冬の夜の花火
駅を出て、振り仰いだ空は青かった。黄葉した銀杏並木と綺麗なコントラストで広がる。風も穏やかで、これが休日なら、絶好の行楽日和と言えるだろう。
「ちっ。仕事したくねえな」
田島は頭上の青空を眺め、ぼやいた。ご丁寧に短く飛行機雲を曳いた旅客機が視界に入ってきた。絵に描いたような晴天。
一瞬、さぼって電車で逆の方向へ行ってみようか。そんな気持ちが湧いてくる。実際、田島は以前にそんなことをしたことがあった。駅から体調不良で休むと職場へ電話で連絡し、そのまま反対ホームの下り電車に乗ってぶらりと出かけた。駅のアナウンスが電話に入ったかどうか。新宿から遠ざかる電車のなかで気にしたのはそんなことくらいだった。
――あのときは、諏訪湖までいったんだっけか。
雲一つなく良く晴れた日で、湖の対岸には白く雪を被った山並みも見えた。カメラを持ってくればよかったな、とまるで最初から旅にでも出たようなことを思って、独り苦笑したことを昨日のように思い出した。あれは何年前だったか。連日連夜仕事に追いまくられた毎日だったが、ふと気が付くと、その日は特に予定も何もなく、忙中閑あり、とでも言うような日だった。ちょっと魔が差したような行動だったが、特に罪悪感も感じなかった。 だが、今日は、そういう訳にも行かない。仕事の打ち合わせがあり、それは他ならぬ田島の要望で開かれるものだった。
はぁ、と吐き捨てるようにため息をつくと、田島は職場へと公園沿いの並木道を歩き始めた。
「おはようございまーす」
ぞんざいにそういって、田島は古い工場の一角にある事務所の職場のドアを開けた。狭い会議室に机とパソコンを並べただけの部屋だったが、プロジェクトルームと仰々しい名前で呼ばれていた。
「お早うございます。田島さん、そのネクタイ、新調したんですか?」
部屋の端の窓際の席に田島が腰を下ろすと、向かいの席の川名早苗が笑顔で見つめている。手にしたマグカップからコーヒーの匂いが漂ってきた。
「え? これは、この間掃除したら出てきたんで、なんとなく。でも、よく俺のネクタイの事なんて覚えてるね」
「最近ネクタイしてる人少ないですから。この部屋だと田島さんくらいですよ」
夏の間は田島もネクタイはしなかったが、寒くなってくると襟元の保温のつもりでネクタイを締めていた。スーツにマフラーを巻くのは、なぜだか好きになれなかった。
「そうだっけ」
長机を二つ、向かい合わせに並べたものが二列。それに3人ずつ向かい合わせで、計12人が座ればいっぱいになるような部屋を見回す。実際にこの部屋で作業するのは10人だったが、今は田島達を含めて5人程が席に着いているだけだった。
「会議、10時からでしたよね」
「ああ、そうだよ」
立桑電工という、工作機械メーカーの人材評価システムの構築というのが、田島の携わっている仕事だった。昇給や昇格といった人事や給与の仕組みを数値化して行くと言う作業をここ半年ばかり続けている。既に系列会社で導入されているシステムをカスタマイズするだけの作業とも言えたが、同じグループ企業内とはいえ、各社のシステムは会社毎に特色があったり、個々に違う企業がシステム構築を手掛けたりしていて、同じシステムを使用していることは殆どなかった。それが、グローバル化というお題目でグループ内全て共通のシステムに変更するという企業グループが多くなり、この工作機器メーカーもその流れに乗ったものだった。
「昇格システムの査定の確認ですよね? 人事部の人と」
「何度か、メールで資料のやりとりしたけど、どうも、言ってることが個々に違うような気がしてね。後々面倒くさいことになるまえにはっきりしときたくて」
どこでもそうだが、こういうシステムは、慣れ親しんだものを変えることに抵抗を持つ者が多い。自身の日々の仕事に加えて新システムの構築という畑違いの仕事を任されてうんざりしているような者もいる。自社のシステムとはいえ、協力的とは言えない場合が往々にしてあった。
「おはよう」
低い声の、がっしりした体格の男が入ってきた。
「お早うござます」
振り返って早苗が挨拶する。このプロジェクトのリーダー、桑原だった。プロジェクトのメンバーは色んな会社からの寄せ集めで、桑原と早苗が立桑電工の系列のシステム開発会社から出向して来ていて、田島を含めたその他はそれぞれ別のソフトウェア開発会社から集まっていた。田島はこの仕事の前に違う現場で早苗と仕事をしていて、今回はそのまま引き続いてこのプロジェクトに加わっていた。早苗の会社とは以前から付き合いがあるので、田島は桑原とも面識があった。最初に会ったときは、自分より一回りは年が上じゃないかと思った田島だったが、40代半ばで3、4歳年上なだけだった。妻子もいて会社での地位もそれなりにある桑原と違い、独り身で現場を渡り歩いて会社への帰属意識も薄い田島は所帯じみたところも無く、良く言えば年齢の割に若く、悪く言えば落ち着きが感じられないとも言えた。
「どうかしたんですか?」
早苗が小首を傾げて微笑む。細い目がさらに薄くなった。田島はいや、べつに、と口の中でいって軽く首を振った。早苗と最初に仕事をした頃は、新入社員かと思ったくらいに若いと言うか幼く見えたが、入社3年目ということだった。それから3年は経っているから、早苗も20代の後半になるのだろうが、幼く見える顔つきと仕草は年齢を感じさせなかった。3年前は仕事に対して悩みがあったような早苗だったが、今では以前の彼女がどうだったか、田島は良く思い出せないくらいだった。
10時からの会議には、開発者側は、田島と早苗、それに黒川という田島の下でプログラミングを担当する者も参加した。黒川は20代前半の若手で、田島の会社の社員ではなかったが、付き合いのある会社で、営業からは面倒を見るように頼まれていた。
会議室には先に3人が入って待っていた。田島たちのプロジェクトルームとほぼ同じ広さの会議室だったが、コの字型に長机が並べられ、空いた一角にはプロジェクターが置かれていた。
「や、お待たせしました」
10時ちょうどにドアを開けて、人事部の統括責任者である大野が顔を見せた。背も低いが腰も低く、ユーザー側の代表とはいえ、田島は比較的気楽に話せる相手ではあったが、纏め役としてはまだ未知数でもあった。その後から4人程、連れだって入ってきた。想定していたのは大野の後に続く二人だったが、その後ろの女性二人は今朝になって大野からのメールで参加する旨連絡があった。
田島達は立ち上がって挨拶したが、最後に入ってきた女性に田島の視線が留まった。その女性も伏せていた顔を上げると田島の視線に気が付いた。色白の顔に、黒目がちな目が印象的だが、その目が今は大きく見開かれて、小さく、あ、というように口が開いていた。早苗はそんな二人を交互に眺めていた。
「あ、どうぞ、おかけ下さい」
大野の言葉に全員が腰を下ろす。思いがけない人物との出会いで驚いた田島だったが、気を取り直して向かいに座った大野を見た。大野は参加者の紹介をし、人事システムの構築に専任するものとして二人の女性を紹介した。二人目の女性、篠原ゆかりとは、田島は5年程前に一緒に仕事をしたことがあった。その時の彼女とは、少しほっそりとしたくらいで見た目はそれほど変わっていないように見えた。違いといえば、大きな目に、元気な、力強さのようなものが感じられることだった。以前は沈んだ、憂いを含んだような、そんな目をしていた。
会議は、田島の思った通りに、人事部内では意見の調整が出来ていないようで、会議の場であれはこうだとかそれは違うとか言い合って纏まりがつかず、結局、人事部側が持ち帰って再度検討してから資料を提供することになり、昼休み前まで2時間近く続いた会議も徒労に終わったようで、田島はよくあることと思いつつもうんざりした気分になった。
「田島さん、ですよね?」
会議室を出たところで、話しかけられて、振り返ると篠原ゆかりが立っていた。
「篠原さん。久しぶりですね。5年ぶり、ですか。まだあの会社で?」
「いいえ。今は、あの、川名さんと同じ会社です」
ゆかりがちらりと早苗の方を向いた。早苗は二人を見ている黒川のスーツの腕をつまむように引っ張って、気を利かせているのか、その場から立ち去るところだった。
「早苗ちゃんと?」
「ハイ。3年前に転職したんです。私は人事部の方に以前から出向していて。このプロジェクトにかかわるようになったのはここ一月くらいですけど」
黒目がちな大きな目で、相手の目の中をじっと見つめる所は変らない。ただ、以前のような頼りなさげな印象は無かった。
「あの時は色々とご面倒おかけしました。私も色々と慣れない仕事で疲れてしまって……」
思い出すようにゆかりは少し顔を伏せた。
田島は言葉を探すように言い淀んでいると、話は区切りがついたとでも言うように、昼休みのチャイムがなった。
「あ、じゃあ、私はこれで」
顔を上げたゆかりが軽く一礼する。
「あの、食事は社員食堂で?」
「はい? いいえ、お弁当を持って来てますので」
「あ、そうですか」
それでは、と、ゆかりはお辞儀をしつつ去って行った。
「ちょっと鈍いところも変わりないか」
それを見送った田島はそう言って苦笑した。
食堂のカウンターに定食のトレイを置いて、椅子に腰かけると、田島は外の景色を眺めた。食堂のある建物の向かいは中庭でその向うはテニスコートになっていた。高い建物の無い郊外の住宅地がその先に広がり、晴れた青空のもと、遠くに山並みも見えた。
「ここ、よろしいですか?」
声に振り返ると、早苗がトレイを手に立っていた。よそよそしい口調だったが、顔は笑っている。
「今日は弁当じゃないんだ」
「寝坊して作るのが間に合わなくて」
田島は職場のメンバーで連れ立って食事などというものが苦手で何時も一人で食事をしていた。
「篠原さんと面識あったんですね」
前を向いて食事をしながら早苗が話す。
「ああ。以前一緒に仕事したことがあってね。まさか、早苗ちゃんと同じ会社だとは思わなかったよ」
「篠原さんが入社してきたのは、3年前だったかな。うちの会社と取引のあるところから紹介されたとかで。部署が同じなんで、自社に戻った時に顔を合わせることはありますけど、一緒に仕事したことは無いです」
「なんだか、以前と違って、元気になったっていうか、自信を持って働いてるって感じがするね」
「篠原さんが?」
「ああ」
5年ほど前、田島は今と同じように、ある企業の社内システムの仕事をしていたが、そこに集められたメンバーの一人が篠原ゆかりだった。ゆかりは、それまで美術系の学校を出たとかで、Webデザインの仕事を主にやっていたらしいが、その仕事が立ち行かなくなった会社が、コンピュータを使った仕事というだけで、畑違いなシステム開発に参加させられていた。 ゆかりと同じ会社の者も他人に仕事を教えるというような知識も経験もなく、自然とその現場でリーダー格だった田島が面倒を見る形になっていた。ゆかりに接しているうちに、畑違いの仕事という以前に、ゆかりはそもそも会社勤めで日々を過ごすこと自体が向いていないように田島には思えた。Webデザインの仕事というのも、ゆかりの話では辛いだけで面白味も感じなかったようだ。それでも、辞めずに仕事を続けているのは、芸術家として生活するほどの才能はないという諦めと、普通の勤め人として生活することが望ましいと言う、両親を含めた周囲の期待に答えようする生来の生真面目な性格があってのことだったようだ。
田島は、ゆかりの口からは、周囲の反対を押し切って美術学校に進んだ自分が、結局成功しなかったのだから、今度は親の言うことを聞かなければならないという、少し強迫観念じみた言い方で聞いた。
そんな状態で慣れない仕事に突然放り込まれて上手くいくはずもなく、田島も仕事の割り振りに困ることもあったが、根気よく仕事を続けるゆかりに合うようなものを任せるように心を砕いていた。田島は、儚げで可愛らしい女性でもなければ、同じ会社の者でも無し、こんなに気を配ることもないだろうな、と自嘲してもいた。
田島の気遣いもあってどうにか仕事を続けていたゆかりだったが、仕事が佳境に入り、慣れたものでも音を上げる頃には疲れも溜まって、その仕事からは降りることになった。取りあえずの契約期間通りで継続無しという形だったが、これから先、ゆかりがこんな仕事を続けていけるのか、疑問にも不安にも思ったものだったが、ゆかりの会社と仕事をすることもなく、それっきり消息も途切れてしまっていた。
「前は、あまり向いていないことをやってる感じだったけど、今はどうなのかな」
言いながら、田島は寒天に果物が包まれている、安っぽいデザートのプディングを突く。
「うちでは結構評判がいいみたいですけど。客先でも評価が高いとかで」
早苗は同じデザートをスプーンですくって口に入れた。
「きになりまふ?」
口に入れたまま話す。
「ちょっとね。以前は、危なっかしくて心配したこともあったし」
「篠原さん美人ですもんね。そんな人が弱ってたら、男性はほっとけませんよね」
図星だったので、苦笑しつつも田島は言い返せない。
「あんまり美味しくないですね。このプディング。デザートでこのメニューにしたのに」
全部平らげてから、早苗がぼやいた。
「企業の食堂のメニューなんて、どこもそれなりだよ」
仕事が進むにつれて、進捗の遅れも目立つようになってきた。主な原因は、ユーザー側の人事部で要件が確定しないことで、まだ取り返しが効かないというほど悪くはないものの、このまま進んでいくとそうなることも十分考えられた。 人事部側で実際に作業しているのは、ゆかりともう一人の女性担当者で、専任だからということでだいぶ負担がかかっていることが打ち合わせの場でも良く分かった。こういう状態で、ゆかりは大丈夫なのかと不安に思った田島だが、少なくとも心労は顔には出ていなかった。
田島の方も、仕事が進まないでは済まないので、見切り発車でプログラムの開発なども進めていたが、こちらは特に問題もなく進んではいた。ただ、見切り発車なだけあって、何時仕様が引っくり返されるか分からないという不安も含んではいたが。
仕事の調整役としての桑原にも内外から圧力がかかっているようで、普段から口数も少なく静かな男が、少し話しかけ辛いと言う者がでるくらい、気難しげに見えるようになっっていった。
田島も忙しく立ち働いてはいるものの、雇われの身だけあって、直接責任を負わされるということもない。そんな半端な仕事ではなく、責任のある仕事、地位を打診されることもあったが、もとよりそう言った風当たりの強いところには立たないようにしていた。使い潰されることなどまっぴらだと言うのが、田島の口に出さない言い分だった。
「あれ、桑原さんは?」
ある日、早苗の背後の席に桑原の姿が見えないことに気が付いて、田島は早苗に声をかけた。
「今日はお休みですよ。スケジュール表にも載ってます。田島さん、見てないでしょ?」
「え、そうだっけ」
桑原は、休むときは大抵前日くらいには声をかけるのだが、田島はそんなことを話した記憶はなかった。以前の仕事では、休日出勤が常態化していた時に、娘の卒業式だからと土曜日に半日休んだ時にも済まなそうに田島に話したことがあったくらいだった。
「医療検診? 人間ドックかな」
パソコンからスケジュール表を見た田島が早苗に話しかけるように声をだした。
「うちの会社の、医療面談です。カウンセラーと面談と、あと、簡単な健康診断」
「桑原さん、どこか悪いの?」
「いいえ、定期的に義務付けられているものですよ。年齢とか作業時間が多かった人とか。桑原さん、毎年作業時間が多いですから」
「へえ。そんなことやってたんだ。早苗ちゃんとこの会社」
「前にも言ったことがあるような気がするんですけど?」
「あれ。そうだっけ?」
田島は笑って誤魔化した。それにしても、人間ドックでも終われば出勤する桑原が一日休むというのは珍しいことだった。
ちょうど、健康保険や福利厚生などのデータを調べていた田島は、何とはなしに、医療面談という項目で検索してみた。プロジェクトでは、前年までのほぼ実データに等しいテスト用データが閲覧できる。立桑電工に出向している桑原たちのデータも対象になっていた。
100名ほどのリストが画面に表示される。検索したリストには、記号化された名称が表示されるが、社員番号は実データのままのはずだった。実データとテストデータの違いは、住所氏名や家族などのデータが加工されている以外、ほぼ変わりはない。データが1年前までのままで更新されていないくらいだった。
――意外と多いと言うかそうでもないのかな。
100人程、という人数の作業時間は確かに通常の労働時間をだいぶ超過した者が多かったが、中にはあまり変らない者もいる。そういう者にはその他、という項目に例外なく"bs"という記号が振られていることに気が付いた。田島は、このリストから"bs"と記号の振られていいものを抽出した。14人に絞られたが、作業時間は8人が明らかに超過していたが、残り6人は通常勤務時間と大差ない。14人のうち、出向者が3人入っていた。一人は性別と年齢から桑原だろうと田島は思った。残り二人は女性で、この二人は特に作業時間に顕著な超過は無い。田島は、ゆかりの姿を思い浮かべた。
――医療検診の"bs"って何だ?
今度は医療検診について調べると、"bs"という記号が現れるのは3年ほど前からだった。
――篠原さんが入社したのは3年前だっけ。桑原さんは、勤続20年にはなってるよな。
「田島さん、午後の打ち合わせの件ですが」 黒川がモニターの向こうから田島に声をかけた。
「おう。ちょっとまってくれ」
田島は検索画面を消去して、机の上から資料を掴むと席を立った。
午後は打ち合わせに終始し、田島が自分の資料を整理していて気が付くと午後8時を過ぎていた。ちょうど仕事の切りも良かったし、田島は何時もより若干早めだったが、珍しそうな顔で見送る早苗や黒川に、お先に、と挨拶して帰宅した。
外で食事をすませて帰宅すると、見るともなしにテレビをつける。ふと、リモコンのBSの文字に、昼間のことを思い出した。机に向かうとパソコンを起動して、メールの確認などもそこそこに、『医療検診 bs』でネット検索してみた。血液検査や血糖値がどうのというものが引っかかるが、これは関係なさそうだった。試しに立桑電工で絞り込んでみる。結果がほんの数件になり、一つは、医療関係のニュース記事だった。アメリカの医療機器メーカーと立桑電工が事業提携したというもので、5年前の記事だった。
こんどは、そのアメリカの医療機器メーカーを調べてみる。アメリカ本国のサイトは英語が苦手な田島は遠慮して、何か日本と関係のありそうなものを調べていく。主にテレビゲームのレビューをしているサイトのコラムが引っかかった。
読んでみると、日本人も加わったアメリカのゲーム関連機器のベンチャー企業の話だった。SFに出てくるような、頭に装着するヘッドギアのようなもので仮想現実を体感できるシステムを開発していた企業が、医療機器メーカーの出資を受けていたが、事業をほぼその医療機器メーカーに引き渡すことになったというものだった。
仮想現実にはまだほど遠いものだったようだが、外から人間の脳内へ感覚器官を経ずに直接五感を刺激することには成功していたようだった。ゲームなどの仮想現実の体感デバイスとしては使えなかったが、薬物を使わずに脳を刺激出来ることから、医療機器として使用することが考えられたようだった。医療機器メーカーの出資もそれがそもそもの目的だったようで、ゲームに拘ったベンチャー企業側とは揉めたようだが、最終的には事業を手放すことで合意したというものだった。記事はゲーム機器として開発が進まなかったことを残念がっている内容で終わっていた。記事の日付は7年前。
その医療機器メーカーがどんなものを開発したのか、更に調べると、医療関係者のコラムに、新しいタイプの精神疾患の治療法が開発されたとした記事があった。薬に依存しがちな精神疾患、特にうつ病などに効果がある電子医療機器が開発されたというもの。これは障害もほとんどなく有効な治療法としてアメリカでは認可されていた。コラムでは、脳内の反応を可視化した治療法の有効性を示すデータが、実際の精神の反応と呼応しているかどうか、十分な臨床結果があげられていないと批判していた。患者の証言に左右されている面が大きいというのが、コラムを書いた医療関係者の意見だった。これがあまり内容を検討することも無く日本でも認可の見通しとなっていることを嘆くものだったが、記事が書かれたのは4年程前で、ほどなくこの電子医療機器を使った精神疾患の治療法は日本でも認可されていた。治療法の名前は、bs、Brain Serchの略号。仮想現実の体感デバイス開発時からのコードがそのまま治療法の名称になったようだ。 田島は医療関係のニュースなど、医療事故や汚職事件くらいしか気にも留めていなかった。この件に関してニュースを見聞きしたことがあったかもしれないが、病気の治療法など、癌などの一般にも大きく取り上げられるようなものでない限りは気にすることもなかっただろう。
アメリカの医療機器メーカーと立桑電工が事業提携したのは5年前。治療法が認可されたのが4年前で、立桑電工の医療検診に"bs"という記号が現れるのは3年ほど前。
――そうなると、桑原さんは、この精神療法を受けている?
それに、ゆかりも。田島がふと、パソコンの時刻表示を見ると午前零時を過ぎて日付が変わっていた。
翌日、出勤してきた桑原は、田島の目には心なしか、すっきりとした顔をして、それまでの気難しげなところが薄れた気がした。病の治療法がどうあれ、違法なことをしているわけでもなし、それで昨日までの相手が変わるわけでもない。田島の個人情報の詮索自体、違法行為だったし、桑原本人は無論、早苗にも医療検診について聞いてみるという訳にはいかなかった。今日は、その早苗は研修ということで休んでいる。どこかすっきりしないところは残っているものの、田島はこのことは忘れるように努めた。
週末、金曜。色々と仕事も詰まっていたが、田島は翌日出て働こうなどと言う気はなかった。出来る限り金曜で片付けて休日は仕事の事など忘れて過ごしたかった。
桑原は例によって土曜も仕事をする予定らしい。黒川や早苗は、週末ということもあってか、何時もより早めに帰って行った。田島も一区切りつくと、もう一仕事と欲張ることはせずに帰ることにした。このまま続ければ終電コースだったし、今日は予定もあった。高校時代からの友人と久しぶりに飲む約束をしていたのだった。
後に残る桑原に挨拶して事務所を出る。外は晴れて風が強い。冷たい北風が吹く中、空に冬の星々が瞬いていた。星の少ない都会では、明るいシリウス、プロキオン、ベテルギウス、リゲルが作る巨大な菱形が良く目についた。それを見上げていた田島は、コートの肩をすくませて、駅へと急いだ。
待ち合わせたオフィス外の外れにあるバーでは、既に相手は来ていた。カウンターで背を向けた姿が見えた。茶色のセーターに、肩に届くような長髪。だいぶ髪は白くなって、グレーと言っていい色合いになっていた。
「またせたな。すまん」
「先に一杯やってるよ」
田島の高校以来の友人、水野は水割りのグラスを振る。カラン、と氷が音をたてた。以前は就職や進学で上京してきた高校時代のクラスメートたちで同窓会などやったこともあったが、田舎に帰ったもの、東京から離れて他の土地へ移ったもの、家族持ちになったりして縁遠くなったものもいて、最近は旧友と顔を合わせることも少なくなっていた。
田島にもグラスが来ると、軽く乾杯して、近況などを話した。水野は薬剤師で、薬局も経営している。田舎の進学校でもない、田島の母校では、クラス一の秀才だった。映画や絵画、音楽はクラシックやジャズなど、周りの同級生からすると気取っているとかスカしているなどと言われるような趣味が合って、殆ど二人にしか通じないような会話で盛り上がったりするような仲だった。
先日、水野から電話があった時に、田島が久しぶりに飲もうと誘ったのだった。独り者の田島と違い、妻子がある水野は外で飲み歩くこともなかった。
「精神科のbs療法って、聞いたことあるか? 機械を使ってやるらしいんだが」
水野と会ったら、聞いておこうと思ったことを、田島は束の間会話が途切れたあとに口にした。
「bs療法? お前の会社も導入したのか? 零細企業とか言ってなかったっけ」
「会社が導入?」
意外な言葉に、田島は水野に説明を求めた。
「何だ、違うのか。まあ、導入って言い方も語弊があるけどな」
bs療法は、まず、開発したアメリカの医療品メーカーと提携した立桑電工で、社員向けに適用された。社員向け、というのは、先進医療ということで健康保険の対象とならない高額医療で、なおかつ認可されたとはいえ、実際に施術を行える施設が立桑電工が運営する病院にしかなかったためでもあった。医療費が高額な部分は、会社として補助金を出してもいた。社員の健康管理に努めているということではあるが、有能でありながらも、うつ病などで休職、退職する社員の救済の意味合いが強いと言えた。
「今じゃ、大手企業ではだいぶ導入が進んでいるらしいぞ。知り合いの精神科でも、導入に向けて研修とかやってるところもあるらしい」
酒に強い水野は、何敗目かの水割りを口にした。
「知らないうちにそんなことになってたんだ。社員のためっていうか、使い慣れた、使い勝手のいい道具とか、壊れても修理して使いたいってことだろう。壊れて使い物にならなくなるまで使い倒されるわけか」
田島は、ジンのカクテルをちびちびと飲みつつ悪態を付いた。
「道具は言い過ぎじゃないか。自分も道具だって言ってるようなもんだ」
「治療ってのは、具体的にどんなことするんだ?」
田島はそれには答えず、言葉を継いだ。
「治療か。俺はただの薬剤師だからな。精神科のことなんて又聞き程度にしか知らないが、患者が嫌々ながらやっているような仕事を、気にならなくしたり、逆に好意的に受け取るようにするらしい。被験者が不快だとか苦痛に思っていることを質問したり見せたりして、その反応を装置で読み取る。次にそれが苦痛だと感じなくなるように原因や対処法を説明しつつ、電磁パルスで苦痛を感じている部位を刺激して緩和させるとかいう方法だとか聞いた。原理とかそういうことは俺もよく知らん」
「それって、洗脳って言わないか?」
「それが批判されたこともあったらしいが、治療には本人の意思表示が必要で、治療の様子は映像として残しておくことが義務付けられているらしいな」
「厄介事が起きた場合の証拠ってわけか。映像ってのも念の入った事だな」
「まあ、この療法は本人の証言とかによる面が大きいらしいからな。具体的にどう仕事を好きになったとかは、本人次第だろう」
その後は、この話題から離れて、昔話やら、趣味の話で一時を過ごし、田島は水野と別れた。久しぶりに友人と会って、それなりに楽しく過ごしたつもりだったが、口に残った酒はだいぶ苦く感じていた。
「カンパーイ」
ぱらぱらと拍手が続く。工場のある郊外から、都心へ移動して、居酒屋での忘年会。人事部長の長い挨拶のあと、やれやれといった感じで田島は席に着いた。十人程が座れるテーブル二つ。一つは立桑電工の人事部や桑原たち出向社員、もう一つに田島たち協力会社の社員と誰が決めたわけでもないが分かれて座っていた。早苗は田島の隣に座わろうとしていたが、桑原に呼ばれて人事部の統括責任者、大野との間に挟まって窮屈そうだった。
「女っ気ないっすね、このテーブル」
田島の隣の黒川がぼやいた。協力会社として作業にあたっているのは男性ばかりで女性はいない。黒川のように20代前半から田島より年配の50代くらいまで、雑多な人々が集まっていた。大抵、3、4人同じ会社だったり、その関連会社の社員だったりするが、田島は一人別の会社から来ていた。桑原や早苗以外に、このプロジェクト加わるまでに見知った顔はなかった。
「まあ、会費は少なくて済んだし、適当に飲み食いして一次会で帰ればいいんじゃないか」
「田島さん、結構適当っすよね。まあ、こういう付き合いって面倒くさいですけど」
「気を使って立ち回るのが普通かもしれんが。俺は昔からそんなことしてないからな。今更どうでもいいよ」
言い終わって唐揚げを口に放り込む。居酒屋と言ってもチェーン店ではなく、障子の小窓や太い木の梁が見えたりする、小奇麗な店だった。
「結構うまいなこれ」
ちらりと隣のテーブルを見ると早苗が周りにお酌している。桑原も、こういう席では普段見られない笑顔だった。子煩悩な桑原は、よく飲み会では娘の自慢話をすることが多かったが、今もそんな話をしているのだろう。真ん中辺りに女性が二人、一人はゆかりだった。向かいの人事部長と何か話し込んでいる。
「早く休みにならないかな。残業続きで疲れました。これでもまだ楽な方ですかね?」
「楽ってことはないけど、もっと酷いこともあるにはあるな。年末年始は暦通りに休めるみたいだし、今のうちに休んでおけばいいさ。来年はゴールデンウイークだとか盆休みとか多分無いだろうし」
「えー。そんなに大変なことになりますかね?」
「この調子だとそうだろうな」
人の意思疎通がもうちょっとスムーズで、協力的なら、そんなにまで難しい仕事ではないはずだが。先のことを考えるとゲンナリしてくる田島だった。
「お疲れ様です」
黒川が席を空けていると、隣にすっとゆかりが座った。手にビールの瓶を持っている。
「あ、どうも」
田島のグラスに注ぐ。近づいた顔を何となく見つめた。酒が入って紅潮した頬に、少し目は充血している。その目の下に隈が出来ていた。
「大変でしょ。毎日」
「え? ええ。でも、充実してるっていうか。頑張れます」
にっこり笑う。5年あれば人は変るだろうが、以前のイメージが田島は頭から離れなかった。
「美術館とか、今でも行ってますか? 近所にあるとかっていう」
「あー。そんなこと話したことありましたっけ。よく覚えてますね、田島さん」
それ程有名な作品があるような美術館ではないが、陽の当たる中庭で、外に置かれたオブジェを眺めながら、木立を吹く風の音を聞いていると、本当に癒される、と、しみじみとした調子で話したゆかりの顔が今でも思い出せた。
「最近はそういうところには行ってないんですよ。土曜も、研修とか講習会に行ってて。情報処理の社内検定とかも上の方を受けたいし」
この娘は会社勤め自体向いてなさそうだと思った、昔のゆかりではもうなかった。
これも、bs療法とやらのおかげって訳なのか。田島は、虚しいような、淋しいようなそんな気持ちでゆかりを見つめた。
お定まりの締めの挨拶や手拍子など終わって店を出ても、入り口付近で皆たむろして動かない。二次会に出かけるものは声をかけたりしている。田島は桑原や人事部長らに軽く挨拶すると、そそくさとその場を離れた。12月の寒空のもと、吐く息も白くなった。空はどんよりと曇っていてたが、クリスマスに向けた街の華やかな電飾の中では、それも目立たないし、元より空を見上げるものもいない。 このところ、仕事が忙しいだとかそういうことだけでなく、何か言い難い憂鬱な気分になることが多かった。それは今に始まったことではないのだが、最近のこのどこか苛立たしいような気分は、水野と飲んだ後からはっきりと現れたような気がしていた。
bs療法。心を変えてでも、仕事を続けたいものだろうか。
俺には無理だな。その前に、大企業の社員じゃなし、関係ないか。
「たーむーらーさん!」
声に振り向いた田島の左腕に、早苗が抱き付いた。
「早苗ちゃん。二次会行ったんじゃないの?」
「ちょっと飲み過ぎたんで帰りますって、断っちゃいました」
田島の肩くらいまでしかない早苗が見上げる。言葉通り、ちょっと酔っているようだった。
「今日、田島さんとお話してないですよね」
「そうだっけ。ちょっと隣の席に来てたじゃないか」
「あれは、お酌しただけです。挨拶くらいしかしてません」
時折、妙に甘えた態度を見せることはあるものの、今日のように酔っているとはいえ、腕を組んで歩いたりなどはしたこともない。田島はちょっと当惑していた。
「花火を見に行きませんか?」
「花火?」
「そうですよ。ドーンって。空に上がる。お台場のほうですよ」
「お台場まで行くの?」
「んー。レインボーブリッジが見えるとこならいいんじゃなかったかな?」
まるでカップルが歩いてるように見えるだろうな、そう思いながら歩く。そんな二人にを気に留めるものもいないが、少し周りが気になる自分が可笑しかった。
「竹芝まで歩こうか。ちょっと遠いけど」
「あ、いいですよー」
早苗は田島の左腕をしっかりと握って歩く。田島は、暫く歩けば酔いも覚めるだろうと、そんなことを思っていた。
仕事のことなど、早苗と話しながら歩いていると、ほどなく竹芝埠頭に着いた。埠頭のイルミネーションも華やかだったが、その向うにレインボーブリッジも鮮やかに夜空に浮かんで見えた。
「きれーい! 素敵ですね」
早苗がはしゃいだ声を上げる。旅客ターミナルの上に上がると、花火を見るためだけでもないだろうが、人は大勢集まっていた。殆どカップルばかりで、手を繋いだだけの者が多いが、殆ど抱き合っているような二人までさまざまだった。中には、少し離れて黙って海を見つめている二人もいる。田島は早苗に曳かれるように端に向かってあるいて、空いている手すりから海を眺めた。早苗は、田島に凭れるように並んで立つと黙って海を眺めていた。
「篠原さんと何話してたんですか?」
「え? 仕事のことだよ。彼女も忙しいだろうし。大変だろうね。昔の彼女だったら、耐えられそうもないけど。変わったもんだな」
束の間、宴席でのゆかりの姿が浮かぶ。
「bs療法受けたからですよ」
ぽつりと早苗が呟く。
「え?」
早苗の口から意外なセリフを聞いて、田島は戸惑った。
「桑原さんも。二人はいいですよね。桑原さんには責任感があって。篠原さんは、ちゃんとした目標もあって。何かある人はいいですよね」
早苗は、言いながら田島の前に立つと、ゆっくりと腰に手を回して抱き付いた。子供がするように、田島の心臓の鼓動を聞くように胸に顔を横にして凭せ掛けた。
「早苗ちゃん」
田島は引き離そうとするように、早苗の肩へ手をやったが、意外に強く早苗は抱き付いていた。
「私も受けたんですよ。bs療法」
田島は思わず早苗の顔を見つめた。早苗は左の頬を田島の胸に当てたまま呟く。
「私は何もないんです。目標とかそんなものは。空っぽなんですよ。だから」
早苗は首を振って右の耳で心臓の鼓動を聞くように静かに顔を伏せた。
「このまま、田島さんと一緒に仕事出来てたらいいなって。そうしたら、ずっと仕事もつづけられそう。そう思ったら、とても楽になったんです」
早苗の肩に手を掛けたまま、田島は海を見つめていた。立桑電工の出向者に、bs療法を受けていたのは3人いた。桑原とゆかりと、もう一人。
空が、ぱっと明るくなった。周囲から歓声があがる。冬の花火が、曇り空に大輪の花を咲かせていた。遅れて、ドン、という音が、田島の耳に響く。 早苗が抱き付いたまま顔を上げて花火を見上げた。何事か口にしているが、次々と打ちあがる花火の音に紛れて田島の耳には届かない。
冬の夜空に広がる花火。田島の目には言いようも無く寒々として見えた。
了




