8 後顧之憂
「ラエル様。お手紙が届いておりますが」
ケルヌスから帰ってきて、すでに数カ月がたった。
オルギリオンに行ったのは学園在学中だったからいいとして、卒業してまもなくアカツキを(新婚旅行も兼ねて)訪れ、ほとんど間を置かずにケルヌスへも赴く羽目になったせいで私もアレゼル様も王太子・王太子妃としての通常業務が溜まりに溜まっていた。最近はもっぱらお互いの執務室に籠り、仕事に追われている毎日。まったく楽しくない。いや、仕事はしないといけないんだけど。でもやってもやっても終わらない。はあ。
手紙の束を手にするアンナに目を遣ると、「そろそろ休憩なさってはいかがでしょう?」なんて気が利くことを言ってくれる。そのお腹も、だいぶ目立ってきた。アンナはもうじき産休に入ることになってるんだけれど、「ギリギリまでラエル様にお仕えしてからにしたい」と言い張ってオリバー様を悩ませている。というか、オリバー様は心配しすぎてアンナのストーカーみたいになっている。最近は「ラエル様からも言ってやってください」と泣き言を言いに来る始末。『フォルクレドの頭脳』ともてはやされていた時代はどこへやら。あまりに面白すぎるので完全に放置している。
「手紙? 誰から?」
「ケルヌスのエフィル様と外交担当の補佐官、それにオルギリオンの聖女ミレイ様からです」
「あらま」
ちょうどきりもいい。アンナがお茶の準備を終えるのも待ちきれず、逸る気持ちを抑えながら受け取った手紙の束に目を通す。ざっと読み終えたところで、タイミングよくドアをノックする音が。
「ラエル、一緒に休憩しないか?」
「アレゼル様」
休憩にかこつけて、私の顔を見にくる夫である。執務室が隣同士だから、ちょっとした外出の際とか用を足しに行った帰りとか、何かにつけて頻繁に顔を見にくるアレゼル様。ちゃんと仕事が進んでるんだろうかと思ってしまう。いや、あれは進んでないわね。すぐにハラルド様が迎えにくるもの。
そのハラルド様は、アレゼル様の後ろに控えながら「殿下、ほどほどにしてくださいね」なんてぼやいている。
「ハラルド様、エリカの具合はどうですか?」
「……良くないです」
そう答えるハラルド様の顔も、心なしか青白い。
「昨晩も口にしたものをほとんど嘔吐してしまって……。日中はまだ少し食べられるようなのですが、夜になるとどうにも……」
心配すぎて泣きそうになっている。そんなハラルド様を物珍しそうに眺めながら、アレゼル様はいつものようにソファに座って一息つく。
「悪阻というのは、みんなそうなるのか?」
「個人差があるようですよ。私はそれほどではありませんでしたし、私の母は逆に常に食べていないと具合が悪かったと言っていましたし」
「家に帰るとエリカがつらそうな顔で起き上がろうとするので、もう見ていられなくて……」
「時期がくれば自然に収まっていくとは思うのですが……。でも心配なことに変わりはありませんよね」
アンナがお茶の準備をしながら、ハラルド様に優しく声をかける。さすがは経験者、アンナの言葉にハラルド様も涙ぐんでいる。え、涙ぐんでるの? まじか。あの、いつもわりと無表情のハラルド様が。なんかすごい。
「ところでなんだ? それは」
「ああ、エフィル様とミレイ様からお手紙が届いたんですよ」
早く隣に座るよう急かしながら、私が手にしている手紙の束を興味深そうな目で追いかけるアレゼル様。何が書かれてあるのか気になるらしい。
「二人ともお元気なのか?」
「そのようです」
お茶の準備が終わったアンナはいつの間にか退室し、ハラルド様も廊下で待機することにしたのかするりと部屋を出ていった。いつもながら、二人の気遣いが完璧すぎて怖い。
二人きりになった途端、アレゼル様は私の腰にさっと腕を回して抱き寄せ、こめかみに軽くキスをしてから「なんて書いてあったんだ?」なんてささやく。もう、この人の色気ほんとやばい。アカツキでもケルヌスでも、なんやかんやであまりいちゃいちゃできなかったせいか帰ってきてから遠慮がない。さすがに他国では自重していた(つもり)らしく、過剰な執着やら行き過ぎた独占欲やらは表に出さず物騒な発言も控えていた(つもりの)アレゼル様は、帰国してからタガが外れたように人目を憚らない。言動がいちいち激甘すぎる日々である。
「エフィル様は、相変わらずグルウラング陛下の補佐役としてお忙しそうですよ」
「だろうな」
「今は鎖国解除後の自国の安定を優先させたいそうで、結婚式は来年以降を予定していると」
「まさかなあ、あの二人がな」
言いながら、ニヤニヤとした含み笑いを我慢できないアレゼル様。
北の魔女リフラ様の豪邸から帰ってきてすぐ、エフィル様はグルウラング陛下に謁見を申し入れた。謁見室で陛下に対峙したエフィル様はリフラ様から言われたことを正直に伝え、自分の決意を堂々と披露したうえで番とのつながりを断ち切る許可を得ようとしたのだという。
ところが。
「陛下がその、玉座から転がり落ちましてね」
「は?」
事の顛末を伝えに来たレオファ様は、主の情けない姿をそのまま口にした。だいぶ微妙な表情をしている。そりゃそうだ。威厳と貫禄しかない竜王陛下が、玉座から転がり落ちるなんて。
「正確には、思いあまって立ち上がったあと玉座の前の階段を転がり落ちて、跪くエフィルの前に跪いたのですが」
「え?」
「そしてエフィルの手を握りながら、そんなこと許すはずがないだろうと叫びましてね」
「ああ、やっぱり」
「いや、それがその、自己犠牲など認めないとか臣下の行く末を案じてとか、そういった主君としての高潔な理由からではなくてですね」
「ん?」
「陛下とエフィルは、実は番同士だったのです」
「はあ!?」
レオファ様はますます微妙な表情をする。私とアレゼル様は当然ぶっ飛んだ。番? 二人が? でもエフィル様はまったく気づいていなかったじゃない。何年もすぐそばに仕えていて、それでも番だと気づかないなんてことがあるのだろうか?
「獣人の番を感知する能力というのはですね、実は思春期以降に開花するものなんですよ」
「そうなのか?」
「思春期以降というと、13~14歳頃ということですか?」
「そうです。エフィルの場合、13年前の反乱未遂事件で慕っていた父を失ったことの影響が大きかったのだと思います。なんせ父の処刑を目の当たりにしていますし」
「そんな……」
「それもあって、陛下への忠誠心が必要以上に強固なものになってしまったんです。あのときエフィルはまだ8歳、番感知の能力は無論開花していませんでしたから」
「つまり、番かどうかを感知する能力が開花するより早く、臣下として陛下を支えたいという想いを定めてしまったがゆえに陛下が番だと気づけなかったということか?」
「はい。それに反乱未遂事件のショックから、番感知の能力が正常に発達しなかった可能性もあります。まあ、陛下に対するエフィルの盲目的な忠誠心を考えれば、番に対する本能的な執着の片鱗は覗かせていたのかなとも思いますが」
「陛下のほうはどうだったのですか? エフィル様が番だと気づいていたのですか?」
「もちろん気づいていたらしいです。ただ、陛下がエフィルを番だと認識してまもなく反乱未遂事件が起きてしまって、それどころではなくなってしまったそうです……」
「あー……」
「それに陛下とエフィルは少し年が離れていますから、エフィルが思春期を過ぎたら気づいてくれるだろうと思っていたそうです。でも一向に気づく気配がないばかりか臣下としての忠誠心のみを強調し、そのうえ番とのつながりを断ち切る許可を得たいなんて言い出すもんだから陛下も焦ってしまったようです」
ははは、と薄っぺらい笑い方をするレオファ様。なんだかんだ言って仲の良い兄妹だもの。畏敬の念を抱く主君と最愛の妹が番同士で結ばれる運命にあったなんて、これ以上ない喜びを感じる反面複雑な心境ではあるのだろう。うれしそうだけど、どこか寂しそうでもある。
グルウラング陛下に番宣言をされたエフィル様は驚きのあまりその場で卒倒してしまい、あろうことかしばらく寝込んでしまった。キャパオーバーになったのだろう。無理もない。エフィル様が床に臥せっている間もグルウラング陛下は公務の合間を縫って足繫く公爵邸に通い、根気強くエフィル様に向き合い続けた。
ちなみに、このときなぜか私とアレゼル様はまだケルヌスに滞在していた。というか臥せっているエフィル様の事情を知る者は少なく、また誰にでも話せることではなかったのもあって私がエフィル様の相談相手として頻繁に公爵邸を訪れる役割を担ってしまったのだ。一方のアレゼル様は、エフィル様が倒れたことでだいぶ使い物にならなくなっていたグルウラング陛下に対してエフィル様とどう向き合い、新たな関係をどう築いていくかということを事細かにアドバイスしていたらしい。自分の知識と経験をフル活用した結果といえる。
そうしてエフィル様は、次第にグルウラング陛下が自身の番であることを受け入れるようになっていった。絶対的な忠誠心が絶対的な恋愛感情へと花開き、二人は運命を共にすることを誓い合って婚約に至った。気持ちを確かめ合ってからの陛下の執着はすさまじく、婚約式の準備も大急ぎで進められた。私とアレゼル様はこの婚約の立役者として出席を強く求められ、結局ケルヌスには二カ月近く滞在することになってしまった(今までの滞在最高記録を軽く更新してしまった)。
ようやく帰国したときのオリバー様の顔は、今でも忘れられない(怖いなんてもんじゃなかった)。
「リフラ様は、二人が番だとわかっていてあんなことをおっしゃったのでしょうか?」
「だろうな。わかっていたからこそ、ちゃんと話して許可を得るように言ったんだろ。ラングがそれを良しとするわけないのもわかっていただろうし」
アレゼル様は、知らないうちにグルウラング陛下とめっちゃ仲良くなっていた。年は私たちのほうがずっと下なんだけど、陛下はアレゼル様に絶大な信頼を寄せるようになったらしい。アレゼル様、エフィル様の気持ちを振り向かせるための手練手管(?)を惜しみなく伝授したそうだから。愛称呼びを許されるほど、竜王陛下に懐かれちゃったようである。
「結婚式にはぜひにと書かれてありますよ」
「まあ、行かないわけにはいかないだろうな。時期にもよるだろうが」
後半の言葉がよく聞き取れなくて「え?」と聞き返した私に、アレゼル様は何食わぬ顔で「ミレイ様の手紙は?」と促す。
「あ、ミレイ様もお忙しいようですよ。孤児院の子どもたちに簡単な勉強を教えていた取り組みを国全体にも広めたい、とルーグ様が提案されたそうで。正式に新たな政策として打ち出す準備に奔走しているみたいです」
「そうか。聖女の力を遺憾なく発揮しているというところだな」
「はい」
ケルヌスにいる間、私はミレイ様に手紙を出していた。
それはヒミコからの手紙にあった『北の魔女』を見つけたことから始まって、直接お会いした北の魔女リフラ様の言葉をそのまま伝えるものだった。
そしてその返事を受け取ったのは、フォルクレドに帰ってきてすぐのこと。
手紙の中に『この世界に残ることにしました』という文字を見つけたときの私の気持ちがわかるだろうか? すぐさま二度三度と隅々まで読み返し、見間違いでないことを確認し、なんならアレゼル様にも見てもらいに走った私の驚きと喜びが。
ミレイ様が元の世界に帰ることを迷い始めたのは、実はもう随分と前のことだったらしい。ルーグ様がミレイ様を東方諸国に連れて行こうと駆けずり回っていた頃からだったというから、わからないものである。
『私のためにここまでしてくれる人が、今までいただろうかと考えてしまったのがきっかけでした。そして私が元の世界に帰ってしまったとき、この人はどうするんだろうという思いが頭をかすめました。それでも帰りたい気持ちを打ち消すことはできずにアカツキ訪問が決まり、そのときのルーグの誇らしげな顔を見たら本当は迷ってるなんて言えなかったのです』
次回が正真正銘、本編最終話です。
よければ最後までおつきあいください。