【Scene05:潜入、廃区画】
新宿の廃区画。
かつてホスト街だったビル群の名残が、崩れた壁と軋む看板、割れたガラスに夜の光を散らしている。
「……何も、いないように見えるけど」
ヨルが小声で周囲を確かめる。
「見えてないだけだ。気配はある」
ウィステリアは歩を止めず、足音を最小限に抑えて進む。
ビルの地下へ続く階段。かつてシェルターとして使われたらしい鉄扉の奥へ──。
「姉さん、これ……」
ヨルが指した先に、散らばった電子基板。壊されたルーター。鉄に焼け焦げた痕。
「……焼き捨ててある。中のデータはもう消されたか、初めから無い」
ウィステリアは手袋越しに基板を持ち上げ、焦げの裏側をじっと見る。
「けど、これ──牙の内部データだ」
「え、それって……?」
「ここに居た誰かが、これを仕入れたか。あるいは“牙が外部”に渡したか」
ヨルの肩がわずかに固くなる。
「まさか、また裏切り者……?」
ウィステリアは首を振る。
「……違う。これは、もっと異質な匂いがする」
鉄の壁を見上げる。
そこには、奇妙な装置が残されていた。すでに電源は落ちている。接続ポート、記憶ユニット、記録シリンダー──いずれも“記憶装置”に似た構造だ。
「……姉さん、それ……何?」
ウィステリアは少しだけ息を吐く。
「百目羅刹のやり方。記憶を改ざんする“装置”だ」
「記憶……を?」
「見たものを、聞いたことを、“なかったこと”にする。
その上で、“あったこと”に書き換える」
ヨルの顔色が変わる。
「そんなん……人、壊れるじゃん」
「……壊すためにやってる。敵は、そういう連中だ」
沈黙が落ちる。
ウィステリアはそっと装置に触れた。
「《ゴースト》の処分は終わった。けど、その背後にいたのは──やっぱり、百目羅刹」
「これ、クロノに見せたほうがいいかも……」
「いや、もう少し調べる。……変だ。気配が、濃くなってきた」
ウィステリアが立ち上がった瞬間──
──バチッ。
天井のユニットが閃光を吐いた。
「──伏せろ、ヨル!」
影が落ちる。梁から滑るように降りた黒いフード。ナイフを手に、足音も残さず床へ。
その気配は、明らかに“殺し慣れている”。
ウィステリアは即座に構える。だが、敵の視線は真っ直ぐヨルだけを見ていた。
「……俺が、やる」
ヨルが一歩、前に出る。
手にはナイフ。足は震えていない。けれど、指先がわずかに揺れていた。
敵は笑いもせず、静かに構えた。
その一瞬、ウィステリアは射線を取る。銃口が左肩を捉えた──次で、落とせる。
だが、敵の重心がすっと揺れる。
「……なっ──!」
狙いは“殺し”ではない。“奪い”だ。
「ヨル、引け──!!」
叫ぶ間もなく、敵は一気に懐へ潜り込んだ。
ヨルの刃が首元へ届きかけた、その刹那──
「……っ……!」
手が止まる。殺すことへの躊躇。一瞬の迷いは、戦場では命取りだ。
敵の腕が返る。刃ではない、麻痺針。
ヨルの身体が、崩れ落ちた。
「──ヨル!!」
ウィステリアは即座に引き金を絞る。
だが、敵は倒れる身体をそのまま抱え、盾にした。
「くそっ……!」
撃てない。構えた手がわずかに震える。
黒い影は鉄扉へと跳ぶ。ウィステリアが追い出そうとした瞬間、閃光弾が白を叩きつけた。
粉塵が舞い、気配が闇へ溶ける。
ヨルは──いなかった。
「……ちくしょう……ッ!!」
膝をついたウィステリアは、砕けた床を掴むように拳を握る。
毒針の冷たい金属が手の甲に食い込んでも、痛みすら感じない。
「……なんで……なんで、躊躇ったんだよ……!」
悔しさと怒りが、声にならず喉を震わせた。
それでも、まだ背負っていたはずだった。“あいつを連れて行く覚悟”を。
なのに、あの背中は──もう、そこにはなかった。




