【Scene10.5:祈りの記憶】
モニターの光が静かに落ちた。
残るのは、沈黙。
空間には、彼女の笑顔の残響だけが漂っている。
胸の奥で、閉じていた層がきしむ音がした。
視界の奥に、記憶の海がひらく。
* * *
「主任のコーヒー、苦すぎるんですってば。どれだけカフェイン取ったら気が済むんですか」
指先がくるりと回って、湯気が立つ。
花音は笑いながら、シュガーをもう一杯落とす。
「君の舌がお子様なだけだ」
ため息を返すと、彼女は唇を尖らせ――だが、目は笑っていた。
温かい。無邪気で、凛として、美しかった。
──夕方の研究室。
白衣を脱ぎかけた襟元に、彼女がそっと十字架のネックレスをかける。
「……クロス?」
「お守りです。主任って、神様を信じないタイプでしょう?」
「ああ。科学者だからね」
「でも、いるんですよ。きっと。
願えば届くんです。ほんとうに大切なときは、助けてくれるから」
その笑みが優しくて、返す言葉を失った。
それが、最後の会話になった。
* * *
──その日。
花音が、研究室から消えた。
記録も、荷物も、存在の痕跡さえ。
端末は「該当者なし」を返し、誰も彼女を覚えていない。
おかしい。ありえない。
呼吸が荒くなり、壁を叩く拳が割れる。
「返せ……返してくれ……頼む……」
「………愛していたんだ…」
声が枯れても、花音という名はどこにもなかった。
削られたのは世界で、取り残されたのは心だった。
* * *
──今。
身体が前へ折れる。胸が締めつけられる。空気が入らない。
『…もう、ぼくは、思い出してしまった…。』
喉は詰まり、視界は滲む。
頭の中へ、花音の声が押し寄せる。断片ではない。全部だ。
彼女の笑顔、紅茶の甘い香り、軽やかな鼻歌。
立っていられない。膝が折れかけ──
そのとき。
横から伸びた指が、震える手をそっと包んだ。
顔を上げる。
黒髪に淡い光を宿した少女が、まっすぐこちらを見ている。ウィステリア。
静かで、絶対のまなざしが言った。
「──忘れないで」
涙も、叱咤も、哀れみもない。
ただ、ひとつの“約束”のような祈り。
視界がさらに滲む。
彼女の瞳の奥に、花音の微笑みが重なる。
「……あぁ、花音……」
襟元のチェーンが、胸もとで微かに触れ合った。
「本当に……いるんだな」──神様は。そう呟いた瞬間、
僕を縛っていた記憶という鎖が、静かにほどけていった。




