【Scene 09:亡霊の呼び声】
──何かが、駆けた。
痕跡を辿って突き当たった先で、コートを翻す黒い背中が揺れる。
「……いたッ!」
ウィステリアが駆け出し、レインも即座に追う。
廃ビルの非常階段、崩れた路面、足場の悪い裏路地──ふたりの足音が闇に刻まれる。
「待て、《ゴースト》!」
振り返った顔は、《ウィステリア》を見ても怯えていない。
むしろ──どこか、知っているような目だった。
追い詰めた先、路地の奥。
瓦礫の影に、男がひとり立っていた。《ゴースト》。
牙の他支部に属しながら、百目羅刹と接触した裏切り者だ。夜の闇越しに、彼はまっすぐウィステリアを見据える。
「来たか、“毒の姫”……いや、《鍵》か」
その言葉に、ウィステリアの瞳がわずかに揺れる。
「……何の話」
「俺は、“記憶”の実験に関わっていた。
その中心にあった名……それが、“ウィステリア”だ」
静かな声。真偽を確かめる術はない。
だが、その目は最後までウィステリアだけを見ていた。
「“世界の記憶”は書き換えられる。
その鍵を持つ女──お前の存在が、それを証明する」
数秒の沈黙。やがて、ウィステリアは一歩だけ近づく。
「それが遺言?」
ウィステリアが静かに銃を構えた。男の口元が、かすかに笑う。
──パン。
銃声が、夜を裂く。
《ゴースト》は壁にもたれるように崩れ、指先から識別タグが転がった。
背後で、レインが微かに息を吐く。
「……よく喋る死に損ないだったね」
ウィステリアは背を向け、一言だけ残す。
「処分完了。“鍵”の件は、クロノに投げる」
「さすがウィステリア……楽勝だな」
「ふん……買ったばかりの毒を使うまでもなくて残念だった」
風が、死体の上を無感情に撫でていく。
ふたりは言葉を交わさず、拠点へと歩を進めた。
指輪の針先では、使われなかった新しい毒が、静かに次を待っていた。