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地獄

作者: 相良洋之
掲載日:2025/12/03

 気がつくと、地獄にいた。

 視界は暗いが、なにも見えないわけではない。

 まず目に入るのは、朱い空。オレンジ色と橙色とすこしばかりの黒が、マーブル状に混濁したおちついたトーンの朱を地平まで構成している。

 もうひとつ目に入るのが、濃青の地面だ。黒い輪郭で縁取られた青や藍色の岩石がなす凸凹が、これまた地平まで続いている。

 地平の奥を睨んでも、曖昧模糊とした暗黒が横たわっているだけだ。

 なにも聞こえないし、暑くも寒くもない。

 足元の石をひとつ拾って暗黒に向かって投げてみると、乾いた音を立てて石が跳ねていった。次に、ゆっくりと時計回りに見回してみた。これが地獄の風景か、と僕は少しがっかりした。どの方向にもただただ同じ風景が連なっているだけで、見回しているうちに自分が最初にどの方向を向いていたのか、どこで「一周」が終わるのか、分からなくなってしまった。


 地獄は、殺風景な点を除けば、案外いいところなのかもしれない。


 ひとまず、僕は地獄を歩き回ってみることにした。

 足元の石には軟らかいものと硬いものがあり、踏むとかなしいくらいに粉々になったり、逆に僕の足裏に激痛をもたらしたりした。

 割れた石もまた深い青をしていたが、これらを藍とか紺とか区別しようとすると、それは本当に骨が折れる試みだった。言葉では区別できないが、あきらかに違う種類の青が一つ一つの石に存在していた。

 一方で、痛みにいらだって石を蹴飛ばすと、それは視界の及ばない暗がりにまで飛んでいって僕をいくぶん痛快な気分にさせた。

 思いついたように石を念入りに粉々にしたり、蹴飛ばしたりしながら、恐らく三か月ほど僕は歩いた。(正確な時間は分からない。なにせ、カレンダーもなければ時計もないのだ)


 地獄では、不思議なことに疲れをまったく感じなかった。


 もう何年歩いたか分からない。歩いても景色は変わらなかったし、気持ちがやすらぐこともなかった。

 退屈と、焦燥と、孤独感が同居した恐怖だけが、僕の頭のなかを駆けめぐっていた。

 一度だけ、石をどこまで積み上げられるかに挑戦して気を紛らわそうとしたことがあった。しかし、石はどこまでも積み上がって、しまいには僕の手の届かない高さにまで到達した。地面の石までもが、地獄の不自然さの片鱗を見せていた。

 結局のところ、僕が「為し得た」のは、歩くことだけなのだ。

 そうしてる間にも時はとめどなく流れ、疲れどころか空腹や痛みまでをも感じなくなったが、体は、歳をとった。

 髪や髭は伸びすぎて、何ヵ所も結び目をつくって纏めた。

 皮膚にはしわができ、血管や骨、そして筋を浮き上がらせた。

 最初のうちはのばしては折りを繰り返していた爪も、最近はのびきる前に岩石で削るようにしている。

 僕はうんざりしていた。

 この抑圧を感じさせない閉塞感と、自分から解離してゆく「容れ物」に。


 僕は、ようやくここが「地獄」だと気づいた。


 悔しさや悲しさ、またそのほかの鬱屈な感情が僕の頭を占拠していた。唾を飲み込むと、胸のあたりで何か重苦しいものが僕の内部をわだかまり、圧迫するのを感じた。

 僕は手頃な石を掴み、あのうざったいオレンジ色の宙に投げ込んだ。本来の僕の肉体にはあり得ないことだが、僕の放った石はいとも簡単に上空へ消えていった。

 力尽きた、そんな気分で地面に仰向けに倒れ込んだ。しかしながら、やはり疲れも痛みも感じられない。

 僕の最後の抵抗は、ここでむなしく終わったのだ。できることなら、ここで伸びきってすっかり脱力したかった。だが、僕の体力はどれだけ頑張ってもまったく衰えなかったし、倒れ込んでいる今なお、力がぬけた感覚はない。

 僕は目を閉じた。

 涙が、閉じた目蓋からにじみ出ていった。それでも、僕は涙をぬぐわなかった。眼もあけようとしなかった。

 もう、何も見たくなかった。そのまま僕はひとしきり泣いた。声をあげて泣いた。瞳を閉じて、大声で泣き叫んだ。声は嗄れなかった。涙も、枯れなかった。

 しばらくして、なおも涙を流しながら、なんとか僕は立ち上がった。視界がはっきりしないまま歩き出し、そして次の瞬間、石とは異質ななにかを踏んだ。

 それは、黒い棒状のものだった。拾い上げると、側面に「マッキー」と書いてあるペンだった。(おお、マッキーペン!)そして、そのそばには紙と針が落ちていた。

 僕はそれらの数を数えてみた。

 それぞれ、紙が百六十八枚、針が百六十八本。

 その数字が何を意味するのかは分からなかったが、僕はとても嬉しくなった。この単調な世界に、未知が残されていたのだ。




 地獄に希望を見いだした、その思いでいっぱいだった。


 それにしても、なぜこれらはここにあるんだろうか。

 そもそも、最初からここにあったのか、誰かが置いたのか、あるいは落ちてきたのか。

 まさか、と思って僕は上をみた。だが、そこには見飽きた朱が広がっているだけだった。

 僕はその場にあぐらをかいて、紙とマッキーペンを手にとった。針に関してはその使い方が思い浮かばなかったが、紙とペンなら何をするかは考えるまでもない。しかしながら、何を書くべきかが思い浮かばなかった。

 自分でも何がしたいのかよく分からないまま、紙に「マッキー」と書き、それを丸めて上空に放った。

 案の定、紙はそのまま吸い込まれていき、僕はしばらくその一点を眺めていた。すると、すこし先の方でなにかがキラリと輝きながら落下した。駆け寄って見ると、地面に見覚えのある針がこれでもかと言わんばかりに、まっすぐ刺さっていた。僕はそれをおそるおそる拾い上げた。

 それは本当に見事な針だった。その表面には傷ひとつなく、陽光のもとで苔むす石の間を流れる渓水のように、濁りのない光沢をみせていた。その美しい表面をなぞると、指はなめらかにすべった。どうやったらこれほどの物が作れるのか。僕はしばらく陶然としていた。


 ともかく、これで針は一本増えたわけだ。

 

 その後しばらく、僕は紙にさまざまなことを書いては頭上にそれを放り投げた。やはりそれらは針になって落ちてきた(針が落ちるとき、それらは必ず空中で瞬きをみせるのだった) が、驚いたことに書いたとおりの物が落ちてくることもあった。例えば、「犬」や「桜」などの動物や植物の名前を書いても、針が落ちてくるだけだった。有機的なものはなにひとつ要求することはできないのかもしれない。そういうわけで、いま僕の手元には爪切りや鋏といった刃物(これだけでも人は十分地獄で過ごしていける。)、そして鉄球(バスケットボール、テニスボールなどと書いても「通じなかった」のだ。)がある。

 それにしても、地獄におちてきたものたちは、どれも悪魔的な美しさを放っていた。

 爪切りにしろ鋏にしろ、光沢や重さなどそのすべてが、それらが「模範的」な金属であることを物語っていた。

 鉄球にいたっては、手のひらに沈み込むようなずしりとした重みを感じながらそれを握っていると、僕はただ突っ立っていることしかできなくなった。そして、不思議なことには鉄球を上に放り投げても、それはまた地面へ落ちてくるのだった。しかし、地面の岩石や紙は、上に放り投げると重力を忘れたかのように空に吸い込まれていく。

 

 もはや何が普通なのか、僕には分からなくなってしまった。


 「金属」との出会いは、僕の地獄への鬱憤をおおいに忘れさせてくれた。それはしかし、やはりというか、結局のところ永続的な安寧ではなかったのだ。時間がたつにつれて、僕の感情の起伏は平坦になっていき、もはやあの鉄球すらも、僕の心を揺り動かすことはなく、ただのひやりとした無機的な球体にすぎなくなった。

 僕のこれまでの激昂や感動と足元一面に広がる青色の起伏の間には、今となってはなんの違いも見いだせない。かたや記憶として、かたや物質として、この永遠のなかに横たわっている。しかも、それを認識しているのは僕ただひとりである。

 

 つまるところ、この地獄では全てが「無」なのだ。


 僕はポケットからペンと最後の一枚の紙を取り出し、真上を睨んだ。

 地獄を終わらせなくてはならない。それが可能である根拠はないが、確信はあった。不確定でありながらも、それを確実に実現できるとする信念がある。これは、よくよく考えれば不思議なことだ。しかし、実際いま僕を奮い立たせているのは、自信ではなく確信なのだった。

 僕はなおもあの宙の向こうの宙を見通そうと、ひたすらに見上げている。

 突然、頭のなかにどこからやって来たのかも分からない思いつきがあらわれた。それはあまりにもばからしく、そして単純な手段だった。

 地獄に「地獄」を落とすのだ。

僕の謎の確信がこんなおかしな考えに結び付いていたのだと思うと、僕はもう笑いをこらえることが出来なかった。僕は身をよじって、周囲の石を蹴飛ばして、くるったように声をあげて笑った。


 ひとしきり笑ったあと、僕はそれを実行に移した。


 大したことをしたわけでもないのに、僕は疲れきって大の字にねころがった。そして、そのまま朱色の天井を眺めていると空に無数の輝く点があらわれた。それは、僕の視界全体を埋め尽くす、毛布のような輝きのつらなりだった。

 僕は手元に残ったペンと大量の針を放り捨て、目を閉じて「地獄」が落ちてくるのを待った。

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