【Scene 19:雨上がりの名残】
東京湾沿いの廃倉庫。
牙が一時退避に使う簡易拠点は、波と鉄の匂いだけを抱いていた。
外は、雨上がり。
梁から落ちる雫が、時折コンクリに小さな輪を描く。
鉄骨の影。
咲間は人気のない一角に腰を下ろし、目を閉じて風を受けていた。
頬の返り血は拭かないまま。呼吸は深くも浅くもない、ただ在るだけの呼吸。
足音が近づく。
「……ひとりで背負い込むタイプか。お前も」
レインが来た。片手に缶コーヒー。無造作に一本、咲間の足元へ転がす。
金属が床をかすめ、乾いた音が跳ねた。
咲間は目を開ける。さっきまで殺気を孕んでいた薄紅の瞳に、いまは静が宿っている。
「休んでいるだけです。少し、考えたくて」
「……殺したんだろ。桜蛇の会長を。親代わりだった」
咲間の眉がわずかに動く。肯定も否定もなく、沈黙が答えを示す。
レインはため息ともつかない息を落とし、隣に腰を下ろす。
潮風がふたりの間を撫でて通り過ぎた。
「全部、壊れたな。お前の世界」
「ええ。まるで最初から虚構だったように」
「それでも、戻ってきた」
短く言って、缶のプルタブを引く。小さな破裂音が、遠いサイレンを掻き消した。
「……あのとき、俺は怒ってた。お前が彼女を攫ったと聞いた瞬間、頭が真っ白になった」
「……はい」
「けど、今こうして向き合っても、お前は“敵”には見えねぇ。不思議なもんだ」
沈黙。波の間に、雫がまた一つ弾ける。
咲間がぽつりと落とす。
「俺を拾ったのは、彼女でした」
「だろうな」
レインの口元が、ほんのわずかに緩む。
「拾う、か。あいつはそういう女だ。優しすぎて、強すぎる」
咲間は視線を伏せる。
「正直、まだ信じられません。誰かに拾われたなんて。……それでも、あのとき確かに、自分の名を呼ばれた気がした」
レインは立ち上がり、背中越しに言った。
「なら、生きろ。拾われた奴には、拾い返す番がある」
咲間が顔を上げる。
「……拾い返す?」
「ああ。誰かから受け取った温度を、今度はお前が別の誰かへ渡す。そうやって続いてくんだよ」
少しだけ間を置いて、レインは続ける。
「ウィステリアに拾われたお前なら、きっとできる」
夜風が吹き抜け、雲の間から細い月が覗いた。
咲間は立ち上がり、胸の奥でゆっくり息を吐く。
雨上がりの匂いの中で、新しい灯が、静かに点った。




