【Scene03:Trigger】
あれは、事件の三日前のことだった。
牙の廊下は珍しく静かで、夕方の薄い光が窓から滲んでいた。
ロビーの長椅子。クロノは報告書を束ね、紙の端をそろえる微かな音だけを響かせていた。
誰にも話しかけられない、貴重な静寂──そこへ、甘い煙の匂いが割り込む。
「なあ、クロノ」
いつも通りの、飄々とした足音。
未成年の癖に咥えた海外銘柄。火種が赤く点り、銀煤色の瞳が半眼で笑う。
縁はソファの背にもたれ、天井を眺めたまま、唐突に言った。
「もしさ、牙が……壊れるってわかったら、お前はどうする?」
クロノの手が止まる。視線だけを上げる。
「……何の話だ」
「たとえば、だよ」
縁は煙を細く吐き、火先を指で弾く。灰が規則的な間隔で落ちた。
「全部が瓦解するって分かったら──“誰かを殺してでも守る”って、ありか?」
夕光の中で、赤い火点がちいさく揺れた。
冗談めいた口調。真剣味のない顔。いつもと同じはずの縁──
……なのに、ひと呼吸だけ、焦点がどこにも合っていなかった。
「……誰か、とは“仲間”でもということか」
自分でも固いと思う声で返す。
「思考実験にでも、ハマっているのか?」
縁は答えない。ただ、横目で笑った。
「……お前、ホント真面目だなあ」
「ま、いいや。忘れてくれ。ウィステリアと訓練でもしてくるわ」
それだけ言って立ち上がる。
背中が夕陽に溶け、角を曲がる。甘い匂いだけが薄く残った。
クロノは、それ以上追わなかった。
“たまたまの思考実験”──そう受け流して、紙束をそろえ直した。
けれど今は分かる。
あの一言が、最初の軋みで、最初の亀裂だったことを。
三日前、縁はすでに「何かをしようとしていた」
「見落としていた。……あんな明確な“引き金”を」
もし、あの場で踏み込めていれば。
もし、「誰を守るために、誰を殺す」と問い返せていれば。
誰も死ななかったかもしれないのに──。
記録には残らない、ほんの一瞬の会話。
だが、クロノの記憶には今も焼き付いている。
薄い夕光、甘い煙、一定の間で落ちる灰。
引き金は、あの灰色の火花ひとつから始まっていた。




