【Scene22:灯りの下で】
“Amber Noise”のネオンが、雨上がりの路面に琥珀色を溶かしていた。
取っ手の重い真鍮。押し開けると、古い真空管の熱気とワックスの甘い匂い、磨かれた木カウンターのオイル、そして針が盤を擦る微かなノイズ。低いベースが床鳴りで伝わる。
入口脇には小さな黒板──「NOW SPINNING」とチョークで書かれ、盤のジャケットが立てかけられている。レジ横には「CASH ONLY/NO PHOTOS」の札。
レコード棚はアルファベット順の木箱が壁一面、上段奥へ細いアイアンの階段が伸び、半透明のロフトへ続いている。
非常口ピクトのピンバッジがレコード棚の隙間にさりげなく埋め込まれ、コースターには小さくNFCの刻印。
表はバー、裏は…という空気を、誰も口にはしない。
カウンター奥。ジンは片耳だけヘッドホンをかけ、回転するレコードのラベルを親指で止めた。
振り返りざま、視線だけで照度を一段落とし、天井隅のカメラ角度をわずかにずらす。
癖のない所作。用意の良さが滲む。
「──生きてたか、お姫さま」
ウィステリアは小さく笑う。
「いろいろ、世話になった」
「心臓に悪いんだよ、行方不明は。せめて“迷子札”ぐらい置いてけ」
言いながら、コースターを指先で二度タップ。店内のざわめきが一段絞れ、二人だけの音圧になる。
カウンターのマグから紅茶の湯気。
「コーヒーは苦い事件を思い出す。今日は甘いほうにしとけ」
「……ありがと」
ウィステリアは内ポケットから薄い小箱。データチップ数枚と、無色のアンプル。
「礼。助けてもらった分」
「前者は買う。後者は……棚に置いとくと店が潰れる」
ジンはアンプルを逆光にかざし、ひとつ息を吐くと、手元の耐爆ケースに滑らせた。
「で、桜蛇の残党が水面下でざわついてる。上野の空気がわずかに重い。
地図を二枚、頭に入れとけ。逃げ道と“帰り道”だ」
ウィステリアが頷く。
「私は戻る。《牙》に。変わらない。そこが私の場所」
ジンはわずかに目を伏せ、頬の筋肉だけで笑う。
「知ってる。だから言う。
――行くなら、帰ってこい。息したまま。次は“ただいま”を、ここで言え」
琥珀のランプが彼女の横顔を縁取る。
「……また紅茶を飲みに来る。毒の話も、続きがあるし」
「じゃ、席は空けとく。非常口は三つ、うち一つはレコード棚の裏だ。忘れんな」
ジンはグラスを拭く手を止めず、もう片方の手で小さな金属タグを弾く。
「ロフトの合鍵。周波数は変えておいた。緊急時は一回限り、俺の名前を使え」
「借りる」
ウィステリアは短く答え、踵を返す。扉が閉まる直前、彼女は振り向いて、ほんの一拍だけ視線を置いた。
ジンは頷きで受け取る。言葉はいらない。
──静寂。
針を落とす音だけが戻ってくる。ジンはカウンターに肘を置き、指先でカップの縁をなぞった。
(“ただいま”って、言えたか)
記録の中の《牙の姫》は、いつも少し壊れて見えた。
なのに今は、自分の足で出ていって、自分の意思で戻ってくる。
(強くなったな。……いや、強さを取り戻した、か)
胸の奥に、焼けたような痛みが残る。あの夜、通信が途切れた瞬間のノイズ。
クロノの「無事だ」の一行で、情けないほど膝が抜けた。
「……生きて帰ってきゃ、それでいい」
独り言は、小さく、よく通る。
照明を一段落とし、フェーダーを押し上げる。
ノイズと旋律の狭間で、針が静かに道筋を刻む。
どうかこの街が、あの子から“人間らしさ”を奪わないように。
祈りは音に紛れ、琥珀の灯りの下で、誰にも気づかれず延びていった。




