3 恋愛事情②
私がレオファ様の『番』?
そんなことあるわけない、と言おうとして口をつぐむ。
本当に、そんなことないと言えるのだろうか? 獣人の番と似たような結びつきである『運命の乙女』に関して言えば、一人の人間が複数の王族の『運命の乙女』だった事実がある。
私はアレゼル様の『運命の乙女』ではあるけれど、同時にレオファ様の番でもあるとしたら……?
おそるおそるレオファ様に視線を移すと、レオファ様は恥ずかしそうな困ったような、なんとも言えない微妙な顔をしていた。
「それは……わかりません」
「え?」
いつもは自信満々で、どちらかというと横柄な態度を見せるレオファ様がどういうわけか気まずそうに目を泳がせる。
「獣人の番というのは、出会った瞬間本能的にそうとわかるものなのでは?」
アスカ様が冷静に指摘すると、エフィル様がすかさず答える。
「本来はそういうものだと言われています。ですが、私自身も番に出会っていませんので正確なところはわかりません」
「獣人にとって、番というのは何者にも代え難い唯一無二の存在なのでしょう? 出会って結ばれれば至上の幸福を得られる存在だからこそ、一生をかけて探すものだとよく聞きますけれど」
「そうですね、かつてはそうだったと思います。鎖国前は、獣人が自身の番を探すために旅に出るというのは珍しいことではなかったので」
「今はそうでもないのかしら」
「もちろん、昔と変わらず番というものに憧れに近い感情を抱いて探し回る獣人もいます。でも、番なんてあやふやな存在をわざわざ求めようとはしない獣人も増えましたね。かくいう私もそうですし」
そしてエフィル様は、冷めた表情で持論を披露し始める。
「そもそも番なんているかいないかもわからない、いたとしてもどこにいるのかわからない不確定な存在なんですよ? 出会えばすぐにわかるとはいえ、どうやって探せばいいというのでしょう。名前も顔も年齢も住んでいるところもわからない、そんな相手に出会えるような千載一遇のチャンスなどそうそう巡ってはきませんよ」
エフィル様の言葉で、私は思わずアレゼル様の顔を盗み見てしまう。
フォルクレドの王族は、『運命の乙女』や『運命の申し子』を探すために早い段階で同じ年代の子息令嬢を集める場を設ける。でも相手が他国の人間や平民だったらその場で出会える可能性は限りなく低いし、国を挙げてそこまでしたとしても見つけられないことだって多い(アレゼル様が現にそうだった)。それを思えば、自分一人で番を探す途方もなさに気が遠くなる。
「鎖国以降、他国へ番探しの旅に出ることができなくなったのもあって、番に出会えない獣人が増えたんです。獣人同士が番なら見つかる確率も高いのですが、相手が人間だった場合は探しに行くことができませんからね。今回陛下が開国に踏み切ったのも、そうしたことへの不満の声に応える意味があるのです。ですから、今後はまた番探しの旅に出る者が増えるのだろうとは思います。ただ、国を閉じたままの状態で時代が進んできたせいか、番に対する考え方自体はかなり多様化しているんですよ。今やみんながみんな、番を求めているわけではないんです」
迷いのないエフィル様の淀みない説明に、ちょっとした感動すら覚える。なるほど。時代の移り変わりによって、獣人の世界の価値観もだいぶ様変わりしているらしい。
「それじゃあ、レオファのように自分の番かどうかわからない、なんてこともよくあるのかしら」
サララ様が手のひらを頬に当てて首を傾げると、エフィル様は肩をすくめてレオファ様を見上げた。
「いえ、先程もお話しした通り、番に出会えばすぐにわかるというのは変わりません。ただ、兄様の場合は……」
「俺だって困ってるんだよ」
珍しくしおらしい態度を見せながら、エフィル様の演説を聞いていたレオファ様が焦ったように口を開く。
「初めてラエル妃殿下にお会いしたとき、まるで雷が落ちたみたいに体が動かなくなったんですよ。動悸が激しくなって呼吸もままならなくなって、これはもう、妃殿下が俺の番なのだと確信したんです」
一気にまくしたてるレオファ様に、アレゼル様の表情から感情が滑り落ちる。かく言う私も、衝撃と動揺でぴくりとも動けない。
「ですが、その後お会いしても、本能的な衝動とか狂おしいほどの恋情とか激しい独占欲とか、そういうものを感じることはなくてですね」
……ん?
「お会いすれば動悸が激しくなったり多少息苦しくなったりはするのですが、逆に言うとそれだけという感じでして……。この状態でラエル妃殿下が番だと本当に言えるのかどうか、確信が持てないのです……」
「こういう話は獣人の間でもあまり聞かないので、一体なんなのだろうということになりまして」
「なので、もう少しラエル妃殿下とお近づきになっていろいろと話す機会があれば、何かわかることもあるのではと……。アカツキであれこれお願いして、何かと接点を持とうとしたのもそういう理由でして……」
レオファ様のローズクォーツの目が、そわそわと定まらない。これまであまり(というかほとんど)見られなかった光景である。
それにしても。
だったら早く説明してほしいんだけど。私もアレゼル様も、ちょっかい出されてるのかと勘違いしちゃったじゃない。まあ、本人も確信が持てなくて切羽詰まってたんだろうけど。それにしてもレオファ様、言葉が足りないというか誤解を生む表現が多すぎるのよ。あれじゃあ口説こうとしてると思われても仕方がないわよ。
「番って、獣人にとっては至福をもたらす存在なのでしょうけれど、すんなり出会えなかったときの弊害を考えるとちょっと複雑ね」
サララ様が突然独り言のように、しかも何やら物憂げに本音を漏らす。
「どれだけ探し求めたとしても、必ず出会える保証なんてないのでしょう?」
「それはそうです」
「探し始めた当初は期待に胸を膨らませていても、なかなか見つからないとなると落胆や失望のほうが大きくなっていくと思うのよ。いくら探しても見つからなければ、いずれは諦めないといけないわけだし。そのときの喪失感なんて見当もつかないわ」
「そうなんです」
「それに、おいそれと誰かを好きになることもできないじゃない。人を好きになるって自分の意志ではどうにもならないことなのに、番の存在がちらついて恋もできないのはなんだか不自由な気もするわね」
サララ様がそう言うと、エフィル様はなぜだかハッとした表情になった。そしてそのローズクォーツの目が哀愁を帯びて、一瞬だけ玉座に向けられる。
エフィル様の不審な動きに気を取られていた私は、自分の横で黙り込むアレゼル様がひどく沈んだ顔をしていることに気づかなかった。
◇◆◇◆◇
その夜。
戴冠式を終え、部屋に戻ってすぐにアレゼル様の様子がおかしいことに気がついた。ソファに座るアレゼル様はなんだかぼんやりとして、その視線は空中を漂っている。
「アレゼル様」
声をかけると、アメジストの目がゆっくりと私を捉えた。
「え?」
「どうか、なさったのですか?」
「ああ、うん」なんて曖昧な返事をしながら、アレゼル様の表情はどこか人工的でぎこちない。
そのまま、ため息をつくようにつぶやいた。
「……考えてしまってな」
「何をですか?」
「レオファの番が、もしもラエルだったらって」
「あ……」
アレゼル様の隣に座り、その顔を覗き込むと弱々しく目を伏せる。
「レオファの番がラエルだったら、俺はどうするべきかって考えてた」
その怯えた声。押しつぶされそうな不安に侵されている。
「もちろん、仮にそうだったとしてもラエルを譲る気なんかない。ラエルは俺の『運命の乙女』だ。誰かに渡すなんて考えたこともない。そんなの考えられない。想像しただけで気が狂いそうになる」
「アレゼル様……」
「でも、それならレオファはどうなる? 番だとわかっていながら、目の前にいながら、それでも手に入れることができないなんて、それでいいのか?」
目を伏せたまま言い募るアレゼル様が何を考えているのか、わからないはずがない。
私がレオファ様の番かもしれないという可能性を知ったその瞬間、アレゼル様の頭の中に浮かんだのは間違いなくガストル殿下だっただろう。私だってそうだ。対をなす相手が被るというあり得ない悲劇が、また起こるかもしれない。その恐怖に、囚われないはずがない。
「俺はレオファに、叔父上と同じ苦しみを与えることになるんじゃないかって……。それが恐ろしくて、でもどうしたらいいのかわからなくて……」
小刻みに震える拳に、そっと触れてみた。冷たくて、泣きそうになる。
「……父上も、こんな気持ちだったんだな」
アレゼル様は、ぽつりとそれだけ言った。泣き笑いのような顔をしている。その憂いを払いたい一心で、そっと頬に触れる。
「アレゼル様が悩む必要はありませんよ」
「……なんで」
「もしも私がレオファ様の番だったとしても、私はレオファ様を選びませんから」
あっさりと、あっけらかんと、しれっとした顔で事もなげにそう言うと、アレゼル様が唖然とした顔で驚いている。
「そもそも、以前からずっと思っていたのですが」
「あ? あ、ああ」
「『番』の概念って、こちら側の視点が欠けているとは思いませんか?」
「は?」
「選ばれるほうの選択権はどうなってるんだってことです。選ばれるほうにだって選ぶ権利がありますし、こっちの身にもなってみろとは思いませんか?」
「まあ、それはそうだが」
「番だからと一方的に求められても、その想いに応えられないことだってあると思うんですよ」
「でも俺だって、『運命の乙女』だとわかってすぐ半ば一方的にラエルを婚約者にしてしまったし……」
過去を思い出して、いきなりどんよりと死にそうな顔になるアレゼル様。消え入るような声に深い絶望の色が見える。
「でもアレゼル様はいつも、私の言葉を聞いてくれるじゃないですか」
「え?」
遠慮がちに微笑んでみせると、アレゼル様が不意打ちを食らったかのように頬を赤らめる。
「一方的に愛情を押しつけるわけではなく、私を見て、私の想いを聞いて、そのうえで自分の言葉も伝えてくれるでしょう? そういう双方向のやり取りこそが大切だし、そんなふうに接してくれるアレゼル様だからこそ私は好きになったんです。番だとか『運命の乙女』だとか、そういうことは抜きにして」
「そう、なのか?」
「そうですよ。聞きたくないでしょうから今まであまり言わないできましたけど、私のかつての婚約者は常に私を軽んじて、侮って、蔑ろにしてきたんです。納得のいかないことも多かったですけど、先方の家との事業提携なんかもあって我慢するしかないとずっと思ってて」
「ああ、あの『バ』のつく野郎か?」
「そうです。あの『バ』のつくクソ野郎です」
金髪碧眼で『バ』のつくクソ野郎。ちょっと懐かしさすらある。でもなんだか、顔もすでにうろ覚えである。12年以上も婚約していたのに。
「長い間あの人から嘲りや罵りの言葉を浴び続けたうえ侮蔑的な扱いをされてきたせいで、私は自分が軽んじられても仕方のない人間だとどこかで思うようになっていたんです。ああいうのは見えない毒です。いつの間にか、心と体が蝕まれてしまう」
「ラエル……」
「でもアレゼル様は、そんな私を救ってくれました。言われたことのないような褒め言葉とか、恥ずかしいくらいの愛情とか、ちょっと物騒な独占欲とか執着とか、そういうものを全部ひっくるめてあなたは私に惜しみなく与えてくれた。それがたとえ『運命の乙女』だからだとしても、私の心は救われたのです。そして、これからもずっとあなたと一緒にいたいと思いました」
アレゼル様が愛おしげに、自分の頬に添えられている私の手を握る。温もりが伝わって、少しほっとした。
「ですから私がレオファ様を選ぶことはありませんし、そのことにアレゼル様が罪悪感を抱かなくてもいいのです」
きっぱりと、言い切ってみせる。
恨むなら、私を恨めばいいのだ。アレゼル様がこれ以上の痛みを背負う必要などない。
アレゼル様は、小さくふっと笑った。
「……俺の奥さんはすごいな」
「そうですか?」
もしも私が本当に「すごい」のなら、それはあなたが私を愛してくれたからですよ。
そう言おうとしたけれど不意に唇が塞がれて、それ以上何も言うことができなかった。