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記憶を売る少年



ジンには、記憶がなかった。


自分にはなぜ家族がおらず、一人ぼっちなのか。


なぜ自分は明日の食事にも困るほど貧しいのか、その生い立ちのほとんどが分からなかった。


気がついたら、彼は路地裏の隅で小汚ない毛布にくるまって、一人膝を抱えて眠る生活を送っていた。


今年で13歳になるはずの彼が、なぜそんなに記憶の空白があるのか。


それは、ジンが自らの記憶を売っていたからだった。


お金がなくなると、彼はいつも森の奥に住む年老いた魔女「メルトューバ」を訪ねていった。


メルトューバは不思議な魔法を使って、人の頭から記憶を抜き出すことができた。


買い取った記憶は水晶の中に閉じ込めて、金持ちに売り飛ばしている。その水晶に触れると、格納された記憶を観るのことができるのだ。そうしてメルトューバは生計を立てていた。


その日もジンは、お金を工面するためにメルトューバの元を訪ねた。


「……メルトューバ」


「おお?また来たのかい?ジン」


メルトューバはニヤニヤと口角を上げて、ジンを家へと招き入れた。


「今日売るのは、どんな記憶だい?」


「……昨日、雨に濡れた記憶」


「なんだいそりゃ。そんなもの、売り物になりゃしないよ」


「じゃあ……綺麗な女性の靴を磨いた記憶」


「ダメダメ、そんな安っぽい記憶じゃあ、買い取れないよ」


「………………じゃあ、ムカデを食べた記憶」


「……なに?ムカデだって?」


ジンはこくりと頷いた。


「くくくく、ちょっと面白い記憶じゃないの。よし、50ガロだな」


「そ、そんな……。それじゃ、パンをひとつかふたつしか買えないよ」


「嫌なら、余所へ行くんだね」


「……………………」


ジンは唇を噛みしめながらも、メルトューバへ売るしかなかった。


この記憶を抜き取る魔法を使えるのは、彼女しかいなかったからだ。


彼は身体が弱く、満足に働くこともままならなかった。だからこうして記憶を売る以外でお金を手に入れる選択肢がなかった。


「じゃあ、じっとしておきなさい」


メルトューバはジンの頭に右手をかざした。すると、ほんのりと手の平に小さな光の玉が現れた。


その光を、左手に持っている水晶へとくっつける。そうしたら、光は水晶の中へと入り込んだ。


「これでよし」


メルトューバは満足げな笑みを浮かべて、水晶を棚の中になおした。そこには数え切れないほどの水晶が並んでいた。


「はいよ、50ガロだ」


メルトューバはそう言って、ジンにお金を渡した。ジンはそれをポケットに入れて、ふうとため息をついた。


彼女はその後、部屋の隅にあるベッドに寝かせられている老人に手をかざし、さっきと同じ要領で記憶を抜き取っていた。


「その人も、記憶を売りに来たの?」


ジンがそう尋ねると、「いいや、あれは死体だよ」とメルトューバが答えた。


「道端で死んでたのを、拾ってきたのさ」


「……死体からも、記憶が取れるの?」


「死んでから一週間以内に抜き取らないといけないけどね。死んだ奴なら元手もかからないし、案外儲けられるんだよ。くくくく……」


「……………………」


「ま、道端で死んでる人間の記憶なんて、ほとんど大したものは入ってないがね。このジジイも、馬車に轢かれて死んだだけのようだね」


「……ねえ、メルトューバ。高く売れる記憶って、どういう記憶なの?」


「そうさねえ、やっぱり普通は幸せな記憶だろうさ。それも、とびっきり幸せなね」


「とびっきり幸せな……」


「一般人じゃ入れないような、高級料理店での食事した時。世界中探しても見つからないような絶景を観た時。絶世の美女と夜を共にした時。ドラゴンやユニコーンみたいな神獣と出会った時。そういう体験をした記憶だね。お前さんのムカデを食べた経験も、一部の人間には怖いもの見たさで売れはするが、まあ、需要は少ないね」


「……………………」


「でも、一番売れるのはね、恋の記憶だよ」


「恋?」


「そうさ、恋には物語がある。喜びも悲しみも、すべてがそこに詰まっている。恋の記憶には、1000万ガロ払ってでも買いたいって客もいるもんさね」


「1000万ガロ……」


ジンはごくりと、生唾を飲んだ。


「まあ、何かまたあったら、売りにいらっしゃい。このメルトューバが買い取ってやろう」


魔女はくくくくと不気味な声を挙げながら、笑っていた。


ジンは独りぼっちで、街を歩いていた。またメルトューバに記憶を売るために、珍しい記憶を作らねばいけない。


「でも、売れる記憶なんて、どう経験したらいいんだ……」


売れやすいのがとびきり幸せな記憶と言われても、彼には手に入れられそうになかった。


一部の人間にしか受けないような、ネガティブな記憶であればすぐに体験できそうだが、それはそれでまた勇気がいる。


メルトューバから貰ったお金でパンを買い、もうそれを食べ終わってしまったジンは、とぼとぼとスラム街を歩いていた。


「………………」


彼は、空虚だった。


記憶がないというのは、想像以上に孤独だった。


彼の人生には、実感がない。生活していくだけの知識はあるが、それだけだ。


メルトゥーバは「恋愛の記憶が売れる」と言っていたが、なぜ恋愛の記憶が求められるのかすらも、いまいちピンときていなかった。


辞書を引いて「恋愛」と調べても、本当に恋愛を知ったことにはならないのと、同じように。


「………………」


「ああ!ジン!こんなところに居たのね!」


そんな時、彼は後ろから声をかけられた。


振り返ってみると、そこにはスラム街に似つかわしくない、綺麗なドレスを着た……おそらくジンと同じ年頃であるお姫様がいた。


ふわりと揺れる長い金髪に太陽が当てられて、キラキラと輝いていた。


「あ、あなたは……一体……?」


「なに言ってるの!私よ!サラよ!今馬車に乗っていたら、たまたまあなたを見つけて、ここまで降りて来たのよ!」


「ご、ごめんなさい……。僕、記憶を売ってしまって、覚えてなくて……」


「き、記憶を売った!?どういうこと!?」


「メ、メルトゥーバという魔女がいて、人の記憶を買い取ってくれるんです。僕は貧しくて、そうしてお金を工面するしかなくて……」


「じゃ、じゃあ、私のことも……分からないの?」


「は、はい、すみません」


「そ、そんな……せっかく会えたのに……」


サラはがっくりと肩を落とした。そして、ジンの姿をまじまじと見つめた。


「……こんなにボロボロになって。あなた、本当に大変だったのね」


「……………………」


「うん、いいわ。ジンが私のこと覚えてなくても、構わない。ねえジン!今からウチに来ない?」


「え……?」


「ウチでお風呂に入って、綺麗になって!そうだ、お腹も空いてない?メイドたちにいっぱい作ってもらうわ!」


「そ、そんな……僕なんかが……」


「いいから!ね!?来て!」


「あ、ちょっと……」


サラに引っ張られるようにして、ジンは馬車の中へと連れていかれた。


彼女は、貴族の娘だった。


大きなお屋敷に連れられて、風呂に入れられ、綺麗な服に着替えさせられ、そして豪華な料理をお腹いっぱい食べた。


「あ、あったかい……。ご飯が、あったかいよ……」


ジンは、あまりの嬉しさに涙した。こんなに豊かな気持ちになったのは初めてだった。


「ふふふ、よかったわ。あなたに喜んでもらえて」


サラはステーキを頬張るジンを見つめながら、そう呟いた。


「あ、あの……ありがとうございます、お嬢様。こんなにも優しくしてもらって……」


「何言ってるの、こんなくらいじゃ、あなたに恩を返せてないわ」


「恩?」


「あなたは私の、命の恩人なの」


「え……?」


「本当に、本当に感謝してるの。こんなご飯程度じゃ、まだまだ返せないくらい」


「……………………」


「ね、ジン。今日からウチに住まない?」


「え!?そ、そんな……そこまでしてもらうのは、ちょっとさすがに……」


「大丈夫!部屋もまだまだ余ってるし、私もあなたが近くにいてくれた方が嬉しいわ!」


「え、えっと……」


ジンはこんなに優しくしてもらったことがなかったため、すごく困惑していたが、彼女の笑顔を見ていると、とても断り切れなくて、結局言われた通りこのお屋敷に住むことになった。




それからのジンは、驚くほど幸せだった。


毎日毎日、サラと一緒に遊んだ。共に庭で鬼ごっこをし、ピアノを弾き、二人で同じ本を読んだりした。


「ね!ジン、今日は一緒に街へ行きましょうよ!美味しいパン屋さんを見つけたの!きっとあなたも気に入るわ!」


「あ、は、はい、お嬢様」


「もー!またお嬢様って言ってる!私のことは、サラって呼んでってば!」


「あ、え、えっと、すみません、サラ」


「敬語もいらない!あなたと私は、ずっとずっと友だちなんだから!」


そんな形で、ジンはぐいぐいサラに距離を詰められていた。


他人からこんなに慕われることもなかった彼は、初めてのことに狼狽えながらも、嬉しく思っていた。


だがそのことを、サラの両親が許さなかった。


「サラ!なぜあんな得体の知れない小僧を家へ招いたんだ!」


サラの父は、カンカンになってそう怒った。サラの母も「そうですよ!貧民の子どもを連れてくるなんて!」と叫ぶ。


でもサラは、決して屈しなかった。


「お父様!お母様!彼は、私の命の恩人です!絶対に追い出させません!」


「命の恩人だと!?なんだサラ!どういう意味だ!あいつとお前との間で、何があったんだ!?」


「……お話したくありません!これは、私の中だけで留めたい記憶なのです!」


「あ!こら!サラ!どこへ行く!」


親子の喧嘩は、日を増すごとにどんどん激しくなった。


サラの両親は、サラに習い事をたくさん増やし、ジンと遊べる時間を奪おうとした。 だがサラは、平気で習い事をボイコットし、ジンと遊んでいた。


「ジン!お待たせ!今ピアノの授業から抜けて来たわ!」


「だ、大丈夫?もうこれで四回目だよ?さすがに先生に怒られるんじゃ……」


「いいの!そんな心配しなくて!さ、遊びましょ!」


そうして、毎日のように反抗していくサラたちだった。


身体の弱いジンとは対照的に、サラはいつも元気だった。


ちょっとした怪我程度じゃ気にもとめない。膝を擦りむいても、「唾をつけてれば治るわ!」と、まるでお嬢様とは思えないお転婆ぶりだった。


「あ!ねえねえジン、いいものあげるわ!」


「いいもの?」


「はい!じゃじゃーん!私の絵が描いてあるブローチよ!」


「わっ!す、すごい……!」


「これがあれば、もう私のこと、忘れないでしょ?」


サラは口角を上げて、いたずらっ子のような笑顔を浮かべていた。


ジンは「は、はは、ごめんね」と苦笑しながら、そのブローチの絵を見つめた。


「どう?その絵、素敵?」


「うん、とっても綺麗だ。本当に君は可愛いんだなって、改めてそう思わせられたよ」


「!も、もう、ジンってば!」


「え?」


「私のこと、可愛いって思ってくれてるのね!」


「あっ……!え、えっと、そ、それは……」


「うふふ!嬉しいわ!ジン!」


二人のやり取りは、いつだって微笑ましかった。


ジンもサラも、お互いと一緒にいる時が、一番幸せで、一番楽しかった。


彼女からもらったブローチは、それからずっと、肌身離さず持つようになった。




だが、やはりサラの両親は、そのことを許さなかった。


「サラ、お前に許嫁を用意した。マルサンド家のジェフリーだ。明日は食事会があるから、必ず出席するように」


「嫌ですお父様!私は、そんな人と結婚なんてしません!」


「サラ!いい加減にしろ!どこまで親の言葉を無視する気だ!」


「お父様こそ、私の言葉をなぜ無視するのですか!私の心を、無視なさらないでください!」


「この、生意気な小娘め!誰がお前を育ててやったと思っている!?」


サラの父は右手を振り上げて、サラの頬を思い切りぶとうとした。


「や、止めてください!」


そこに、ジンがすかさず止めに入った。


サラの父の前に立ちはだかり、彼女の代わりに強いビンタを食らった。



パーーーンッ!!




「うぐっ!」


ジンはその衝撃で、床に倒れ込んでしまった。


「ジン!ジン!大丈夫!?」


サラが泣きそうな声でかけよって、彼のことを心配そうに見つめていた。


鼻から血が垂れてしまい、服にポタポタと鮮血が落ちた。


「私の部屋へ行きましょう!早く手当てしないと……!」


そうして、彼女はジンを連れて部屋に行った。ベッドに彼を寝かせて、メイドたちに手当てをお願いした。


「どう?痛む?ジン」


「だ、大丈夫……平気だよ。いつつっ」


「もう、平気じゃないじゃない。我慢しないで、ゆっくり休んでね」


「あ、ありがとう……」


メイドの手当てがあらかた済んで、部屋には二人だけになった。


「私、お父様に怒ってくる!ジンに謝るよう言わなきゃ、気が済まない!」


「や、止めときなよ。今は向こうも気が立ってるから、またぶたれちゃうよ」


「でも……」


「僕のことは大丈夫だから。ね?」


「……わかった、あなたがそう言うのなら」


「うん、それでいいんだ」


「ありがとうね、ジン。お父様から庇ってくれて。やっぱりあなたは、優しい人ね」


「ははは、そうかな」


「ええ。世界で一番優しくて、素敵な人」


「そ、そんな、大袈裟な……」


「大袈裟なんかじゃない!本当なの!」


「サ、サラ……」


サラの異様な迫力に気圧されて、ジンはごくりと生唾を飲んだ。


「……ねえジン」


そして彼女は、ジンの手を取って、こう言った。


「私と、結婚してくれない?」


「え?」


「大好きなの、あなたのこと」


「!?」


「ね?ダメ?私じゃいや?」


「ま、まさか!嫌なんて、あり得ないよ」


「だったら!」


「で、でも、僕は貧民の子どもだ。君と釣り合う身分じゃない……」


「そんなの関係ない。私、あなたと一緒にいたい。ずっとずっと、これからも」


「……………………」


「あなたはどうなの?私のこと、嫌い?」


「……そんなことないよ。僕だって、君のことが……大好きだ」


「本当!?嬉しいわ!」


サラはベッドに寝ているジンを、思い切り抱き締めた。


「大好き!大好きよジン!」


「サラ……」


「離れたくない!離れたくないわ!」


「……ああ、僕もだ」


ジンはそう言って、彼女を抱き締め返した。


「私、今から教会に行って、神父様にお願いしてくるわ。私たちの結婚式をしてくれって!」


「い、今から行くのかい!?ずいぶんと気が早いね……」


「ええ!善は急げってね!あ、ジンはまだ寝てていいからね。すぐまた戻ってくるわ」


「わ、わかった。気をつけてね」


「ええ!」


そうして、彼女はジンの額にキスをした。そして、彼から離れて、「じゃあ行ってくるわ」と告げた。


「あ、ねえサラ」


「なに?」


「あの……ちょっと前から訊きたかったんだけど、僕が君の命の恩人になった経緯って、どんなことがあったの?」


「ふふふ、聞きたい?」


「う、うん」


「なら、帰ってきてから教えるわ!全部話してあげる!」


「ほ、ほんとかい?」


「でもこれは、他の誰にも話さないでね。このお話は、あなたと私だけの、大切な宝物だから」


「うん、分かった」


「じゃあ、待っててね!ジン!」


太陽のように眩しい笑顔を向けて、サラは部屋から出ていった。


ジンは頬を赤らめながら、口許に微笑みを湛えていた。


首からかけているブローチを、大事そうにぎゅっと握った。


それが、生きているサラとの、最後の会話だった。






「……………………そんな」


ジンは、サラの亡骸を見て、絶句した。


サラは教会へ向かう途中、馬車に轢かれてしまったのだ。


ベッドに寝かされた彼女は、まるで眠っているようだった。 今にも飛び起きて、「驚いた!?ジン!」と、いたずらっ子のような笑顔を見せてくれそうな気がした。


だが、どれだけ待っても、サラは目を覚まさなかった。


「そんな、そんな、サラ……」


震える手で、ジンは彼女を抱き締めた。冷たく凍えたその亡骸に、もう血は通っていない。


「そんな、いやだ、いやだよサラ!サラ!お願いだよ、戻ってきておくれよ!」



サラーーーーーーーー!!!



……彼は、人生で最も激しく泣いた。


今までずっと空白で、何もなかった彼の心に、土砂降りのような雨を注いだ。













……とある晴れた日のこと。


森の奥に住む魔女のメルトューバは、街に買い物に出かけていた。


魔法で使う水晶や、食料なんかを買って、家へと戻るところだった。


「おや?」


道端に、倒れている人間を見つけた。


それは、ジンだった。


ボロボロの服を着ていて、今まで以上にやつれながら、彼は死んでいた。


「なんだ、ジンめ。最近来ないなと思ったら、死んでたのかい」


ふと気がつくと、周りに人だかりができていた。


「おい、ありゃジンじゃないか」


「本当だ、ジンだ。良いとこのお屋敷に拾われたって噂を聴いてたんだがな」


「可哀想になあ、まだこんな子どもなのによ」


メルトューバは周りの人間たちの会話を聞いて、ひとつピンと来たことがあった。


(お屋敷に拾われた?ほほう、なかなかいい記憶じゃないか。くくくく、どれどれ、ひとつ覗いてみるか)


売れる記憶があるかも知れないと思ったメルトューバは、ジンの死体に手をかざした。


「おいおいメルトューバ、死んだジンから記憶を取るつもりかい?相変わらずがめついババアだぜ」


近くにいた男にそう言われたメルトューバは、「くくく、使えるもんは使わなきゃ損だろうよ」と笑って返した。


ジンの記憶が、かざしてる手を通して彼女の中に入り込んでくる。


「……………………」


ジンの心は、金髪の女の子のことばかりで埋め尽くされていた。


眩しくて、元気で、そして優しい彼女の姿が、たくさんたくさん浮かんできた。



『ジン!この本、一緒に読みましょうよ!』


『ねえジン、トマトって、私苦手なの。ちょっとだけ……食べてくれないかしら?』


『はははは!!ジン!顔に土がついて、おひげみたいになってるわよ!』


『私と、結婚してくれない?大好きなの、あなたのこと』




『待っててね!ジン!』




「……………………」


そして、彼女が死んでしまってからの記憶も、メルトューバは知った。


『疫病神め!お前のせいでサラは死んだ!お前のせいなんだ!』


両親の逆鱗に触れたジンは、屋敷を追い出されてしまった。メイドたちは『どうかご容赦を』とジンを庇おうとしたが、それでも止められなかった。


ジンはまた、独りぼっちになった。


貧しく孤独で、空腹を抱える毎日に逆戻りしてしまった。


お金なんて、当然ない。ジンにはもうパンひとつすら買うお金がなかった。


だがジンは、決して記憶をメルトューバへ売りに行かなかった。


死にたくなるほど空腹を感じても、唇を噛み締めて、泣きそうになりながら堪えていた。



ザーーーーー……



それは、雨の降る夜だった。


ジンは壁にもたれて、息も絶え絶えになっていた。


もうすぐ死ぬであろうことは、彼も自分で分かっていた。


目の前に広がる水溜まりに、雨の波紋が無数に広がっていた。


『………………』


ジンは、胸にかけているブローチを手に取って、その中にある少女の絵を見つめた。


その絵に、ぽたぽたと、涙が溢れ落ちた。


『……ああ、ああ、サラ』


『覚えてる、覚えてるよ、君のこと……』


『僕、僕、本当に……嬉しい』


ジンはそのブローチを、震える手で胸に抱いた。


『……生きてて、よかった』


『君の記憶が、僕の心に灯っている』


『誰にも渡さない。誰にも教えない。この記憶は、君と僕だけの……』




───大切な、宝物だ。




「……………………」


一部始終を見たメルトューバは、改めてジンの顔を見てみた。


彼は、天使のように美しい顔をしていた。


口許に優しげな微笑を湛えていて、とても満ち足りた表情をしていた。


「……………………」


しばらく考え込んでいたメルトューバは、記憶をまたジンの死体へ戻した。


「お?なんだ?記憶は取らないのかい?メルトューバ」


近くにいた男からそう言われて、彼女は「ふんっ」と不満げに言った。


「無かったんだよ、取れる記憶がね」


「そうか。まあ、ジンもただの貧民の子どもだからな。大した記憶はないだろうよ」


「……お前さんたちで、このジンを、どこかへ埋めておやり」


そう言って、メルトューバはまた森の奥へと帰って行った。


ジンはスラム街の人たちによって、街外れの墓地に埋められた。


その上には、木々の枯れ葉が積もっていった。


数十年が過ぎた頃には、もうそこにジンが埋まっていることは、誰も覚えていなかった。




おしまい





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