【Scene17.5:救い】
沈黙の中、俺は立ち尽くしていた。
握った手は震えたまま、血の匂いだけが胸の奥をじりじりと焼く。
目の前で崩れた“仮初めの父”を、頭が現実として受け取らない。
(やったのは、俺だ。俺の手だ──)
思考だけが空回りする。
返り血が頬を伝れても、冷たい、とも思えない。
世界に薄い靄がかかり、音が遠のいていく。
(どこへ、行けばいい)
“恩”は返した。
“すべて”を終わらせた。
なのに、空洞は埋まらない。
力が抜け、刀が床に静かに落ちる。
同時に膝も崩れ、糸の切れた操り人形みたいに、じわりと座り込んだ。
(寒い──)
それは風の寒さじゃない。
骨の芯で鳴り続ける、孤独の温度。
誰かのための道具として、命令だけを拠り所にしてきた。
その手綱が外れた今、俺は何者でもない。
──そのとき、肩にそっと触れる指先があった。
驚いて顔を上げる。
膝をついた彼女が、静かな眼差しで俺を見ていた。
怖くなるほど、あたたかい光だった。
「あなたは、もう“誰かのための道具”じゃない」
声が耳でなく、心へ落ちてくる。
閉ざしていた扉が、軋みを上げた気がした。
自分の手を見る。
この手が一度だけ、誰かを守るために動いた夜が、確かにあった。
「……俺は、どこへ……行けば」
掠れた問いは、迷子の子がやっと出した呼び声みたいだった。
「──ひとまずは、うちに来れば良い。少なくとも……ここよりはずっと居心地がいい」
時間が止まる。
それは叱責でも赦しでもない、“居場所”の提案だった。
(いいのか。生きていて、いいのか)
「……俺は、生きても、いいんですか」
迷いのない肯定が返ってくる。
「生きなさい。あなたは、もう“拾われる”必要なんてない。これからは、あなたが自分で“在る”ことを選べる」
ふっと身体が傾き、気づけば彼女の胸元に額を預けていた。
張り詰めていた糸が、小さく切れる音がする。
あたたかい。
本当の救いは、いま、ここにあった。
頬を、一筋の涙が滑り落ちる。
誰にも命じられず、誰にも許されず、俺が自分で流した涙だ。
それは、咲間という“人間”が初めて持った、心の証だった。




