【Scene 09:それる刃】
桜蛇会・地下施設の通路。
湿気を孕んだ空気が肺に重い。蛍光灯は一本おきに点滅し、ひび割れたタイルへ薄い光の縞を落としていた。
咲間はそこで足を止めた。
片手の薄い封筒──本日の“指示”が、紙の擦れる音だけを残す。
『適度な刺激を与えよ。外の女など従順にさせれば良い』
活字は冷たい。読み終えるのに一秒とかからない。
彼は封を戻さず、通路の脇の焼却ボックスへ滑らせた。カチリ。
弱い火が走り、紙は音も立てずに灰へと変わる。
灰はひらひらと舞い、桜の欠片のように靴先へ落ちた。
(命令に逆らうのは──初めてだ)
胸の底で、かすかな火が灯る。
それが恐れか、安堵か、まだ名前は付けられない。
*
戻った部屋は、石の匂いと消毒薬の匂いが混じっていた。
ウィステリアは浅く眠っている。呼吸は整い、睫毛がかすかに震える。
枕元の天井では監視灯が心拍のように赤く瞬いていた。
咲間は死角へ一歩ずれる。壁と棚の影がつくる細い三角の“影”。
そこから静かに膝をつき、指先で額の汗を拭う。ぬるま湯に湿らせた布が体温を奪いすぎないよう、触れて、離す。
「熱は……もう大丈夫ですね」
独り言に近い声。
眠り薬の甘い残り香が、まだ舌の奥にわずかに残っているだろう。自律を鈍らせるためだけの毒。傷つけるためのものじゃない。
「……私は、道具のはずなんですけどね」
額の髪をそっと払う。
命令なら、ここで爪を立てるべきなのだろう。
けれど、伸びた手は壊す形を選ばなかった。
(壊すより、守りたいと思ってしまったら──もう、それは“道具”じゃない)
立ち上がると、壁際の端末に短く指を走らせる。
〈施術ログ:刺激反応閾値・高。疼痛条件、条件不成立のため延期〉
平板な文章が画面に刻まれる。言い訳は、簡潔で良い。
背を向ける前、彼女の寝息を一度だけ確かめる。
卓の脚は一本緩い。逃げる時にだけ使える緩さ──そう記憶に留め、あえて直さず残した。
咲間は口元にいつもの笑みを作る。
柔らかい、何も映さない微笑。だが今だけは、そこに薄く亀裂が走る。
「拷問は効きませんでした、って言えばいい。……あの人なら、笑ってごまかす」
飄々とした声の奥で、火は少しだけ強くなった。
通路へ出る。焼却ボックスには、まだ微かな熱が残っている。
──それが、“始まり”だった。




