【Scene16:Invitation】
風が吹いた。
海沿いの夜気が、ウィステリアの髪を静かに揺らす。
烏羽色の長い髪が、ふわりと縁の視界を横切る。
その香りは、七年前と変わらない。
ウィステリアは彼の胸に額を寄せ、ぽつりと呟く。
「ねぇ……縁、牙に戻ろう?」
静かな声。
けれど、その一言に七年分の哀しみも怒りも、そして希望も詰まっていた。
縁の身体が、ほんの少し硬くなる。
ウィステリアの手は彼の胸に触れたまま離れない。
「……俺が……?」
喉の奥から掠れた声。
資格がない──そう思い続けてきた。
それでも、ウィステリアはまっすぐ言葉を重ねる。
「確かに、あのとき、あんたは私たちを裏切った。
でもそれ以上に、自分を捨てて、全部背負って、
ずっとひとりで戦ってたじゃない」
「……それって、“牙”だよ」
「私が信じてきた、縁の姿だよ」
縁は拳を握る。目の奥が熱い。
牙を出てから積み重ねた孤独の夜。
自分に“裏切り者”を刻み続けた日々。
いま──同じ声で、「帰ってこい」と呼ばれている。
縁はそっと彼女を見下ろす。
少し大人びた、でも変わらず真っ直ぐで優しい瞳。
「……それでも、俺を許せるのか?」
ウィステリアは微笑む。涙で濡れた頬のまま、真っ直ぐに。
「許してないよ。きっと、ずっと。
でも……帰ってきて。
それでも、私たちは“家族”なんだよ」
その言葉に、縁の瞳からひとすじの涙が落ちた。
ただの亡霊だった自分に、帰ってこいと告げる声。
──そんな日がまた来るなんて、思っていなかった。
縁は、ウィステリアの手を握る。
「……あぁ。……帰ろう」
その返事は、夜風の中で静かに、温かく響いた。
月は二人を照らす。
傷を抱えたままで構わない。
それでも帰れる場所がある──そう信じられる夜だった。
ウィステリアはくすっと笑い、彼の胸に額を寄せる。
「……ほんと、お前、どうしようもない馬鹿だな」
縁も笑って、額にかかる髪をそっとかき上げる。
「それはお前もな。……ってか、重い。そろそろ降りろ」
「……はぁ? 重くねーし」
涙の余韻を引きずる声。けれど、その目元は確かに笑っていた。
夜風がふたりの間を撫でる。
喪失と赦しのすぐ隣にある、日常のぬくもり。
──牙の亡霊は、いま確かに“生きた”ひとりの男に戻った。
そしてその手を取った彼女もまた、“過去”を手放す覚悟を結んだ。




