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『ブックマークで延長された5分間で、氷の歌姫に好きと言えた』

掲載日:2026/06/02

 ネオ・トーキョーの深夜二時、冷たいホログラムの雨が降る。


 にじむ極彩色のネオン。


 宙を泳ぐ巨大な電子クジラの広告。


 それらを虚ろに見上げる、何千人ものアバターたち。


 誰もが現実の傷を隠すために、精巧なデジタルを身にまとって息をしている。


 僕の名前はレン。


 現実世界では、瀬尾駆。二十四歳。


 この仮想現実空間で、周囲の顔色と空気だけをスマートに読みながら、致命的な傷を負わない距離で生きているヘタレな男だ。


 初回ログイン時、一度だけ引けるスキルガチャで、僕が引き当てたのは【観測者支援】というハズレスキルだった。


 コメント機能すらない。


 ただ、僕の行動がどこかの誰かに筒抜けになるだけ。


 閲覧者が増えると、移動速度がほんの少し上がる。


 それだけの、地味すぎる配信スキルだった。


「レンくん。――今日で、ここに来るのは最後にするね」


 ログアウト寸前の限定VIPエリア。


 ホログラムの雨に濡れるシブヤの屋上で、彼女は静かに言った。


 レイラ。


 この世界で「氷の歌姫」と称される、誰もが憧れる完璧なアバター。


 中身は僕と同じ、現実世界に少し疲れた大人の女性――白石ルイさん。


 引き止めなきゃいけない。


 喉の奥まで言葉がせり上がっているのに、僕の臆病な指先は「ログアウト」の文字に触れようとしていた。


「……そうですか。お疲れ様でした。ルイさん」


 また、いつものように綺麗に逃げようとした。


 そんな僕を責めるでもなく、彼女はネオンの夜を見つめたまま、ぽつりと呟く。


「拍手はまだ平気。そこに人がいるって分かるから。でも――ひとりの世界に戻るのは、少し怖い」


「ログアウトしたあと、ですか?」


「うん。この世界では、誰かが見てくれてる。だから、寂しくないって思える」


 ルイさんは、少しだけ冗談めかして笑った。


「私、売れっ子だしね」


 綺麗で、少しだけ苦しそうな笑顔だった。


「でも最近、見られてるって分かりすぎると、息ができなくなるの」


 ネオンの光が、彼女の横顔を青く染めていた。


「ログインすれば数字が動く。ログアウトすれば、数字も反応も、全部消える」


 彼女は、自分の胸元に手を当てた。


「まるで、この世界に生かされてるみたいで」


 その瞬間だった。


 僕の視界の隅で、悪戯なフォントのUIが妖しく明滅した。


【 いいね!】


 ――おい、待て。


 お前ら、マジで余計なことすんな。


 押すな。


【 27いいね!】


 増えるの早すぎないか。


【 89いいね!】


 いや、深夜二時だぞ。


【 250いいね!】


 一瞬で!?


 次の瞬間、身体が勝手に前へ出た。


 閲覧者が増えると、移動速度が少し上がる。


 それは知っていた。


 けれど、まさか口まで速くなるとは聞いてない。


「数字じゃなくて、僕は、あなたの声を聞いてました」


 ……言った。


 言ってしまった。


 しかも、自分でも引くくらい本気のやつを。


 ルイさんが息を呑んだ。


 いつもの彼女なら、きっと笑って受け流していた。


「またまた。レンくんは優しいね」


 そんなふうに、大人っぽく、綺麗に。


 でも、今の言葉だけは違った。


 飾っていない。


 ごまかしていない。


 数字でも、評価でも、歌姫への期待でもない。


 僕の本音そのものだった。


 だからなのか。


 完璧だったレイラの表情が、一瞬だけ崩れた。


「……レンくん、それ、どういう意味?」


 心臓がバクバクと痛いほど跳ねる。


 僕はパニックになりかけた脳を必死に回した。


「す、すみません。今のは、その、変な意味ではなくて。いや、変な意味がゼロかと言われると、たぶんゼロではないんですけど」


 言いながら、どんどん墓穴を掘っている気がした。


「でも、えっと……行かないでほしいです。もう少しだけでいいので、付き合ってください」


 最後だけ、なぜかちゃんと本音になった。


 ルイさんはしばらく僕を見ていた。


 やがて、困ったように眉を下げる。


「……変なレンくん。少しだけ、歩こうか」


 僕たちはエリアを移動し、ネオンの光がにじむホログラムの雨の街を並んで歩いた。


 その間にも、視界の端で数字は増え続けていた。


【 990いいね!】


「……ねえ、レンくん」


「はい」


「なんか、歩くの早くない?」


「えっ」


 気づけば僕は、ルイさんより半歩どころか三歩くらい前に出ていた。


 閲覧者が増えると、移動速度が少し上がる。


 さっき説明した、あの地味すぎる実利だ。


「す、すみません。たぶん、その……ウキウキで」


 言ってから、僕は死ぬほど後悔した。


 違う。


 それは事実だけど、言い方がある。


【 1200いいね!】


 増えるな。


 今のどこにいいね要素があった。


 ルイさんは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。


「そっか。ウキウキなんだ」


「……忘れてください」


「無理かも」


 深夜のアイテムショップに駆け込み、僕はぬるい缶コーヒーを買う。


 彼女はカップの味噌汁を手に取った。


「ネオ・シブヤで味噌汁って、だいぶ渋いですね」


「だって、こういう夜は味噌汁でしょ?」


「急に生活感」


「嫌い?」


「好きです」


「え?」


「味噌汁が、です」


 危ない。


 また変なところで本音が飛び出しかけた。


【 1350いいね!】


 増えるな。


 今のは違う。


 自販機の横には、誰が落としたのか、スライムの形をした奇妙なキーホルダーが転がっている。


「かわいい」


 ルイさんが拾い上げて、指先でぷにっと押した。


「レンくんみたい」


「僕、スライム判定なんですか?」


「すぐ形変わるし」


「反論できない」


 小さな公園のベンチ。


 ルイさんが温かい味噌汁のデータを、ふう、と息を吹きかけながらすする。


「変なの。深夜二時に、ネオ・シブヤで後輩と味噌汁なんて」


「僕も初めてですよ」


「私ね、最初のスキルガチャで、歌のスキルを引いたの」


 ルイさんが、カップを両手で包んだまま言った。


「星が集まるほど、声が綺麗に補正されるスキル」


「すごいじゃないですか」


「うん。最初は、そう思った」


 ルイさんは笑った。


 でもその笑顔は、少しだけ薄かった。


「星が増えるたびに、歌が上手くなった。みんな褒めてくれた。氷の歌姫だって」


 彼女は、自分の喉にそっと触れた。


「でもね、だんだん分からなくなったの」


「何が、ですか?」


「褒められてるのが、私の声なのか、スキルで補正された声なのか」


 その瞬間、パチパチと夜空の隅で淡い光が弾けた。


【⭐ 評価】


 ルイさんの肩が、びくりと震えた。


「やめて……! 星は、もう見たくないの……っ」


 さっきまでの笑顔が、一瞬で消える。


 でも、落ちてきた星は彼女の歌声を補正しなかった。


 ただ、世界を優しく照らした。


 ホログラムの雨粒が、ダイヤモンドみたいに光る。


 壊れた街灯が、ゆっくりとハミングを始める。


 世界が、やりすぎなくらい全力でロマンチックになった。


「……すごいですね」


「うん」


「なんか、急に告白しないと失礼な空気になってません?」


「ふふ。しなくていいよ」


 ルイさんが笑った。


 その声に誘われるように、彼女の喉から、ふいに、一音だけ綺麗な歌がこぼれた。


「……あ」


 ルイさんが、自分の喉に手を当てる。


「今の……補正じゃない」


 消え入りそうな声だった。


「私の声、だった」


 世界が甘くなった空気の中、彼女はぽつりと弱音をこぼした。


「どこにいても、みんな私に完璧な歌姫を求める」


 ホログラムの雨が、彼女の肩をすり抜けて落ちる。


「でも本当は、もう自分の声が分からないの」


 僕は何か言わなきゃと思った。


 でも、こういう時に限って、気の利いた言葉なんて一つも出てこない。


「えっと、その、味噌汁は喉にいいらしいですよ」


 最低だ。


 僕の会話力は今すぐアンインストールした方がいい。


【 1800いいね!】


 やめろ。


 今の失言にいいねするな。


【 2100いいね!】


 だから増えるな。


 次の瞬間、僕の口が勝手に動いた。


「補正されてない声でも、聞きたいです」


 言葉が、止まらない。


「たぶん僕は、あなたの上手さじゃなくて……あなたの、その震えてる声が好きなんです」


 ルイさんが、言葉を失ったみたいに僕を見つめた。


 ホログラムの雨が、静かに彼女の肩をすり抜けていく。


「……それ」


 ルイさんの声が、少しだけ震えた。


「それ、たぶん、一番ずるいやつ」


「えっ」


「だって、そういうこと言われたら」


 彼女は困ったみたいに笑った。


 でも、その目は少しだけ潤んでいた。


「もう、“上手に歌わなきゃ”って思えなくなるじゃん」


 その言葉は、泣き言みたいで、少しだけ救われた人の声にも聞こえた。


 僕は何も言えなかった。


 言ったら、壊してしまいそうだったから。


 その瞬間だった。


【ブックマーク】


「え?」


 視界の端で、透明なしおりが一枚、夜に挟まれた。


【ブックマーク +1】


 また、一枚。


【ブックマーク +1】


 また、一枚。


【ブックマーク +1】


 通知音は鳴らない。


 ただ、誰かが静かに、この夜を閉じないでくれている。


【ブックマーク +10】


 十枚目のしおりが夜に挟まれた瞬間、閉じかけていた空が、少しだけ開いた。


【制限時間:残り五分】


「……延長された」


 ルイさんが、小さく呟いた。


 でも今度は、怖そうじゃなかった。


 少しだけ、困ったみたいに笑っていた。


「五分かぁ」


「長いですね」


「うん。終わるつもりだった夜には、ちょっと長い」


 ホログラムの雨が、静かに降っている。


 僕たちは、公園のベンチに並んで座ったまま、しばらく何も話さなかった。


 不思議だった。


 沈黙なのに、息苦しくない。


「……ねえ、レンくん」


 ルイさんが、膝の上で味噌汁のカップを両手で包みながら、ぽつりと言った。


「今の通知、音が鳴らなかったね」


「たぶん、急かしてないからです」


 僕は、静かに開いた夜空を見上げた。


「しおりは、続きを強制するものじゃないですから。いつでもこの夜に戻ってこられるように、ただそっと挟んでくれたんだと思います」


「戻ってこられる場所……」


「はい」


「私、もうずっと“氷の歌姫”をやってた気がする」


 ルイさんは少しだけ遠い目をして、苦く笑った。


「綺麗に歌って。綺麗に笑って。綺麗に返事して。だから、こうやって深夜二時に味噌汁飲んでるだけで、なんか悪いことしてる気分」


「ただ夜食を食べてるだけですよ」


「氷の歌姫は深夜二時に味噌汁飲まないでしょ」


「偏見です」


 ルイさんが、ふふっと笑った。


 さっきより、ずっと自然な笑い方だった。


 その瞬間、僕は初めて見た気がした。


 氷の歌姫じゃない。


 数字に追われる配信者でもない。


 ただの、白石ルイさんを。


 ルイさんの喉から、ふいに歌が零れた。


 一音だけじゃない。


 短く、不格好で、少し掠れている。


 けれど、さっきまでより、ずっと人間っぽい、愛おしい声だった。


「……あ」


 ルイさんが、自分でも信じられないみたいに口元を押さえる。


「今の……補正、かかってない」


 世界は静かだった。


 星も、うるさい通知音も、何も鳴らない。


 ただ、壊れた街灯だけが、遠くで優しくハミングしていた。


 視界の端で、【 2800いいね!】が跳ねていた。


 でも、もう見なかった。


 口が速くなる機能なんて、今はいらない。


「ルイさん」


「……なに?」


 僕は自分の心臓の音だけを信じて、まっすぐに彼女を見た。


「好きです」


 いいねのせいじゃない。


 ブックマークのせいでもない。


 ただ、僕自身の言葉で、伝えたかった。


 ルイさんは、泣きそうな顔で笑った。


「……ほんと、遅い」


 閉じかけていた空の向こうで、ネオ・トーキョーの夜明けが、ほんの少しだけ滲んでいた。


(完)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この話では、

**【いいね】**はレンの本音を少しだけ押し出すボタン。

**【星】**は、歌えなくなった彼女を責めずに照らす光。

**【ブックマーク】**は、この夜にいつでも戻ってこられるしおりとして描きました。


ここからは作者の本音です。


レンだけじゃなく、作者の背中も少しだけ押してもらえると嬉しいです。


「少し良かった」

「ルイの歌をもう少し聴いてみたい」


と思っていただけたら、軽い気持ちで【いいね】や【ブックマーク】を残していってください。


減るもんじゃないので。


※疲れた夜の日常が好きな方は『中村君シリーズ』も合うかもしれません。

相棒育成や冒険ものがお好きな方は『モンマス』『竜の子』も書いています。

短編もいくつか準備中です。

また気が向いた時に覗いていただければ幸いです。

どこかの物語で、またお会いできたら嬉しいです。

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