9 比翼連理
ミレイ様の手紙には、これまで私たちに言えずにいた複雑な心情がさらに事細かに綴られていた。
『アカツキであなたたちの協力をすべくアカツキの民と向き合ったとき、私は聖女という存在の重さを痛感してしまいました。アカツキでもこれほどの影響力なのに、オルギリオンは聖女を失ったらどうなってしまうんだろうと。
いえ、本当は、私が心配なのはオルギリオンの民ではなくルーグ一人なのだということにもとっくに気づいていました。ルーグの気持ちにも、ずっと以前から気づいていました。でも私のことを思って何も言わずにいてくれるルーグの気持ちが、うれしくもあり悲しくもありました。
ヒミコの手紙を読んだとき、私は自分の中でこの世界に残りたい気持ちが大きくなっていることを認めざるを得ませんでした。あんなに元の世界に帰りたかったのに、いざ帰る手段が見つかりそうという段階になってやっぱり帰りたくないと思ってしまうなんて。そして、帰りたくないのはルーグと一緒にいたいからだという自分の気持ちも認めるしかなかったのです。でも怖かった。そんな一時の感情で自分の未来を決めてしまっていいのか、自問自答が続きました。
オルギリオンに帰ってきてから、悩んだ私はすべてをルーグに話すことにしました。帰りたくないと思っていること。ルーグと一緒にいたいこと。でも、やっぱり迷っていること。そのときルーグが何を言ったのかは、内緒です。でもルーグの言葉を聞いて一晩考え、残ることを決めました。決めたのは、私自身です。
北の魔女は、私の気持ちが変わりつつあることに気づいていたんだろうと思います。何もかもお見通しですね。でも元の世界に帰らないという選択が正しかったのかどうか、私にはまだわかりません。私が帰らないことで元の世界にいる家族や友達を悲しませることになるだろうし、みんなにはもう会えないんだと思うとやっぱり気持ちが揺れることもあります。それでも、私は私なりにこの世界で生きていこうと思います』
この手紙を読んで、ただただ号泣したのは言うまでもない。そんな私を見て、アレゼル様もちょっと涙ぐんでいたし。
「まあ、こうなるんじゃないかと思ってたところはあるんだが」
でも涙でぐしょぐしょになった私の顔を愛おしげにハンカチで拭きながら、アレゼル様が意外なことを言い出したから驚いた。
「アカツキにいる間、ミレイ様のオーラに色が差す瞬間が何度かあってな」
「は?」
「ほら、ミレイ様のオーラって、オーラとしての形を成してないって言っただろ? 白い靄みたいなものが見えるだけだって」
「は、はい」
「それが、うっすらではあるけど色づいて見える瞬間が何度かあったんだ。あの『ファンサ』のときと、ヒミコの手紙を読んだときと」
「それじゃあ……」
「もしかしたら、この世界に留まろうって気持ちが芽生えてるんじゃないかと思ってな」
元の世界に帰るにしても帰らないにしても、ミレイ様には言いようのない葛藤が残るだろう。ふとした瞬間に、後ろめたさや後悔が押し寄せる日が来るのかもしれない。めでたしめでたしと手放しで喜ぶことはできないのかもしれないけど、それでも私はこの世界を選んでくれたミレイ様に恥じない存在でありたいし、恥じない世界をつくっていきたい。そして、ミレイ様にも幸せになってほしいと心から思う。
「ミレイ様とルーグ様も、身分に関係なく子どもたちに等しく教育を施すという政策の実現を優先したいそうで、結婚式は来年以降になる予定だと」
「そうか」
「それと、オルギリオンは聖女の奇跡の力がディア様の不治の病を治癒せしめたと発表するつもりのようですよ」
「……なんだそれ」
アレゼル様がだいぶ呆れた顔をしている。
確かに今のままだと、本当は健康優良児のディア様が一生表舞台に戻ってこられない。一度「不治の病」設定にしてしまった手前、どうするつもりなのかと思っていたけどオルギリオン王家もうまいことを考えたものである。
ちなみに、この知らせについては後にディア様からも手紙が届くことになる。類まれなる驚異の変装術(そう、いわゆるコスプレ)を開発したディア様は『別に今のままでもよかったのに』と綴っていた。そりゃあね。静養のためと称して離宮に閉じ込められていたわけではなく、完璧な男装であちこち自由に出歩いていたんだもの。あの男装姿のディアン・エルガラド様も見られなくなるのかと思いきや、『あれはあれで便利だから』とやめる気はなさそうである。さすがの破天荒ぶりに、安心感すら抱いてしまう。
エフィル様といいミレイ様といい、来年は結婚ラッシュだわねとほくそ笑んだところで、もう一通手紙があったことを思い出した。
「アレゼル様」
「ん?」
「実はもう一通、手紙が届いているのですが」
「誰からだよ?」
「ケルヌスの外交担当補佐官、ランディア・デルン様からです」
私がそう言うと、アレゼル様は数回目をぱちぱちさせて、それから「まじか……!」と声を出さずに口だけを動かす。
ケルヌスの外交担当補佐官、ランディア・デルン伯爵。
彼は何を隠そう、文字通り『生まれ変わった』ガストル殿下なのである。
ケルヌスから帰ってきた私たちは、国王陛下にすぐさまリフラ様の言葉を伝えることにした。
その言葉を受けて、陛下はガストル殿下を目覚めさせると決めた。息を吹き返したガストル殿下は、陛下から事の次第を聞かされてもすんなりとは理解できなかったらしい。そりゃそうだ。死んだつもりがまだ生きていて、しかも『運命の乙女』とのつながりを断ち切ることができるんだけどどうする? なんていきなり言われても。情報の供給が過ぎるというものである。それでも、数日間一人で考え抜いたガストル殿下はリフラ様に会いに行くことを選んだ。
きっともう、この国に帰ってくることはない。出発の日、ガストル殿下はそう言った。
『すまない、兄上。いろいろと苦しめてしまっただろう?』
『そんなことは……。それよりいいのか? ヘルガに会わなくても』
『もう、いいんだ。俺は別の人生を生きると決めたのだから』
ガストル殿下は初めて王宮でお会いしたときと同じ、思いやりに満ちた柔和な笑みを見せた。アレゼル様や陛下と同じアメジストのその目には、慈愛の色が溢れている。
『お前たちにも辛い思いをさせたな』
『リフラ様にお会いしたあとはどうするのですか?』
『さあな。今のところはまだ決めていないが……。今度こそ、自分の運命の相手を見つける旅にでも出ようかな』
無邪気に笑いながら、ガストル殿下はひっそりと王宮を去った。
その後、リフラ様にお会いしたガストル殿下は約束通り『運命の乙女』とのつながりを断ち切ってもらったらしい。ある日王妃殿下が「何かがぶつりと切れる音がした」と話していたから、きっとそうなんだと思う。
それから、リフラ様は自身の『神懸かり的な力』でガストル殿下の容姿をまったくの別人のものに変化させたのだという。ガストル殿下は、公にはすでに亡くなったことになっている。そのままの姿では何かと差し障りがあるだろうという配慮からだった。リフラ様、気が利きすぎる。
ただ、運命の相手を探す旅に出るはずが、どういうわけかケルヌスにそのまま留まることになってしまったガストル殿下。国を開いたばかりのケルヌスのために、それまでの放浪人生で培った世界各国に関する知見や見識を生かしてみてはどうかという話が浮上したらしい。氏素性や正体は明かさずとも、アレゼル様とリフラ様の推薦と知ったグルウラング陛下は一も二もなく側近として採用したそうである。
そしてガストル殿下は、リフラ様から『ランディア・デルン』という新たな名前を、グルウラング陛下からは伯爵位を賜ることになった。
ちなみに『ランディア・デルン』とは、大昔の獣人の言葉で『秘密の放浪者』という意味なんだそう。リフラ様、ネーミングセンスありすぎる。
「で? ランディア様の手紙には何が書かれてあったんだ?」
執務室には誰もいないというのに、アレゼル様は子どもの内緒話のように声を潜める。
「そうですね、元気にしているということと、陛下やエフィル様にはとても良くしてもらってるということと……」
「レオファは?」
「レオファ様にはいまだに警戒されてるそうです」
「あいつ、ぽっと出のどこの馬の骨ともわからんやつが陛下に重用されやがって、とか言ってんじゃないか?」
「確実に言ってそうですね」
こらえきれずに、二人で声を上げて笑ってしまう。一番の側近としてグルウラング陛下のそばに付き従っていた自分を差し置いて、とか思いながら胡散くさい笑みで皮肉を並べてそう。
「まあ、大丈夫だろ。叔父上よりも相手の懐に入るのがうまいやつなんてそうそういないからな」
「はい。エフィル様たちの結婚式で会えるかもしれませんね」
「そうだな」
「楽しみだな」と言いながらもどことなく緊張した面持ちのアレゼル様は、私が手にしていた手紙の束をさっと抜き取るとテーブルの上に置いた。それから私を正面から抱き寄せて、徐に額と額をくっつける。
「それはそうと、ラエル」
「は、はい」
「体調とか、大丈夫か?」
「は?」
すぐ目の前にあるアメジストの瞳が、私の顔を不安そうに窺っている。最近、アレゼル様は妙に私の体調を気にしている。大丈夫かとか、なんとか。しょっちゅう聞かれる。
「大丈夫ですって」
「ほんとか?」
「何をそんなに心配しているのですか?」
「いや、ほら、最近仕事が溜まってるからさ。疲れてないかと」
「まあ、なかなか仕事が片づかないせいか、やたら眠いなあというのはありますけど」
なんだか怪しい。ちょっと問い詰めようかなと思ったら、アレゼル様がますます深刻そうな顔つきになる。
「……言っておきたいことがあるんだが」
「なんですか?」
「俺は、ラエルともうしばらくいちゃいちゃしていたい」
「は?」
なんだそれ。深刻そうな顔つきのくせに、そんなふしだらなことをなぜ突然言い出すのか。抗議しようとしたら、問答無用で口を塞がれてしまう。それも、何度も。
「こんなふうにな」
「……なんですかいきなり」
「でも、ラエルとの子どもがほしいと思う気持ちも当然ある」
「あ……」
「ただな」
アレゼル様は一瞬目を逸らし、それから言いにくそうにこめかみの辺りをぽりぽりと掻いた。
「俺にとっては、子どもが生まれようがこの先何があろうが、ラエルが一番大事なことに変わりはないんだが」
「は、はい」
「でも女性はそうでない場合も多いと聞いた。子どもが生まれたら、夫よりも子ども優先になるものだと」
「そう、なのですか?」
「もしもそうなってしまったとき、俺はラエルを愛するあまり、自分の子どもに嫉妬して疎ましく思ってしまうんじゃないかと……」
「は?」
「ラエルとの子どもだ、きっと可愛いに違いないとは思う。でもラエルを奪われたら、俺は子どもを愛せるのか正直自信がない……」
思いもよらない、予想の斜め上の発言が出た。そうか。そう来たか。そんなことを考えていたとは。アレゼル様は私の顔色をちらちらと窺いながら、呼吸すら憚られるほどの思い詰めた表情をしている。
「あの、アレゼル様」
「なんだ」
「私も子どもを産んだことがないので、なんと言っていいのかわからないのですが……」
「……だよな」
「でも、大丈夫じゃないかと」
「……なんでだよ」
「いえ、根拠があるわけではないのですが。でも私、子どもをひたすら可愛がるアレゼル様しか想像できません」
軽い調子でそう言うと、アレゼル様は「え」と言ったきり動かなくなる。
今は私だけに向けられている清々しいほどに狂気じみた愛情や執着は、いつか生まれてくる子どもにもそれなりの重さを伴ってしっかりと注がれるんじゃなかろうか。アレゼル様の愛情は、それほどまでに深くて重い。それはもう、断言できる。あれ。でもそういうの、子どもとしては鬱陶しいのかな? どうなんだろ。
「……もしも子どもが生まれても、たまには俺に独り占めさせてくれるか?」
「もちろんです」
「時々はラエルの全部が俺だけのものだって確認してもいいよな?」
「……アレゼル様ったら、そんなに心配しなくても」
ふふ、と少し可笑しくなって、上目遣いに目の前のアメジストの瞳を見つめてみる。アレゼル様はなぜか「うっ」と唸って、それから盛大なため息をついた。
「ラエルが可愛すぎてつらい」
「またそんなこと言って」
「どこまで可愛くなるんだよ。俺を殺す気かよ」
「死んじゃダメですよ」
「死なねえよ。まだまだラエルを愛し足りないのに」
美貌の王太子が柔らかく微笑みながら、いつも以上の色香を匂わせて甘くささやく。
ああ。とうの昔にわかりきっていたことだけれど。
あの日アレゼル様に出会った瞬間拉致されて、とんでもない王家の秘密を聞かされて、桁違いなスケールの愛情を告白されて、それからもずっと揺らぐことない重すぎる愛をささやかれ続けて。
そんな日常を、手放せるわけがない。
もう、逃げられない。
「だからって、服を脱がせようとするのはダメですよ。ここ執務室なんですから」
「ちっ……!」
最終話、少し長くなってしまいましたがこれで無事完結です。
最後の最後までおつきあいいただき、ありがとうございました!