【Scene17:迷子】
窓を叩く雨音だけが、部屋の呼吸だった。
咲間は立ち尽くしていた。
握った柄に、まだ微かな震えが残っている。
背後には、紫煙の匂いと、冷えはじめた鉄の気配。
墨色の髪は乱れ、頬に返り血が一筋。
胸は浅く上下するばかりで、吸い方さえ忘れたようだった。
──やがて、音もなく膝が落ちる。
重さを失った人形のように、静かに床へ沈む。
肩は震えず、顔も歪まない。
ただ瞼が降り、言葉のない口が小さく開く。
宙をさまよう指先は、掴みそこねた何かを探していた。
それはまるで、迷子だった。
その隣に、影がひとつ膝をつく。
ウィステリアだ。何も言わず、そっと肩に触れる。
その瞬間、咲間の背が微かに揺れた。
初めて人の温度に触れた子どものように。
薄紅の瞳が揺れて、彼女を映す。
もう“敵”でも“対象”でもない。
自分の名を知っている、ただ一人の人。
「あなたは、もう“誰かのための道具”じゃない」
指先が触れ合う。咲間の手が小さく震える。
「居場所を失って、途方に暮れて……それでも誰かのために剣を抜いたあなたを、私は知ってる」
喉がひくりと鳴る。
声にならないものが、胸の奥で溢れていた。
「……俺は……」
幼い響きが零れる。
「……俺は、どこへ……行けば……」
答えは迷わない。
「──ひとまず、うちに来ればいい。ここよりは、ずっと居心地がいい」
その言葉が、雨より静かに落ちてくる。
咲間はゆっくりと、彼女の胸元に額を預けた。
「……俺は、生きても……いいんですか」
「生きなさい。あなたはもう“拾われる”必要なんてない。これからは、自分で“在る”ことを選べる」
ウィステリアの腕が、静かに背へ回る。
そこにあるのは、罰でも赦しでもない。
ただ、人としての温もり。
──あの日、廃ビルで「拾われた」と思っていた自分が、
本当に“拾われる”瞬間は、今だったのだと。
頬を伝う涙が、床へ落ちる。
誰にも支配されない、最初の涙。
雨音が少しだけ遠のいた。
二人は立ち上がる準備を、同じ静けさの中で始めていた。




