3.現実直視
お久しぶりです。
では今回も、二人の行く末を見守ってあげてください。
私は妙な不安と焦燥から解放され……と思った。
何を安心することがあるのだろう。私は今、理解できない世界に叩き付けられているのだ。だというのに、ストン、と胸の奥から外へ何かが抜け落ちたような気がする。酷く奇妙な感覚を持て余していると、そんなことも知らない上に配慮が足りない海月が喋った。
「にしてもさぁ、キミすぐ死んじゃいそうな体躯だね。困るからやめてくれる?」
「え……えぇ?そんなこと言われても困るのはこっちだし……!」
彼は一体何を考えているのだろう。海月だから表情も分からないし、倫理観を海の奥底に沈めたようなヒトと話が噛み合うとも思えない。
「ま、いいや。で結局どうしたいの?ボクそこまで世話してやんねーからねぇ~」
これほど快活に退屈そうな抑揚で喋るヒトは初めて見たかもしれない。とりあえず曖昧に頷き、改めて現状を見つめなおす。
そもそも、記憶がない。コレは確かだ。常識と言うものや名前は忘れていないし、この世界に違和感を覚える時点で『元の世界』は染みついているのだろう。これ以上うだうだ泣いてても仕方ないので、こればっかりは受け入れるしかない。
ただ、問題は次だ。『海物』とかいう怪物が、この海底の世界にはうじゃうじゃいるらしい。しかも規格外に大きく、迷子を喰らう。つまり霖はこの世界の食物連鎖に置いて、恐らく最底辺。歯が立たないどころか、カオスィ―がいなければ寄生虫と言うあの小さい蟲ですら瀕死だ。
いや、アレに関しては蟲が悪い。だって、幼虫を潰したみたいな黒くグロイ塊に手を突っ込み、ましてや食べるだなんてあり得ない。眼球を喰われて元気な自分を褒めてあげたい。
続いて『鯨波の女神像』。この世界で唯一、霖のオアシスとなる安全地帯。海物から逃れることができ、また体の傷を癒すことができる。死にさえしなければ、多分復活できるだろう。
考えても仕方ないので、宝石のような朱い海月に向き直る。海底にはまだ、霖雨が降っていた。
「ねぇ、私の記憶って取り戻せたりしない?」
「取り戻す?それ自体はできないことはないけど、キミのケースでは何ともね……」
「……可能ではあるのね?」
彼の言葉に淡い希望を見い出し、恐る恐る尋ねてみる。
「うん。簡単に言えば、記憶の破片を探せばいいんだよ。この世界で記憶は鏡になっている。大きさは姿見くらいで、破片の個数は多種多様だけどまぁ見れば察するよ」
「鏡……?記憶、映ったりするの?」
それなら思い出すのも容易いかもしれない。そう思って訊いてみるが、彼は決して頷いてはくれなかった。
「さぁ?ボクは経験ないから知らないし、そもそもこれだって文献の知識だからね。まぁ、探して損はないと思うけど」
「へぇ……確かに、損得はないよね……」
何にしろ死人だ。寿命も何もないし、既に元も子もない。時間なんて腐るほどあるのだ。
それよりも彼女が気になったのは『文献』に関してだった。読めるのか。すると、彼は人間より高度な知能を有する可能性まで出てきたのだ。ともかく今は味方なのだから、信用出来るところまでは信頼しようと思う。
そんな事も露知らず、カオスィーはふらりと触手を並に任せ揺れながら、言った。
「じゃあ、一回文明の形跡探してみようか。あたりを見回してごらん」
「……わかった」
一瞬戸惑うが、今は手札がないので大人しく従う。できるだけ女神像から離れないように、しかし世界から見て小さすぎる私の視力など話にならなかった。第一、暗くてわからない。そう目を細めていたところ、視界の端で幽かに発光する生命体を見つける。
これだ。
「ねぇ、カオスィ―」
「カオスィ―だよー」
「暗くてよく見えないから、適当に向こうを泳いでくれない?」
ふよふよとほとんど透明な触手を揺らしていた彼は、不意に動きを止める。
「……キミ、とてもいい度胸と根性だね。まぁ、別にいいけど」
「ありがとう、助かる」
自分はしっかりと女神像の傍らに寄り添い、安全を確保した上でカオスィーの背後に目を凝らす。彼は蛍程度の光量だったが、それでも真っ暗にしては視界が開けた海底では、充分役に立った。
不自然な、幾何学模様が幽かに照らされる。
「あっ!止まって、カオスィー止まって!」
「何なにぃ、見つけちゃった?」
彼自身ノリがよく、ピタッと止まってくれる。ありがたい。
女神像に指先だけ置いて、限界まで前に踏み込む。少々腕を震わせながら、そして美しい霖雨に視界を塞がれながらも、何とかその姿を捉えた。
石造建築の恐らく、柱か何かの一部。三角がズームアウトしていくような幾何学模様が刻まれており、何かの『文明』なのだろう。鯨波の女神像という例外もあるが、明らかに人工物だ。
指差しで伝えてみると、彼は軽薄な感嘆を見せた。
「おー、そうそう。アレが形跡のひとつだね。ちなみに、海物の場合は痕跡って呼ぶよ」
「そうなんだ。そういうのは仲間内とかで共有してるの?だから生き残って?」
そういえば、生命体は全くと言っていいほど見かけていない。カオスィーと何処かに泳いで行った海月、その程度だ。同じ彼の同類もいない。とすると、彼は一体どういう境遇に置かれているのだろうか。
「あー、それはそうだね。まぁボクは、聡明だから。あと普通に強いよ〜」
「さっきも、食物連鎖の上位って……」
正直に言うと、霖から見て彼は『海月』だ。水族館に、よく揺蕩っている綺麗なゼリー状の生物だ。
「……え?」
ふと立ち止まる。あまりにも不自然な挙動に、カオスィーも驚いて振り向いた。
「どうかした?もしかして、まだどっか痛いの?」
もうこの現状に慣れているのだろうか。何か困惑でもすれば、彼の言葉に真摯に耳を傾けてしまう。
ただ、違うのだ。そんな予感が間近に迫っているのに、飲み込むのに時間がかかる。
__水族館って、何?
口から突いて出たその単語の意味を、霖は知らない。
海水を気にもしなくなった唇を開き、麻痺した喉から無理に発声する。無様な程に、震えていた。
「……ねぇ、カオスィー?」
「……何?」
彼は少し警戒したように聞き返す。
「すい、ぞくかんって……何だっけ?」
知っていたもの。生命の展示。海月も、鯨も、その他の魚類も甲殻類も閉じ込めている。淡い水の重なりは此処ほど重くなく、寧ろ薄い。いや、此処が重厚なのか?にしても何故、閉じ込めるなんて。
何故?どうして、何の目的でそんなこと。
「……やっぱり、キミは特殊で、特異なケースみたいだ」
混乱に陥って動悸が不安定になっていた霖を、たったその一言で牽制する。呆気からんとしつつも異質な喋り方が、きっとそうさせるのだろう。
「ボクは言えないよ。でもね、破片を回収した時には教えられることなら答えてあげる。あとは自分で考えなねぇ?」
ふと顔を上げて、その朱い……いや、紅色の宝石を凝視する。彼も、同族が閉じ込められていたはずなのに。
ただ同時に、彼女は思った。綺麗だな、と。
その瞬間も思ったのだ。暗いガラスケースの中、酷く緩慢に発光する天然の鉱石。うっとりとしていた。その姿に心を奪われて、放心状態でずぅっと見惚れていて。そんなものだから、だから……。
「あ、入り口あったよー。入るかい?」
「あ、うん」
ふと呼びかけられ、生返事を返してしまう。まぁどうせ入る以外に道もないし、このまま……と思ったところで、彼の台詞に違和感を感じ念を押す。
「ちょっと、待って?何で確認したの?」
反射的に触手を掴んで軽く引っ張ると、彼はうわ~と大して感情のこもっていない声を上げた。第一、彼は2m弱ある海月だ。一見軽そうに見えるも、存外軽く。それでいて、他の力が作用しても簡単にのせられたりしない。不思議だ。
「現実に引き戻してあげないと、すぐ死んじゃいそうだからね。かぁわいーオジョーサン?っひひ!」
愉快気に嗤いながら言われて、顔に熱が集まるのを実感する。
__なんて奴だ!
「もうっ!ごめんってば、わかったわよ。行こう」
「くっふふ……!はいはい、仰せのままにぃ」
「ねぇちょっと。それ、やめてくれない?」
「あれれぇ、お気に召しませんでしたかな~?」
「……触手、捥ぎ取って食べてやろうかと思ったわ」
それでもこんな状況下では、この海月でもいてくれるのは心強いかもしれない。
カオスィ―は初期設定では、クリオネの予定でした。バッカルコーンとか……素敵かなって。