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Tokyo Dusk  作者: 藤宮 柊
5章『亡霊の記憶』
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【Scene03:Trigger】


あれは、事件の三日前のことだった。


牙の廊下は珍しく静かで、夕方の薄い光が窓から滲んでいた。

ロビーの長椅子。クロノは報告書を束ね、紙の端をそろえる微かな音だけを響かせていた。

誰にも話しかけられない、貴重な静寂──そこへ、甘い煙の匂いが割り込む。


「なあ、クロノ」


いつも通りの、飄々とした足音。

未成年の癖に咥えた海外銘柄。火種が赤く点り、銀煤色の瞳が半眼で笑う。

縁はソファの背にもたれ、天井を眺めたまま、唐突に言った。


「もしさ、牙が……壊れるってわかったら、お前はどうする?」


クロノの手が止まる。視線だけを上げる。


「……何の話だ」


「たとえば、だよ」

縁は煙を細く吐き、火先を指で弾く。灰が規則的な間隔で落ちた。

「全部が瓦解するって分かったら──“誰かを殺してでも守る”って、ありか?」


夕光の中で、赤い火点がちいさく揺れた。

冗談めいた口調。真剣味のない顔。いつもと同じはずの縁──

……なのに、ひと呼吸だけ、焦点がどこにも合っていなかった。


「……誰か、とは“仲間”でもということか」

自分でも固いと思う声で返す。

「思考実験にでも、ハマっているのか?」


縁は答えない。ただ、横目で笑った。


「……お前、ホント真面目だなあ」

「ま、いいや。忘れてくれ。ウィステリアと訓練でもしてくるわ」


それだけ言って立ち上がる。

背中が夕陽に溶け、角を曲がる。甘い匂いだけが薄く残った。


クロノは、それ以上追わなかった。

“たまたまの思考実験”──そう受け流して、紙束をそろえ直した。


けれど今は分かる。

あの一言が、最初の軋みで、最初の亀裂だったことを。

三日前、縁はすでに「何かをしようとしていた」


「見落としていた。……あんな明確な“引き金”を」


もし、あの場で踏み込めていれば。

もし、「誰を守るために、誰を殺す」と問い返せていれば。

誰も死ななかったかもしれないのに──。


記録には残らない、ほんの一瞬の会話。

だが、クロノの記憶には今も焼き付いている。

薄い夕光、甘い煙、一定の間で落ちる灰。


引き金は、あの灰色の火花ひとつから始まっていた。



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