【Scene 11:まだ濁らない瞳】
──カラン、と小さな音が響いた。
ロビー奥のカウンターで、誰かが置いたマグがわずかに揺れただけだ。
湯気は細く、甘い茶葉の匂いが空気に溶けていく。
任務明けの**The Echo(記憶の残響)**は、天井の高みに淡い橙を落とすステンドグラスと、壁の情報モニターだけがぼんやりと灯っていた。
火薬とタバコの残り香は薄い。静けさは深く、家のようで、少しだけ戦場の名残がある。
廊下の奥、軽い足取りでウィステリアが姿を現す。
濡れたコートの裾はもう乾きかけ、指輪の先で毒針が音もなく眠っている。
窓際──
ソファの脚に肩を預けるようにして、ヨルがいた。膝を抱え、天井の暗がりを見上げている。
さっきまで目を閉じていたのか、気配は風みたいに薄い。
藤の鉢植えの影が床に長く伸び、ロビーの静けさに縫い止められていた。
「……起きてたのか」
ウィステリアの声に、ヨルはすぐには答えない。
睫毛がわずかに揺れ、視線が彼女をかすめ、また天井に戻る。やがて、ぽつり。
「……殺した?」
数秒の間。
ウィステリアは一歩だけ近づき、ソファの背に手を置いた。指先で布の目を確かめるように、ほんの一拍。
「……ああ」
ヨルは、小さく息を吐くように笑った。そこに勝ち誇りも、安堵もない。ただ、受け止める音だけ。
「そっか。……姉さん、おかえり」
ウィステリアはその言葉に何も返さず、視線を落としたまま、ほんの少しだけ頷く。
彼の横顔に、ステンドグラスの橙が薄く差し、瞳の奥の色を静かに浮かび上がらせた。
ヨルの目は、まだ濁っていない。
それが救いか、恐怖か──彼女にも、もうわからない。
この場所の匂いと温度に守られているせいか、あるいは、まだ何も奪っていないからか。
けれどその夜、彼の瞳はずっと、
“殺さないことを選び続けている者”の光を、確かに宿していた。
それは幼さではなく、刃に触れた指をなお開いたままにできる、稀な強さの色だった。




