14 宿の夜
風呂から上がって、浴衣に着替える。
それが済んですぐ、記念に撮っておいた。宿での自分たち。いつもと違う格好で、どうせなら楽し気にした写真。いい思い出になるはず。嫌なことも思い出すかもしれない、でも、嬉しいこともきっと思い出す。
ある時、ちあちゃんが言った。
「ちょっとトイレ」
「じゃああたしも」
一緒に行った。
そしてその帰り。
「あっ」
広い談話用のスペースの横の廊下を通っている時に、ちあちゃんがそんな声を上げ、体勢を崩した。
「ちあちゃ……!」
あたしが手を伸ばしても届かない。
ちあちゃんが自分で自分をかばうことはギリギリできたようで、顔や頭を床に打つことはなかった。ちあちゃん自身の腕が下敷きではあるけど。
「大丈夫……? なんで――!」
「分からないけど、スリッパが勝手に――」
辺りを見た。仲居が遠くにいたり、談話スペースの椅子に男がひとりいたりしているけれど、どうも彼らではなさそう――今の出来事に驚いているみたいだった。
一応警察に連絡。誰かがSTEOP能力を使った可能性は記録された。
数分後、偽名で泊まっている男がいたのが分かったようで、影ながら顔認証が行なわれた…ということが知らされた。
調査の結果として、談話スペースのあの男が捕まった。
「ち、違う! 頼まれて……!」
不穏な言葉はその男のものだった。
「ちあちゃん……」
あたしはちあちゃんを抱き締めた。もしかしたら気を失っていたかもしれない。今のちあちゃんの温かさを、あたしは確かめた。
ちあちゃんはあたしをそっと抱き返した。
「私は無事だよ、気にしないで」
イケメンスマイルが愛おしい。
廊下の遠くに同級のボスがいるのが見えた。彼女は嘲笑うような顔をこちらに見せると、階段へ向かい、そして上がっていった。
――いい思い出を作りに来たのに……。
あたし達はしばらく抱き合っていた。
部屋へ戻った時、床に布団が敷かれているのが眼鏡越しに目に飛び込んできた。ふたつ並んでいる。
「色々あって……疲れちゃったね」
「うん……」
「もう、寝よっか」
「……うん」
あたしは簡単な返事ばかりをして、それから布団に入った。ちあちゃんもイン。ただし、ちあちゃんはあたしの布団に入って、隣の枕を引っ張ってきた。
今日みたいなことはもうないといい。帰ったら安心できるかも。あの同級のボスも、あたしの今の住所を知っているワケではなさそうだし――もちろん、ちあちゃんの住所も。ただ……今も安心したい――。
あたしがそう思った時、ちあちゃんが起き上がった。布団の中で、あたしに覆いかぶさるようにすると――。
「あんなこと忘れよう。私のことだけ考えて、私のことだけ触れて――」
あたしの胸が、どんどん高鳴っていった。
唇同士が触れ合った。
忘れよう、今はこんな大事な人が目の前にいるんだから――あたしがそう思った時、ちあちゃんの腰が、あたしの腰に密着した。
瞬間あたしの脳裏に浮かんだのは男の顔だった。ちあちゃんの顔じゃない。
嫌だと思った。こんなのじゃ嫌だと。
怖くなった。
「いやっ……! やっ……!」
つい、ちあちゃんを押しのけてしまった。
泣きたくなってしまう。「ふっ…」と声が出た。何の感情がどれだけ乗ったのかさえ自分ではよく分からない。吐息のような弱い声だった。
――ちあちゃんは悪くない。
ちあちゃんは悪くないのに、やっぱり浮かんでしまう――自分が幼少の時のあの男の行ない、女の行ない、こうして女になってからの……された行ない、今までの嫌なこと全部が――。
――今目の前にいるのは、ちあちゃんなのに。ちあちゃんだ――って思いたいのに。浮かぶ……っ!
鼻が、ズッという音を出した。
「忘れさせて」
あたしは必死に言葉にした。
「忘れたい。なんでもないって思わせて……!」
その時には身を起こしていたあたしを、ちあちゃんはそっと抱き締めて、そして何もしなかった。まるで、あたしが普通にしていられるのを待ってくれているみたいに。
言っておきながら怖がる自分自身を、あたしは、まだ、どうにもできなかった。
ちあちゃんも、あたしにどうしたらいいか、分からないみたいだった。
だから、せいぜいできたのは、元の位置に枕と布団を戻し、最初の並びで寝るということだけだったらしい……ちあちゃんがそうした。あたしは、身動きできなくて、何も忘れられなかった。
あたしはあの人とは違う。そのはず。なのに浮かぶ。忘れられない。早くどっか行って。