【Scene07.5:記憶の断片】
階段の影で泣き切ったあと、ウィステリアは静かに立ち上がった。
手すりに掌を置き、深く一度だけ息を吐く。足はもう震えていない。
踊り場の小窓へ数歩。ガラス越しに、雨上がりの街の灯がにじむ。
──ふっと、胸の奥で古いフィルムが回り出す。
訓練場。
「……あー、また負けたっ!!」
床に背中を打ったあの日、差し出された手。
「お前、弱いなぁ。まだまだ、俺にゃ勝てねぇな?」
くやしいのに、その掌だけは憎たらしいほど温かかった。
屋上。
風に火が揺れ、縁の甘い銘柄が薄く香る。
「ちょっと! 煙いんだけど!」
「風下に立ったのお前だろ。俺のせいにすんなって」
口では突き放しながら、煙の向こうで目だけが笑っていた。
(煙草の匂いなんて嫌いなのに──どうして安心するんだろう)
あの頃の自分は知らなかった。
それを“愛してる”と言うのだと。
瞼の裏がまた熱を帯びる。ウィステリアは小さく首を振り、前髪を耳へ払った。
ゆっくりとポケットから一本だけ取り出す──彼と同じ、ほの甘い香りの銘柄。
火を落とし、そっと吸い込む。胸の奥に薄い焦がし砂糖のような気配が広がり、
過去と現在が、ほんの一瞬だけ重なる。
(……終わらせなきゃ、いけない)
思い出では、誰も守れない。
記憶では、誰も救えない。
それでも──思い出が今の自分を立たせることだけは、嘘じゃない。
もう一度だけ煙を吐く。滲む灯が線になって戻ってくる。
指先で火を揉み消し、フィルターの端に爪で小さく傷をつけてポケットへ戻す。
“ここまで”の印。次に火をつける時は、決着のあとでいい。
踵を返す。
涙の跡は乾いている。歩幅は、もう迷わない。
(ねえ、縁──私、行くよ)
静かな足音が、薄明るい廊下へ溶けていった。




