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2.雨

今更ながら、この世界が叙事であることを認識した。

重なり過ぎた水は、僅かに淀んで見えた。それだけ、この世界は霖を深く呑み込んでいるのだろう。

「……」

あまりに果てのない空間に、霖は言葉を失う。上を見上げれば闇が、水平方向には鯨の傷だらけの壁が見え、その向こうもやはり闇。水圧音が壁と同時に迫り、その存在感を誇張していた。時々混じる細い声も、きっと鯨の繊細な歌声なのだろう。

息ができることなど、緩慢に感情を吐き出すような溜息がするりと抜け落ちたことなどどうでもいい。既に、どうでもいい。

ただ霖の関心は黒く光る、小さな真珠の数々にあった。上から下へ、縫うように落ちる。よくよく目を凝らしてみてみると、それは__……。

「__雨?」

ゆるやかに変形しながら沈み、表面の光を反射し、屈折する様は確かに水滴だ。しかし、水の中で水が相容れないことなどあるのだろうか?

なかったら、これほどまでに恐ろしい自然の形成を目に映すことはなかったはず。

濡れるような雨ではない。なにか、その緩徐さには重苦しさがあった。まるで天の怒りの涙のように、ぼたぼたと。

その全てが、深淵の代名詞であったことは言われずともだろう。

霖雨(りんう)。ボクらはそう呼んでいる。一体何処から来るのか、何時まで降り続けるのか……水でありながらボクらと相違しているのも、また一興かな」

「……霖雨?」

「キミと同じ霖。長い間降る雨のこ……あぁ、そういやまだキミのこと何にも聞いてないよね?」

ゆらん、と半透明の触手が揺らめく。彼はまるで宝石のように見えた。決して宝飾品ではなく、自然の荒波に揉まれ荒んだ原石。そのカラダ越しに海中に見惚れ、言葉を嚙み砕くと霖は一気に血の気が引くのを実感した。

へたへた、と力が抜ける。揺蕩う水がその細い体躯を受け止め、緩やかに海底の砂へ彼女を添えた。


『        』

『        』

『        』


「?…………わ、からな?」

空白だらけだ。捕まえようとしても、その瞬間脳内が有耶無耶になって霧消する。真っ黒。気持ちばかりが急いて焦燥に冷や汗が垂れようとも、それはただの雨粒だった。


__知らない。こんな世界、しらない……‼


涙が涙腺を膨らませ、今更になって視界が滲む。どうして、どうして鮮明に視界が開けているの。どうして声が聞き取れるの。どうして息をしているの。どうして私は押し潰されないの。

あぁ、あぁ、あぁ、こんなの知らない。なのにその根拠である記憶がないという矛盾が、少しづつ霖の存在証明を崩していく。鳩尾の少しばかり上が、彼女を深く抉ろうとする。

「うん、記憶ないんでしょ?知ってる。でもやっぱりかー、ちょっとばかし期待したんだけどなぁ。迷い子はみんな記憶喪失なんだよ、もー面白みの欠片も無いって言うか。その顔もいい加減見飽きたし」

「見飽きた……?わっ私以外にいるの⁉」

縋るように触手を掴む。カオスィ―はそれに抵抗もせず、ただピンクがかった朱色が、触手から上で淡く光っていた。

()()。全部海物に喰われたけどねぇ」

「え……」

嘘でしょう、と眉をゆがめる。

「で、でもあなた、さっきあの蟲を」

「食物連鎖だね。ボクは高度な生命体だから結構上位だけどさ、それって実力であって護衛に適用されるわけないでしょ?もしかして、ボクの事親切でお人好しな善性海月だと思ってたの?キミを無期限に守ると?」

言われて絶望する。そんなの当たり前だ。寧ろ、喰われないだけ良かったというもの。この言動から考えて、目の前の海月に霖の知る『倫理観』などあるわけもない。

今は目に映るだけの闇の深さが、いよいよ現実になろうとしていた。

「__守りはしないけどね。最低限のサポートならしてやるよ。名前を憶えている個体はキミが初のケースだ」

「本当⁉お、お願い、私をッ__」


どうすると?


咄嗟に口を噤む。ここから脱出するのだろうか。何処へ?まず、私の知る世界ってなんだったろう。

此処が居場所でなかったと、本当にそう言える?いや、そうか。そういうことを彼に聞けばいい。多少貪欲でないと、この世界では生きていけない気がする。

「……わからないけど、とりあえず困ってるの」

素直に告白すると、カオスィ―は一瞬黙って爆笑しだした。忙しく触手を振り回し、騒がしいほど笑い声をあげる。

「あーッはっはっはっは‼それはっ、そりゃそ、イッヒヒヒィ……!!困ってるだって、あーぁこれは傑作だ‼ッひひ……!」

呆然とする霖の手をすり抜け、カオスィ―はへたり込む彼女に目線を合わせる様に一段沈んだ。拍動を思わせる一度きりの発光に、霖は戦慄と心惹かれる美しさを綯交ぜにした視線を向ける。

「いいかい、ボクは善良なやつなんかじゃあない。でもね、そんなボクから見ても迷子ってのはとっっても魅力的なんだよ……わかる?」

その囁き声が、一層水圧音を際立たせる。

そう。その白い肌を引き裂けば、黒く染まった温かく濃い液体が手に入る。海の中だからと言って、水分を欲しないわけではない。今すぐにでも太ももか首筋にでも噛みついて、肉を引き裂きたい……生暖かい温度、鉄が香る刺激的な味、筋肉の筋に牙を立て咀嚼する度に潰れる弾力……。

__……素晴らしい‼

勝手に喉が広がる。心臓が高鳴り、想像するだけで頭が朦朧とした。

でも。

駄目だ。

一瞬の衝動に任せた快楽と悦よりも、もっと引き延ばして野生から逸れた結末を識りたいのだ。知能が非常に高い彼が求めるのは、極上の快楽よりも充足、満足感。読破の達成感の境地だ。そう自分に言い聞かせ、賢い彼の腹の虫は黙って身を引く。

「キミはこの先襲われ続けるよ。図体ばっかりが立派な塵屑が多いからね。この際言うけどさぁ、代償が大きいんだよ、迷子を食べるのは。”美味しすぎて壊れちゃうからね”。だから皆共食いしてるのがフツーかな~……高知的生命体は」

そう言うと、彼は僅かに浮き上がって目を見開くばかりの無表情な霖に手を差し伸べた。霖はふと我に返り、その手を掴む。

「ボクは稀代の知能の高さを誇る。キミ達『ニンゲン』やらがどれだけ賢いのか知らないけど、言っておくと()()()()()だからね」


綺麗に頭の中で混乱していたピースがはまった。

そうだ、異常なのはこの世界じゃない。私だ。さっき、彼も『異物』と言ったではないか……。

誰も共感してくれない。その孤独の広さが、まだ氷山の一角だったなんてはなから知っていても辛いだろう。未来が黒すぎて、この海底の闇に呑み込まれないかと緊張と不安に涙が溢れそうになる。

「し……死んでても、また死ぬのはいや……食べ、られるのも絶対に無理ッ……‼」

「ボクも嫌だよそんなの、何言ってんの?とりあえず何かあったらそこの石像に触れればいいから、指先でも触れれば襲われない」

「そうなの……?なんで?」

(クジラ)の加護だよ。その女神像は『鯨波(とき)の女神像』って言われてて、鯨の声が刻まれてる。鯨波って言うのは勝鬨(かちどき)……まぁ、勝った時の雄叫びとか、大勢が一斉に発する声とかのこと。この場合……そだな、数多の鯨の歌に彫られたものだから、この世界の各地に点在してるよ。一説では、鯨は生命力や海の神秘をも象徴する。海物は基本暗所にいるから、この石像はとてつもなく眩しいわけで下手に近寄れないし嫌悪感すら抱くし、光に照らされると痛いし……」

彼自身明らかに嫌そうな声音だ。そう思ったところでふと口を開き、先に答えを述べられる。

「ボクは生きた死者を食べたことがない。何故ならと言えばこの為さ。移動範囲が拡大されるし、まぁちょっとキモイけどいいやって感じ?」

「キモイの?こんなにあったかいのに……」

「大火傷だよ。キミさ、ボクがこの約5℃の世界でどんだけ生きたと思う?考えてみなよ、キミの生体時に100℃を押し付けるようなもんだよ。烙印押せちゃうよ」

正確には50℃足りないが、まぁ痛いことには痛い上計算上カオスィ―にはくっきり押せる。

「じゃあ、もしかしてこの石像……武器、とかには流石に無理かな?」

「無理無理。加護が潰えて終わるよ。武器が欲しいなら海物の牙とか爪とか、棘とかがおすすめだけどね!キミに扱えるかなぁ」

「使えるもん、病弱でもないし」

頬を膨らませてそう言い放つ彼女の細い四肢。カオスィ―の目が確かなら、とても運動に向いてはいない。寧ろその類と全く関わらなかったものだ。第一、白すぎる。しなやかな筋肉がついているわけでもなし、ただ根性はあるのがまた一驚か一興か。

まぁ、迷子に太刀打ちできるものでもないけど……ッふふ。


霖雨で視界が濁る。カオスィ―は、彼女の薄い褪せた茶髪と灰色の瞳に幽かな光を見た。

決して、熱くない光を。




突然ですが、【霖雨の降る海底】は【Fake and Liar】本編の派生として投稿させていただきました。



一応単体として連載するつもりですが、後にFake and Liar本編とも深く関わってくる予定です。簡単に言えばリンクしています。本編の内容をもっと深堀したい方・まだ本編をお読みでない方は、是非そちらもお読みください!

どちらを探求するにせよ、必ず至上の展開をお約束いたします。


絶対面白いので。


ー----------------------

大火傷やら石像の話で計算にどれだけ時間を費やしたことか。僕は理系が苦手なくせに、そっちに走るという何とも面倒な習性を持っているようですね。(大昔過去最低記録23点、数学)

文系は並々70、80なのに……。


今回もお読みいただき、ありがとうございました!


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