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Tokyo Dusk  作者: 藤宮 柊
4章『枷咲』
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【Scene 09:それる刃】



桜蛇会・地下施設の通路。

湿気を孕んだ空気が肺に重い。蛍光灯は一本おきに点滅し、ひび割れたタイルへ薄い光の縞を落としていた。


咲間はそこで足を止めた。

片手の薄い封筒──本日の“指示”が、紙の擦れる音だけを残す。


『適度な刺激を与えよ。外の女など従順にさせれば良い』


活字は冷たい。読み終えるのに一秒とかからない。

彼は封を戻さず、通路の脇の焼却ボックスへ滑らせた。カチリ。

弱い火が走り、紙は音も立てずに灰へと変わる。


灰はひらひらと舞い、桜の欠片のように靴先へ落ちた。


(命令に逆らうのは──初めてだ)


胸の底で、かすかな火が灯る。

それが恐れか、安堵か、まだ名前は付けられない。



戻った部屋は、石の匂いと消毒薬の匂いが混じっていた。

ウィステリアは浅く眠っている。呼吸は整い、睫毛がかすかに震える。

枕元の天井では監視灯が心拍のように赤く瞬いていた。


咲間は死角へ一歩ずれる。壁と棚の影がつくる細い三角の“影”。

そこから静かに膝をつき、指先で額の汗を拭う。ぬるま湯に湿らせた布が体温を奪いすぎないよう、触れて、離す。


「熱は……もう大丈夫ですね」


独り言に近い声。

眠り薬の甘い残り香が、まだ舌の奥にわずかに残っているだろう。自律を鈍らせるためだけの毒。傷つけるためのものじゃない。


「……私は、道具のはずなんですけどね」


額の髪をそっと払う。

命令なら、ここで爪を立てるべきなのだろう。

けれど、伸びた手は壊す形を選ばなかった。


(壊すより、守りたいと思ってしまったら──もう、それは“道具”じゃない)


立ち上がると、壁際の端末に短く指を走らせる。

〈施術ログ:刺激反応閾値・高。疼痛条件、条件不成立のため延期〉

平板な文章が画面に刻まれる。言い訳は、簡潔で良い。


背を向ける前、彼女の寝息を一度だけ確かめる。

卓の脚は一本緩い。逃げる時にだけ使える緩さ──そう記憶に留め、あえて直さず残した。


咲間は口元にいつもの笑みを作る。

柔らかい、何も映さない微笑。だが今だけは、そこに薄く亀裂が走る。


「拷問は効きませんでした、って言えばいい。……あの人なら、笑ってごまかす」


飄々とした声の奥で、火は少しだけ強くなった。

通路へ出る。焼却ボックスには、まだ微かな熱が残っている。


──それが、“始まり”だった。



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