい合わせになるように座る。

「ゴメンな、置いていって。でも、あんたを嫌いになったんじゃないんだよ」

 手を伸ばして頭を撫でてやると、何処となくホッとしたように見えたのは、気の所為だろうか。

「マリアの言うとおり、金持ちから盗るのも、店から勝手に取るのも、どっちもイケないことなんだ。さっきのアレは、自分でもごまかしていた事を言われたから、あんなふうに怒鳴ったんだ。マリアの事を嫌いになったからじゃない」

 難しいことを言っても、この少女にはまだ理解できないかもしれない。だが、サリは、マリアにわずかな不安も残しておきたくなかった。

「あたしは、娼館で育ったんだ。母さんはいいとこのお嬢さんだったんだけど、ろくでもない男に惚れて駆け落ちして、結局捨てられた。その頃にはあたしができてたから、家にも帰れなかったんだよね。家に帰ったらあたしと引き離されちゃうから、怖くて帰れなかったって、言ってた。でも、何にもできないお嬢さんは身体を売るしかなくってさ。売るって言っても、別に、腕や脚を切って売るわけじゃない。男から金をもらう代わりに、自分の身体を好きにさせるんだ」

 サリは少し口を止める。マリアはいつもと変わらぬ静かな表情で聞いていた。

「そうするとね、見た目は別に何も変わらないんだけど、心はどんどん減っていくんだ。娼館にいた姐さん達は、みんなそうだった。『たいしたことじゃない』って言うんだけど、目は全然違うことを言ってた。母さんは、身体ももたなかったな。あたしがあんたよりも少し大きいくらいの時に、あたしに『ゴメンね』って何度も言いながら死んでった」

 多分、サリを娼館に残していくことを、謝っていたのだろう。母親の容姿を引き継いでいたサリは、幼い頃から器量が目立っており、娼館の女たちに「いい稼ぎ頭になる」と言われていた。母親は、どんな思いでそれを聞いていたのか。

「そのまま娼館にいたら、多分、食べることには困らなかっただろうと思う。きっと、凄い稼いで、もしかしたら、いいところの妾にでもなってたかもしれない。でも、あたしは、最初から最後までそんなふうに閉じ込められた生き方なんて、イヤだった」

 そしてサリは、ずっと閉じ込めてきた考えを口にする。

「でも、これはあたしの考えなんだ。マリア、あんたを連れ出して、本当に良かったのかな、と思う時がある。あんたにとっては、あそこでの生活が幸せだったって事はないのかなって」

 閉じ込められ、変化のない生活、自分の意に沿わないことをする生活は、サリにとっては苦痛なことだ。だが、マリアのような者であれば、安定と平穏こそが全てではないのだろうかとも思える。サリの感覚でこんなふうに連れ回っていてもいいのだろうか、と。

「ねえ、あんたが望むなら、あそこに帰してあげるよ?」

 マリアの両手を包み、サリは言う。

 サリの気持ちは、この手を放したくない。

 だが、マリアの事を考えるならば、彼女の望みこそを叶えてやるべきだ。

 審判を待つ気持ちで目を閉じ、マリアの言葉を待った。

「サリ」

 名前を呼ばれて、サリは眼瞼を上げる。目の前のマリアは、再びポロポロと大粒の涙をこぼしていた。

「マリア……」

「マリアは、サリといる。……マリアは、サリがいい」

「ほんとに、いいの?」

 念を押されて、マリアはコクリと頷く。そこに迷いは感じられない。

 サリは思わず立ち上がり、マリアをギュッと抱き締める。

「色んな所に連れてって、色んなものを見せてやる。まだまだ、あんたの知らないことがたくさんあるんだから」

 おずおずとマリアの手が上がり、サリの服を握り締めた。


   *

 戸を開け、顔を覗かせたサリは、脇に寄りかかっているスレイグを見て眉間に皺を寄せた。いるだろうな、とは思っていたが、殆ど条件反射のようなものだ。

 マリアとの事が落ち着いてみると、曲がりなりにも世話になった相手に、先ほどの態度はあんまりだと思い直したのだ――今いなければ、そのまま放っておこうと思っていたのだが。

「落ち着いた?」

「うん、まあ。……ありがとう」

 ペコリと頭を下げたサリに、スレイグが複雑な顔をする。

「……何?」

「いや、君が素直だと、何だか変な感じが……」

 ムカッとしたが、この男とも今日までだと思えば堪えられた。

「世話になったけど、あたしたち、明日ここを出るから」

「明日!? そりゃまた、急な」

「んー、マリアに、もっと色々なところを見せてやりたいんだ。海とか、雪とか」

「へえ、そりゃいいね」

「だろ? だから、あんたと会うのも今日が最後だから」

「そりゃぁ、残念だ」

「そうだね。じゃあね」

 意外とあっさりとした別れに気を良くして、サリはおまけにニッコリと笑顔を送った。おそらく、スレイグに笑いかけたのは初めてだろう。

「じゃあ」

 スレイグが手を振ると、目の前で扉が閉まる。その後に続いた彼の言葉を、サリは耳にすることがなかった。

「……またね」

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