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Tokyo Dusk  作者: 藤宮 柊
4章『枷咲』
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【Scene22:灯りの下で】



“Amber Noise”のネオンが、雨上がりの路面に琥珀色を溶かしていた。

取っ手の重い真鍮。押し開けると、古い真空管の熱気とワックスの甘い匂い、磨かれた木カウンターのオイル、そして針が盤を擦る微かなノイズ。低いベースが床鳴りで伝わる。


入口脇には小さな黒板──「NOW SPINNING」とチョークで書かれ、盤のジャケットが立てかけられている。レジ横には「CASH ONLY/NO PHOTOS」の札。


レコード棚はアルファベット順の木箱が壁一面、上段奥へ細いアイアンの階段が伸び、半透明のロフトへ続いている。

非常口ピクトのピンバッジがレコード棚の隙間にさりげなく埋め込まれ、コースターには小さくNFCの刻印。


表はバー、裏は…という空気を、誰も口にはしない。


カウンター奥。ジンは片耳だけヘッドホンをかけ、回転するレコードのラベルを親指で止めた。

振り返りざま、視線だけで照度を一段落とし、天井隅のカメラ角度をわずかにずらす。


癖のない所作。用意の良さが滲む。


「──生きてたか、お姫さま」


ウィステリアは小さく笑う。

「いろいろ、世話になった」


「心臓に悪いんだよ、行方不明は。せめて“迷子札”ぐらい置いてけ」

言いながら、コースターを指先で二度タップ。店内のざわめきが一段絞れ、二人だけの音圧になる。


カウンターのマグから紅茶の湯気。

「コーヒーは苦い事件を思い出す。今日は甘いほうにしとけ」


「……ありがと」

ウィステリアは内ポケットから薄い小箱。データチップ数枚と、無色のアンプル。


「礼。助けてもらった分」

「前者は買う。後者は……棚に置いとくと店が潰れる」

ジンはアンプルを逆光にかざし、ひとつ息を吐くと、手元の耐爆ケースに滑らせた。


「で、桜蛇の残党が水面下でざわついてる。上野の空気がわずかに重い。

 地図を二枚、頭に入れとけ。逃げ道と“帰り道”だ」


ウィステリアが頷く。

「私は戻る。《牙》に。変わらない。そこが私の場所」


ジンはわずかに目を伏せ、頬の筋肉だけで笑う。

「知ってる。だから言う。

 ――行くなら、帰ってこい。息したまま。次は“ただいま”を、ここで言え」


琥珀のランプが彼女の横顔を縁取る。

「……また紅茶を飲みに来る。毒の話も、続きがあるし」


「じゃ、席は空けとく。非常口は三つ、うち一つはレコード棚の裏だ。忘れんな」

ジンはグラスを拭く手を止めず、もう片方の手で小さな金属タグを弾く。

「ロフトの合鍵。周波数は変えておいた。緊急時は一回限り、俺の名前を使え」


「借りる」

ウィステリアは短く答え、踵を返す。扉が閉まる直前、彼女は振り向いて、ほんの一拍だけ視線を置いた。

ジンは頷きで受け取る。言葉はいらない。


──静寂。

針を落とす音だけが戻ってくる。ジンはカウンターに肘を置き、指先でカップの縁をなぞった。


(“ただいま”って、言えたか)


記録の中の《牙の姫》は、いつも少し壊れて見えた。

なのに今は、自分の足で出ていって、自分の意思で戻ってくる。


(強くなったな。……いや、強さを取り戻した、か)


胸の奥に、焼けたような痛みが残る。あの夜、通信が途切れた瞬間のノイズ。


クロノの「無事だ」の一行で、情けないほど膝が抜けた。


「……生きて帰ってきゃ、それでいい」

独り言は、小さく、よく通る。


照明を一段落とし、フェーダーを押し上げる。

ノイズと旋律の狭間で、針が静かに道筋を刻む。


どうかこの街が、あの子から“人間らしさ”を奪わないように。


祈りは音に紛れ、琥珀の灯りの下で、誰にも気づかれず延びていった。



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