12 海と宿
その日は、海のデートの日だった。電車に乗って……そこで痴漢をされた。あたしは身動きできなくて――気付いたちあちゃんが、大きな声を上げた。
「痴漢しないでもらえますかねぇっ!」
ちあちゃんは相手の手首を掴んで放さなかった。
次の駅で痴漢を駅員に引き渡し、何を聞かれても、事件の詳細だけを話し、あたしの正体についてはちあちゃんも話さなかった。
それから目的の駅までまた乗った。
降りてすぐ――もう少しで海だとワクワクしながら――ポスターの横を通り掛かった。
そこにはあたしの姿があって、それを眺める男達の声がどうしても耳に入ってきた。
「うひょー! 揉みてー!」
「今日もオカズに困らない」
「押せばやれるんじゃね? 元男だろ?」
「本人も望んでるかもな」
「変態じゃねえか! はっはっは!」
呆れを通り越して吐き気しか湧かなかった。
「キモっ」
つい声に出してしまった。
大声で話したがる気持ちも分からない。女性の通行人も、こうしてここにいるのに。あたし達以外にもいるのに。
男達が急いで振り返ったその時、ちあちゃんがあたしの手を取って走り出した。
連れられて走って遠のいていく。
だいぶ離れた所まで行くと、息を整えながら、ちあちゃんが言った。
「わ……私が守るから、ね。追ってこなかったけど」
そう聞いて、胸元からあったまる気がして。「バレてなさそう」なんてちあちゃんが言った気がして、そのあとで。
「ありがとう、ナイト様?」
あたしが笑うと、この変装した顔を向けられたちあちゃんは、少しはにかんだようだった。
個別の更衣室を借り、着替えを済ませると、ふと気になった。
「それどうなってるの?」
「ギュッとしてる」
「そっか、ギュッとしてるんだ」
ちあちゃんの股間のことだけれど、まるで分からなかった。想像はできるけれど、その中でも、どの手法でSTEOPによる変化を隠しているのかが――。
ともかく、あたし達は女同士にしか見えない。実際、精神的には女同士だし。
「むーちゃんの水着も可愛い、似合い過ぎ」
こうまで言われると照れてしまう。
「ちあちゃんも可愛いよ。シンプルでセクシー。ビーチバレー選手みたい」
「背も高いしね」
仕事のためにも日焼け止めを塗った。自分でうまく塗れない部分は塗り合った。
パーカーなんかは羽織っている。
準備万端。
浜辺では貝殻探しをした。綺麗な貝殻があれば、アロマの瓶に入れたり、水槽に入れたりして飾りたい。――明るめのイイ色のものが沢山あった。
「ピンク発見!」
収穫物を海の水で洗い、持ってきた布袋に入れていく。
「レモン色っぽいのがあったよ」
「ありがとう、これもいい色だぁ~」
あたしのやりたい事はそんなもの。
ちあちゃんのやりたい事はと言うと。
「私ね、写真を撮りたいんだぁ」
事前に、ちあちゃんはそう言っていた。水着選びの時のことだった。
ちあちゃんは着替えてからずっと、インスタントミニカメラアルファというものをその手に持っている。
にひひと笑ってピースサインをしたあたしを撮ってもらったり、あたしからも、ちあちゃんを撮ったりした。貝殻を拾うあたしのことは、もう何度も撮ったらしい。抜かりがない。たまにハァとかフゥとか聞こえてくるけど、全力で楽しんでいるのなら何よりだ。
夕日も撮った。
ピンクの空。青とまじる。雲も染まる。波も染まる。音は心に響く。
ふたりで眺めた。肩を寄せて手をつないだ。
宿は取っていた。着替えて泊まりに行くと。
「ご予約の二名様――高赤様ですね?」
「はい」
と答えるちあちゃんの腕を取り、女将さんについて行く。
三乃花という部屋に通されると。
「七時半にお食事をお出ししますので」
そんなワケで、少しだけ自由時間。
「ここ、和菓子を手作りできるんでしょ! 今がチャンスだよ!」
あたしが手を引くと、ちあちゃんは口元を隠して「うぷふ」みたいな声を出してからついて来た。
和菓子作り体験部屋に入って少し経った時だった。部屋の奥から「あっ」という声が。
その方向を見ると――逸矢田睦月としての…男の時の小学校の同級生かもしれない人が、そこに居るのが分かった。
「石田むつきって、逸矢田睦月なんでしょ? 似てる……あんたがそうなんじゃない? 逸矢田? そうなんでしょ?」
言われてしまい、否定もしようがなかった。
肯くと。
「ふーん、じゃあ、その人なんだぁ……」
あたし自身の体が強張って震えるのが分かった。次に何を言われるのかと考えるだけで怖くなった。
「むーちゃん……?」
ちあちゃんに心配されたけど、どうすればいいか分からない。
「何? その人、彼女なの? 逸矢田がそうなってんのに? アタシがアンタらのことで凄い下品なウソついたら、どれくらい広まるかな、試してもいい?」
「え……」
「言われたくなかったら言うこと聞いてほしいんだけどさ、ひとつだけ」
悪夢だ。
この人のウソに、また振り回される? そう思うと、心も体も冷たくなっていく気がした。
そんな時だ、ちあちゃんの声が聞こえた。
「今の録音したんで! もう、すぐ、警察なんで!」
「くっ……! ふん!」
同級のボスだった女性は、鼻息を荒くすると、大きな足音を立てながら部屋を出ていった。
「むーちゃん……? むーちゃん!」
「うぅ……よかったぁ……!」
あたしは弱い。でも。ちあちゃんがいれば、あたしはここにいられる。
あたしも、あんな風にできればいいとは思うけど……まさか、こんな事が起こるなんて、思ってもいなかったよ。今は、ただ怖い。
……いつの間にか、ちあちゃんの胸に抱き寄せられていた。