【Scene20:薄紅の誓い】
雨は上がり、街は夜明け前の薄藍に沈んでいた。
廃ビルを抜ける非常階段、濡れた手すりに星のない空が滲む。
ウィステリアの背に、咲間は半歩だけ遅れてついてゆく。
胸の奥で、名のない灯があたたかく燃えていた。
小さな踊り場で、彼女がふと振り返る。
黒髪の際に、黎明の色がうっすらとかかる。
「……咲間。これからのことだけど──」
言葉の端を、咲間はそっと跪いて受け止めた。
濡れたコンクリートに片膝をつき、視線を上げる。薄紅の瞳が、まっすぐ彼女を映す。
「ウィステリア……」
声は震えた。けれど、それは迷いではない。胸の奥から真っ直ぐ上がってきた熱だった。
「俺は、あなたのそばで“在る”ことを選びます。命も、過去も、これからも──すべて、あなたに預けたい」
彼は刀の下緒を静かに解いた。
細い、薄紅の組紐。
それを両手で持ち、祈りのように指先で熱を確かめると、ウィステリアの手首へそっと回す。
「道具として命じられて動くのは、もう終わりにします」
結び目が、きゅ、と小さく鳴る。
「どうか俺を、あなたの“影”として置いてください。あなたが前を向く限り、俺は何度でも、その背中に続く」
ウィステリアの睫毛がわずかに震え、視線が手首の薄紅に落ちる。
彼女は長い呼吸ひとつ分だけ黙って、それから手を差し出した。結び目の上に、自分の手を重ねる。
「……その糸で、自分まで縛らないで」
静かに、けれど確かに。
「私はあなたを所有しない。あなたが“在る”と決めた、その意志ごと、隣で受け取るだけ。──それでもいいなら、来て」
咲間の喉がひくりと鳴る。
彼は彼女の結ばれた手首ごと、両手で包み、宝物に触れるように頬を寄せた。
「……はい。今度こそ、俺は自分で選びました。あなたに仕え、生きると」
「仕えるだけじゃなく、ちゃんと生きて」
ウィステリアは口元だけで微笑む。
「“拾われた命”を、今度はあなたが誰かのために拾い返して。──まずは、私のために」
薄明の風が階段を抜け、薄紅の組紐をわずかに揺らす。
その色は、彼の瞳と同じ、静かな熱を帯びていた。
二人の影が寄り添い、夜明け前の街へと伸びていく。
結ばれた手首の温度が、言葉より深く誓いを刻んでいた。




