【Scene13:祈りの滴】
刃が震えて、喉元で脈と同じ速さに小さく鳴った。
ウィステリアの肩が上下する。
胸の奥からせり上がるものは、もう押しとどめられない。
──ぽたり。
一滴が縁の頬に落ちた。
塩の気配と、鉄の匂い。縁の銀煤色の瞳が、そこでわずかに開く。
続けて、彼女の唇がそっと額に触れた。
赦しではない。別れの口づけでもない。
祈りの形だけが、静かに降りた。
縁の目が揺れる。
その瞳に映るのは怒りでも絶望でもなく、ただ彼を見つめて祈る彼女の黒。
「……好きだったんだよ」
月光の下で、言葉がほどける。
「愛してた。誰よりも、信じたかった」
縁の喉がひくりと鳴る。
声にならない呼吸のあと、かろうじて言葉が零れた。
「……お前の世界を、壊したくなかった」
「俺が黙って消えれば……お前たちの時間は綺麗なままで止まる、そう思ってた」
そこまで言って、彼は唇を噛む。
喉元の冷えを確かめるように、ゆっくりと目を逸らし──戻す。
「……なのに、なんで……そんな顔をするんだよ、ウィステリア」
名を呼ぶ声音は、祈りそのものだった。
彼女の指先が、縁の頬をかすめる。
屋上の夕風、紙巻の甘い煙、訓練の汗の匂い──交わした日々が、刃の線上に重なっていく。
刺せる距離にいながら、刃は震えたまま。
終わらせたかったのに、確かめたかった。
殺すためではなく、“理解”のためにここへ来たのだと、胸が知っている。
風が抜ける。
二人の鼓動だけが、現実をつなぎ止めていた。
──ここから先は、もうどちらにも戻れない。
それでも、想いはまだ、刃先と額のあいだに灯っている。




