『ブックマークで延長された5分間で、氷の歌姫に好きと言えた』
ネオ・トーキョーの深夜二時、冷たいホログラムの雨が降る。
にじむ極彩色のネオン。
宙を泳ぐ巨大な電子クジラの広告。
それらを虚ろに見上げる、何千人ものアバターたち。
誰もが現実の傷を隠すために、精巧なデジタルを身にまとって息をしている。
僕の名前はレン。
現実世界では、瀬尾駆。二十四歳。
この仮想現実空間で、周囲の顔色と空気だけをスマートに読みながら、致命的な傷を負わない距離で生きているヘタレな男だ。
初回ログイン時、一度だけ引けるスキルガチャで、僕が引き当てたのは【観測者支援】というハズレスキルだった。
コメント機能すらない。
ただ、僕の行動がどこかの誰かに筒抜けになるだけ。
閲覧者が増えると、移動速度がほんの少し上がる。
それだけの、地味すぎる配信スキルだった。
「レンくん。――今日で、ここに来るのは最後にするね」
ログアウト寸前の限定VIPエリア。
ホログラムの雨に濡れるシブヤの屋上で、彼女は静かに言った。
レイラ。
この世界で「氷の歌姫」と称される、誰もが憧れる完璧なアバター。
中身は僕と同じ、現実世界に少し疲れた大人の女性――白石ルイさん。
引き止めなきゃいけない。
喉の奥まで言葉がせり上がっているのに、僕の臆病な指先は「ログアウト」の文字に触れようとしていた。
「……そうですか。お疲れ様でした。ルイさん」
また、いつものように綺麗に逃げようとした。
そんな僕を責めるでもなく、彼女はネオンの夜を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「拍手はまだ平気。そこに人がいるって分かるから。でも――ひとりの世界に戻るのは、少し怖い」
「ログアウトしたあと、ですか?」
「うん。この世界では、誰かが見てくれてる。だから、寂しくないって思える」
ルイさんは、少しだけ冗談めかして笑った。
「私、売れっ子だしね」
綺麗で、少しだけ苦しそうな笑顔だった。
「でも最近、見られてるって分かりすぎると、息ができなくなるの」
ネオンの光が、彼女の横顔を青く染めていた。
「ログインすれば数字が動く。ログアウトすれば、数字も反応も、全部消える」
彼女は、自分の胸元に手を当てた。
「まるで、この世界に生かされてるみたいで」
その瞬間だった。
僕の視界の隅で、悪戯なフォントのUIが妖しく明滅した。
【 いいね!】
――おい、待て。
お前ら、マジで余計なことすんな。
押すな。
【 27いいね!】
増えるの早すぎないか。
【 89いいね!】
いや、深夜二時だぞ。
【 250いいね!】
一瞬で!?
次の瞬間、身体が勝手に前へ出た。
閲覧者が増えると、移動速度が少し上がる。
それは知っていた。
けれど、まさか口まで速くなるとは聞いてない。
「数字じゃなくて、僕は、あなたの声を聞いてました」
……言った。
言ってしまった。
しかも、自分でも引くくらい本気のやつを。
ルイさんが息を呑んだ。
いつもの彼女なら、きっと笑って受け流していた。
「またまた。レンくんは優しいね」
そんなふうに、大人っぽく、綺麗に。
でも、今の言葉だけは違った。
飾っていない。
ごまかしていない。
数字でも、評価でも、歌姫への期待でもない。
僕の本音そのものだった。
だからなのか。
完璧だったレイラの表情が、一瞬だけ崩れた。
「……レンくん、それ、どういう意味?」
心臓がバクバクと痛いほど跳ねる。
僕はパニックになりかけた脳を必死に回した。
「す、すみません。今のは、その、変な意味ではなくて。いや、変な意味がゼロかと言われると、たぶんゼロではないんですけど」
言いながら、どんどん墓穴を掘っている気がした。
「でも、えっと……行かないでほしいです。もう少しだけでいいので、付き合ってください」
最後だけ、なぜかちゃんと本音になった。
ルイさんはしばらく僕を見ていた。
やがて、困ったように眉を下げる。
「……変なレンくん。少しだけ、歩こうか」
僕たちはエリアを移動し、ネオンの光がにじむホログラムの雨の街を並んで歩いた。
その間にも、視界の端で数字は増え続けていた。
【 990いいね!】
「……ねえ、レンくん」
「はい」
「なんか、歩くの早くない?」
「えっ」
気づけば僕は、ルイさんより半歩どころか三歩くらい前に出ていた。
閲覧者が増えると、移動速度が少し上がる。
さっき説明した、あの地味すぎる実利だ。
「す、すみません。たぶん、その……ウキウキで」
言ってから、僕は死ぬほど後悔した。
違う。
それは事実だけど、言い方がある。
【 1200いいね!】
増えるな。
今のどこにいいね要素があった。
ルイさんは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「そっか。ウキウキなんだ」
「……忘れてください」
「無理かも」
深夜のアイテムショップに駆け込み、僕はぬるい缶コーヒーを買う。
彼女はカップの味噌汁を手に取った。
「ネオ・シブヤで味噌汁って、だいぶ渋いですね」
「だって、こういう夜は味噌汁でしょ?」
「急に生活感」
「嫌い?」
「好きです」
「え?」
「味噌汁が、です」
危ない。
また変なところで本音が飛び出しかけた。
【 1350いいね!】
増えるな。
今のは違う。
自販機の横には、誰が落としたのか、スライムの形をした奇妙なキーホルダーが転がっている。
「かわいい」
ルイさんが拾い上げて、指先でぷにっと押した。
「レンくんみたい」
「僕、スライム判定なんですか?」
「すぐ形変わるし」
「反論できない」
小さな公園のベンチ。
ルイさんが温かい味噌汁のデータを、ふう、と息を吹きかけながらすする。
「変なの。深夜二時に、ネオ・シブヤで後輩と味噌汁なんて」
「僕も初めてですよ」
「私ね、最初のスキルガチャで、歌のスキルを引いたの」
ルイさんが、カップを両手で包んだまま言った。
「星が集まるほど、声が綺麗に補正されるスキル」
「すごいじゃないですか」
「うん。最初は、そう思った」
ルイさんは笑った。
でもその笑顔は、少しだけ薄かった。
「星が増えるたびに、歌が上手くなった。みんな褒めてくれた。氷の歌姫だって」
彼女は、自分の喉にそっと触れた。
「でもね、だんだん分からなくなったの」
「何が、ですか?」
「褒められてるのが、私の声なのか、スキルで補正された声なのか」
その瞬間、パチパチと夜空の隅で淡い光が弾けた。
【⭐ 評価】
ルイさんの肩が、びくりと震えた。
「やめて……! 星は、もう見たくないの……っ」
さっきまでの笑顔が、一瞬で消える。
でも、落ちてきた星は彼女の歌声を補正しなかった。
ただ、世界を優しく照らした。
ホログラムの雨粒が、ダイヤモンドみたいに光る。
壊れた街灯が、ゆっくりとハミングを始める。
世界が、やりすぎなくらい全力でロマンチックになった。
「……すごいですね」
「うん」
「なんか、急に告白しないと失礼な空気になってません?」
「ふふ。しなくていいよ」
ルイさんが笑った。
その声に誘われるように、彼女の喉から、ふいに、一音だけ綺麗な歌がこぼれた。
「……あ」
ルイさんが、自分の喉に手を当てる。
「今の……補正じゃない」
消え入りそうな声だった。
「私の声、だった」
世界が甘くなった空気の中、彼女はぽつりと弱音をこぼした。
「どこにいても、みんな私に完璧な歌姫を求める」
ホログラムの雨が、彼女の肩をすり抜けて落ちる。
「でも本当は、もう自分の声が分からないの」
僕は何か言わなきゃと思った。
でも、こういう時に限って、気の利いた言葉なんて一つも出てこない。
「えっと、その、味噌汁は喉にいいらしいですよ」
最低だ。
僕の会話力は今すぐアンインストールした方がいい。
【 1800いいね!】
やめろ。
今の失言にいいねするな。
【 2100いいね!】
だから増えるな。
次の瞬間、僕の口が勝手に動いた。
「補正されてない声でも、聞きたいです」
言葉が、止まらない。
「たぶん僕は、あなたの上手さじゃなくて……あなたの、その震えてる声が好きなんです」
ルイさんが、言葉を失ったみたいに僕を見つめた。
ホログラムの雨が、静かに彼女の肩をすり抜けていく。
「……それ」
ルイさんの声が、少しだけ震えた。
「それ、たぶん、一番ずるいやつ」
「えっ」
「だって、そういうこと言われたら」
彼女は困ったみたいに笑った。
でも、その目は少しだけ潤んでいた。
「もう、“上手に歌わなきゃ”って思えなくなるじゃん」
その言葉は、泣き言みたいで、少しだけ救われた人の声にも聞こえた。
僕は何も言えなかった。
言ったら、壊してしまいそうだったから。
その瞬間だった。
【ブックマーク】
「え?」
視界の端で、透明なしおりが一枚、夜に挟まれた。
【ブックマーク +1】
また、一枚。
【ブックマーク +1】
また、一枚。
【ブックマーク +1】
通知音は鳴らない。
ただ、誰かが静かに、この夜を閉じないでくれている。
【ブックマーク +10】
十枚目のしおりが夜に挟まれた瞬間、閉じかけていた空が、少しだけ開いた。
【制限時間:残り五分】
「……延長された」
ルイさんが、小さく呟いた。
でも今度は、怖そうじゃなかった。
少しだけ、困ったみたいに笑っていた。
「五分かぁ」
「長いですね」
「うん。終わるつもりだった夜には、ちょっと長い」
ホログラムの雨が、静かに降っている。
僕たちは、公園のベンチに並んで座ったまま、しばらく何も話さなかった。
不思議だった。
沈黙なのに、息苦しくない。
「……ねえ、レンくん」
ルイさんが、膝の上で味噌汁のカップを両手で包みながら、ぽつりと言った。
「今の通知、音が鳴らなかったね」
「たぶん、急かしてないからです」
僕は、静かに開いた夜空を見上げた。
「しおりは、続きを強制するものじゃないですから。いつでもこの夜に戻ってこられるように、ただそっと挟んでくれたんだと思います」
「戻ってこられる場所……」
「はい」
「私、もうずっと“氷の歌姫”をやってた気がする」
ルイさんは少しだけ遠い目をして、苦く笑った。
「綺麗に歌って。綺麗に笑って。綺麗に返事して。だから、こうやって深夜二時に味噌汁飲んでるだけで、なんか悪いことしてる気分」
「ただ夜食を食べてるだけですよ」
「氷の歌姫は深夜二時に味噌汁飲まないでしょ」
「偏見です」
ルイさんが、ふふっと笑った。
さっきより、ずっと自然な笑い方だった。
その瞬間、僕は初めて見た気がした。
氷の歌姫じゃない。
数字に追われる配信者でもない。
ただの、白石ルイさんを。
ルイさんの喉から、ふいに歌が零れた。
一音だけじゃない。
短く、不格好で、少し掠れている。
けれど、さっきまでより、ずっと人間っぽい、愛おしい声だった。
「……あ」
ルイさんが、自分でも信じられないみたいに口元を押さえる。
「今の……補正、かかってない」
世界は静かだった。
星も、うるさい通知音も、何も鳴らない。
ただ、壊れた街灯だけが、遠くで優しくハミングしていた。
視界の端で、【 2800いいね!】が跳ねていた。
でも、もう見なかった。
口が速くなる機能なんて、今はいらない。
「ルイさん」
「……なに?」
僕は自分の心臓の音だけを信じて、まっすぐに彼女を見た。
「好きです」
いいねのせいじゃない。
ブックマークのせいでもない。
ただ、僕自身の言葉で、伝えたかった。
ルイさんは、泣きそうな顔で笑った。
「……ほんと、遅い」
閉じかけていた空の向こうで、ネオ・トーキョーの夜明けが、ほんの少しだけ滲んでいた。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この話では、
**【いいね】**はレンの本音を少しだけ押し出すボタン。
**【星】**は、歌えなくなった彼女を責めずに照らす光。
**【ブックマーク】**は、この夜にいつでも戻ってこられるしおりとして描きました。
ここからは作者の本音です。
レンだけじゃなく、作者の背中も少しだけ押してもらえると嬉しいです。
「少し良かった」
「ルイの歌をもう少し聴いてみたい」
と思っていただけたら、軽い気持ちで【いいね】や【ブックマーク】を残していってください。
減るもんじゃないので。
※疲れた夜の日常が好きな方は『中村君シリーズ』も合うかもしれません。
相棒育成や冒険ものがお好きな方は『モンマス』『竜の子』も書いています。
短編もいくつか準備中です。
また気が向いた時に覗いていただければ幸いです。
どこかの物語で、またお会いできたら嬉しいです。




