【Scene16:Routine_Still Remember】
朝6時00分。アラームが鳴るより数秒、彼は静かに目を開けていた。
窓際から射す薄い光が、シーツの皺を淡くなぞる。手のひらでそれを整え、ゆっくりと身を起こす。
動きは相変わらず几帳面だ。けれど、胸の内側は──あの日より、確かに柔らかい。
鏡に映る自分を見て、銀の髪に指を滑らせる。
「……寝癖がつかなくなったのは、歳をとった証拠かな」
独りごちて、ほんの少しだけ笑った。
キッチンでドリップポットに湯を落とす。細い糸が粉を湿らせ、香りが部屋に満ちる。
湯音に重ねて、彼は無意識に鼻歌を口ずさむ。忘れたはずの旋律。
いまは覚えている。誰の歌だったかも──その口元から零れたあの日の光景も。
花音。
最期まで優しい目をしていた人。
このクロスの意味も、鼻歌の理由も、もう探さなくていい。
覚えている。声も、笑顔も、手の温度も。
トーストが跳ねる。皿へ運び、朝食を整える。
今日は少しだけ彩りを変えた。ヨルが買ってきた紫キャベツを添える。
変化を怖れないこと──それも、生きている証だ。
食後、食器を片づけ、クローゼットの前に立つ。
ネクタイを結び、ジャケットの肩を整える。
最後に引き出しから、銀のクロスを取り出した。掌に一度、包み込む。
「……君が託してくれたものを、今もちゃんと覚えているよ」
そっと首にかける。もう迷わない。
これは“記憶の象徴”であり、“誓いの形”。これからの歩みに寄り添い続ける印だ。
窓外では、朝の光が街を薄く染め始めている。マグを手に、その景色をひと呼吸だけ見つめる。
「……今日も、行ってくるよ。記憶の中の君へ。そして、生きてそばにいる、彼女のもとへ」
一日の始まりは、同じでいて──確かに違う。
変わったのは、彼の心。そして、もう迷わず“誰かのために生きる”と決めた覚悟。
扉の前で振り返り、部屋をひと睨みして、くすりと笑った。
「……ただいま、って言える場所があるのは、いいな」
その言葉を残し、彼は歩き出した。
変わらないようで、すべてが変わった“日常”の中へ。
* * *
昼下がりの《The Echo》共有スペース。
ステンドグラス越しの光が床に薄い色を落とし、冷房の吐息とカップの触れる音が午後を形にする。
「で、今朝の鼻歌、聞こえたぞ?」レインがカップを傾ける。
「浮かれてるよな、あれ」
「……なんで聞こえてるんだ」アリステアが眉を寄せると、
ヨルがぐいっと顔を覗き込む。「しかもクロス握ってなんかつぶやいてたよね? 毎朝祈ってる系男子?」
「……見てたのか」
「ばっちり」
「お前ら、ほんと暇か」ため息に、クロノが新聞を畳んで一言。
「“今日も、行ってくるよ……”ってな。壁が薄い」
笑いが弾ける。アリステアは苦笑しながら肩を落とす。
その背に、タバコの匂いが近づいた。振り向けばウィステリア。
紫煙の向こうで、どこか遠くを、しかし確かに“今”を見ている目。
「……そうやって、からかわれてるアリステアを見てるとさ」
彼女はくすりと笑い、瞳を細める。
「“ちゃんと帰ってきたんだな”って、思う」
アリステアは何も言わず、そっと目を伏せた。
それでいい。これがいい。
日常の声、笑い、視線──そのすべてが、いまは宝物だ。
きっと、明日も同じように始まる。
忘れないまま、生きていく。その証として、今日もまた。
覚えている。




