1.原初
悪魔の知る世界とリンクする、その時まで綴られる物語
「海に雨は降らない」
『私が海から目覚めるとき。
神話の音が鳴る。深く響く鯨の歌が波紋を広げ、海月が遺体のように揺蕩う。
見えているものが全てなら、私は此処で命を謳いましょう。アナタの魂にこの言葉が轟くように祈りましょう。
さながら海を淹れた石に、金属音を響かせるように。
オルゴールは眼の届くところへ、どうか雨の世界へ。
何を求めますか?』
「 」に刻まれていたらしい。
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沈めばいい。このまま反響する水中の音に呑まれて、私の知る全てが葬り去られれば。
あぁ、と優しい溜息を吐く。水中は冷たく、かじかむ感覚すらもう無かった。体が重い。鉛が体に詰められているようだ。剥がれ落ちる記憶を明晰に黒が埋め、やがて凍えるような苦しみが体を蝕む。
ごめんね……。せめて、代わってあげられれば。
気付けば、私は薄暗い廊下に立っていた。フローリングに白い壁、赤みがかった点滅する電球。眩暈がして視界が揺れる。
__……ずる。
聞こえた音に背筋を強張らせた。
次に聞こえたのは、固いモノが砕ける音と内臓が潰れる音。木が折れるような鋭い音。床が大きく揺れて、私は膝をつく。
咆哮と共に、崩れ落ちる空間から覗く水中。隙間から大きな青い瞳が見えた。くぐもった歌声、おりんのように潰える残響。
黒い化け物が、赤い光に照らされて不気味に微笑んだ。
来る、と思うより先に死んだと思った。
あぁ、早かったね。君はそんなに辛かったのか。殺したいほど辛かったのか。苦しめる程度じゃ物足りないほど死にたかったのは、きっとやるせない胸のわだかまりから来るのだろう。海水を体の中から全部、内臓ごと吐き出すような清々しい吐き気。
手を差し伸べる。
海水を
「ッ……」
息ができない。頭が詰まって中から圧迫される。私が剥がれる。黒い意識が今にもはち切れんばかりに膨張し、落ちた目玉の空洞からどろどろと溢れだした。
霖。
その声を最後に、私の意識は海底へ沈んでいった。
「Projectを始めよう。雁字搦めの呪いを、形骸化させるんだ」
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愛とは何か。
それは古くから問題提起として採用されてきた、偉大な問いかけである。しかし最早使い古され、さして重要視されなくなってきたと言っても過言ではない。
ボクにもわからない。
愛なんて不確定だ。愛なんて麻薬のようなものだ。愛なんて、この世を成立させる虚数のようなものだ。存在を偽ることで、この社会か世界に秩序をもたらしている。
ただそれだけの要素。主な社会構成の要素である人間すら、細胞と言う名の集合体、70%が水の取るに足らない存在。そいつらがふんぞり返って愛を騙る。なんてつまらない喜劇だろうか。
いや、ボクにとっては悲劇か。別に人間が嫌いなわけじゃない。一般がつまらないのだ。何の変哲もない日常に属する、何の変哲もない同じ顔をした群衆。
最早、吐き気を催す。
__だから、識りたい。
「真実の定義を!」
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海に雨は降らない。なら、どうして私の頬は濡れているのだろう。海に沈みながら夢に溺れていたとは。
でも、醒めるからこそ夢なのだ。このまま私は海に溺れる。それが現実だ。きっと、骸は海中の微生物によって綺麗に分解されるだろう。
私は融け、解け、境界線を崩し、やがてこの広く深い海と重なる。沈み、あるいは揺蕩い……。
目の前にちらつく闇。確かに瞼は開いているはずなのに、網膜すら理解できなくなっていた。息がある。胸も動く。触れてみれば、腕に健全な骨も入っている。もし此処が計り知れないほど深い海底なら、私などとっくにひしゃげて見るも無残な造形になっていたはずだ。
頭に浮かぶ疑問符。一旦考えるのをやめ、無重力の中で水に髪が引っ張られるのを覚えながら起き上がった。
その何もない世界で、朱色の灯りが彼女を見つけた。
彼女の目は空洞だった。目玉を喰われたのだろうか。虚ろでグロテスクなソコから、冷たい黒が蕩け出ていた。血ではない。彼女に入り込んだ、寄生型海物。
あぁ、哀れな。
まるで塵芥ほどの価値を決め込んだような目で彼女の白い顔を一瞥し、海月は酷薄に思う。
このままでは確実に死ぬ。体内から食われ、生き地獄に凄まじい悲鳴を上げることだろう。もし逃れても、他の海物に取り込まれる……。
そうだ。人間は、この深い世界でどれだけ生き残れるのだろう。そのパッと灯りが点いたような感覚が、契機だった。
海月は沈む。彼女の方へ。
「__何してるの、お嬢さん」
唐突な声に、私は驚いて振り返る。正体を期待していたわけではない。それでも、闇が何かを反射するわけも無く一切の手掛かりも得られなかった。
声からして16歳ほどか。いや、かなり高所から声が降って来る。何かに乗っている?それにしては無音が過ぎる。
返事をせずくるくると挙動不審に動いていると、また声がした。
「顔をなぞってごらん。面白いことがわかるよ」
「えっ……?」
とてつもない悪寒に襲われ、反射的に頬に触れる。指先を滑らせた直後、酷く気持ち悪い感触が指から肘を走った。
「ひっ⁉」
生温く、個体で、妙にぬめぬめしていた。流動形だった……まるで、潰した幼虫の塊に手を突っ込んだような。それを想像してしまい、少女は地面に伏して必死に口元を押える。
気持ち悪い、気持ち悪い……!喉にせり上がる熱い液体。肌は冷たく、その温度差に鳩尾が苦しくなった。
「寄生虫だね。大丈夫、顔を上げて?」
深く考えもせず、彼女は藁にも縋る思いですぐさまそれに従った。すると、その勢いで敏感な首筋に寄生虫が垂れ、それに背筋を凍らせる。這い上がって来る。
這い上がる這い上がる這い上がる這い上がる這い上がる這い上がる這い上がる這い上がる__……。
その思考を断絶するように、ぞろりとした冷たい感覚が額に触れた。まるでゼリーのようだ。悪く言えば、スライムのよう。
「取るよー、ちょっときっもちわるいけど我慢して」
「あ……?」
軽快な物言いとは反対に、頭蓋骨をものともせず侵入してくるものがあった。それは脳に直接触れ、そして体内を圧迫する重い塊を引きずりだそうとする。
不思議と痛みや苦しみはなく、寧ろ楽に感じた。脳を壊されるような感じは非常に不快だったが、何より少女を苛んでいた息苦しさが掻き消えていく。
そして、ずるんっと顔から何かが引き剥がされた。
「……い、やッ」
一瞬見えてしまった世界に、喉が委縮する。黒い、細長く蠢く蟲達の大きな塊を、宝石のような美しい海月が取り込んでいた。
何が何だかわからない。あまりにも現実味のない光景と、相容れない先入観に彼女は床に手をついて吐瀉物を撒き散らした。それを気にも留めず、朱い海月は満足そうにドクン、と一瞬発光する。その様は、まるで心臓のようだった。
「ふはっ!どしたの、オジョーサン?そんなに寄生虫が気味悪かった?かわいそーぉ、さっきまでこの蟲、キミの脳の隙間で蠢いてたんだよ?」
……あの、潰れた細長い幼虫みたいなモノが?私の、頭の中で……。
想像ばかりがたくましくなり、映像化された光景に空っぽの胃が疼いた。
「うっ……うぇッ」
また吐瀉すると、海月は愉快気に嗤う。
「くふっ……そうだねぇ、気味が悪いねぇ?コイツらに眼球まで食われて、そこから侵入されて。でも大丈夫。さっき僕が食べちゃったから、気味のナカミは清潔だよ」
海月から見て、少女は11歳かそこらに見えた。なんと幼気な姿。惨憺たるその展開に、彼女は小さく震えていた。
「で、キミ名前は?」
とりあえず話にならないので話題を変える。しかし、彼女は何にも答えなかった。憔悴しきったかのように背中を丸め、喘ぎながら地面に突っ伏している。
「……早く答えてくんない?ボク、もう行っちゃうよ」
「り、りん!……私、霖!!」
効果覿面だ。次からこの脅しでいこう。
「そっか。ボクはカオスィ―、オキクラゲの海物」
「か……かい、ぶつ?」
彼女はきょろきょろと辺りを見回す。あぁ、そういえば目がないんだった。そりゃ盲目だ。
「ついておいで、ほら手。目を治してあげよう」
「……治るの?い、痛くないけれ、ど」
「うん、治るよ」
そもそも彼女は生体ではない。勿論治るに決まっている。魂の修復なんて、原初の海では簡単な話だ。表層になるに連れ、回復も難しくなるが。
「ひっ……」
手を掴めば、途端細い声を上げる。カオスィーの視線に勘付くと、彼女はその触手……いや、手をしっかり握って謝った。
「ご、ごめん。その、見えないから」
「ふぅん……別にいいけど」
カオスィーとて気を悪くしたわけではない。確かに、急に触れられれば誰だって驚く。それだけ、彼女には正常な自己防衛機能がまだ生きているということだ。
私は手のひらを這う感触に、強張った視線を投げた。ひんやりとしていて気持ちがいいが、ぞろりと滑る様は形容しがたい気持ち悪さがあった。
そのまま、無言で歩き続ける。多分歩いている。見えないから確証も持てないし、第一カオスィーと名乗る海月……?がいる時点で私の知る世界か何かとは違うのだろう。
彼に触れていると、少しづつだが確実に酔うような気持ち悪さが消え失せて行った。爽やかな空気が喉を通り、内臓から体内へ満ちていく。歩いている内にすっかり活力を取り戻した霖は、少し彼の機嫌でも窺うようにこわごわと口を開いた。
「ね、ねぇ……」
「ん?何」
思った以上に軽い反応に、内心安堵して話しかける。先ほどまで委縮していた喉も、少しづつ解けていった。
「カイブツ……って、なに?化物、みたいな?」
同じくカイブツである彼に聞くのは少々心苦しいが、致し方あるまい。何が化物だという話でもあるが、不気味な方が悪い。
「海物、海の怪物のことだねー。ボクみたいに知能が高いヤツはともかく、寄生型は論外として大抵襲ってくる。しかも、やたらでかい。気を付けた方がいーよぉ、キミみたいにちぃっちゃい迷子なんか一瞬でパクン!だ」
「そ……それは嫌だな。ねぇ、迷子って……」
「迷子はキミのこと。この深い世界に迷い込んだ哀れな子供たちの事さ」
「へぇ……じゃぁ私、やっぱり此処の存在じゃないんだ……」
「立派な異物だね」
「い、言い方……!!」
唐突な物言いにそう怒ってみるが、彼を笑わせて終わった。何も人の不幸を、そう幸せそうに嚙み締めなくともよいではないか。
「あ。あったあった。はい、ここの石像に触れて?これ」
手首をぞろりと掴まれ、前に引っ張られる。よろめいた思わず目の前にあったらしいものに抱き着いてしまい、しかしそのじんわりとした温かさに心の裡がほぐされていった。
あぁ…暖かい。慈しみと愛に溢れた、酷く優しい温度。
そのままずっと抱き着いていたい。感触はお世辞にも柔らかいとは言えないが、十分な癒しだった。それは身体的にも同じだったようだ。
目が開いた。眼球の個体の感触が、改めて瞼に伝わる。そこからの情報伝達は早かった。
錆びのように細長いひし形の先端からかけて中心まで広がる青い宝石、灰色の石像。そのひし形を背負うようにしてかたどられた、優しい微笑みを浮かべる女性……いや、女神か。直感的に思った。
その背後に、彼女を取り囲み広がる深い青。どこから射すかもわからない、白い光が滲んで鮮やかなブルーを照らしている。上へ上へと水泡が控えめに輝く。
海は、海は……。あまりにも広く、深く、想像をはるかに凌駕し__宇宙のようだった。
音は海に融けて消え、無音の圧が歌声のようだった。その重く冷たい青を、微かに震わせる波があった。あまりにもゆっくりと、緩慢にクジラが揺蕩う。さながら海の墓標のように、その巨躯は動いた。重たく、優雅で、何の手にも負えないほど巨大な存在が海に溶けている。彼女たちのすぐ目の前でそれは起こっていた。
__美しい。
その歌は、何処までも水平に響き渡り、海を低く轟かせる。そのまま消え去る声に、海は深く広がって高く彼女たちを見下ろした。青い向こう側、黒いすぐ傍、淡く発光する小さな海物達、サンゴか藻類の影。
決して明るくはないその空間に、彼女の言葉は潰え心は奪われてしまった。溜息さえ落とすに惜しい、その世界は……。
残酷で、雄大で、厳しいだけの憂鬱な地獄だった。しかし、何よりも輝いていた。
深い海底、彼女の頬に、一滴水が零れ落ち__。
鯨は謳った。
__海底で目覚めた少女を照らす海月
「彷徨うんだ。記憶も目的も理由さえ無い絶望の中、辿り着くまで」