3 事件勃発
人目も憚らないその挑発的な行動に、アレゼル様から一気に憎悪の思念が噴き出した。
一般的に考えれば、これはそれほどおかしい行動ではない。東方諸国ではこんな挨拶の仕方はしないそうだけど、レオファ様はさっきの会話だと他国出身のようだし。相手に対して敬愛や忠誠心を伝えるこの行為自体にさほど問題があるわけではない(やりすぎの感はあるけども)。
ただ、さっきのセリフといいわざとらしい雰囲気といい、はっきりと無遠慮な思惑が透けて見える。いかがわしい匂いすらする。もうこれは完全に他意があるとしか思えない。私を弄ぶのはともかく、アレゼル様の神経を逆撫でするような行動は見過ごせるわけがない。
噛みつかんばかりの勢いで口を開こうとしたアレゼル様を押しとどめ、私は答えた。
「レオファ様」
「はい、妃殿下」
「先ほど夫も申しました通り、私たちにはすでに先約があるのです。残念ですが」
「そうでしたか」
とか言いながら、その目は明らかに諦めていない。
「それと」
私はわざとらしくアレゼル様の腕に自分の腕を絡ませ、ダメ押しの必殺王太子妃モードを発動させた。
「私の体は頭の天辺から足の爪先、髪の毛の一本一本に至るまで余すところなく夫のものなのです。これから私に触れる際には、どうぞ夫の許可をお取りくださいませ」
そう言って、秘技王太子妃スマイル(アルカイックバージョン)を繰り出す。見たか。王太子妃なめんな。ちょっとイケメンだからってみんながみんなほいほいなびくと思うなよ。
レオファ様は多少面食らったような表情を見せたあと、爽快な敗北感を滲ませて苦笑いをした。
それから仰々しい動作で右足を引き、右手を胸に当てて「失礼いたしました」と恭しく頭を下げる。
私はスッと背筋を伸ばし、アレゼル様と共にさっさとその横を通り過ぎた。
窓の近くまで移動すると、アレゼル様がくつくつと忍び笑いを漏らす。
「俺の奥さんは頼もしいな」
「こんなところまで来て、あなたに嫌な思いをさせるなんて許せなかったんです」
人妻に、しかも他国の王太子妃に、面白半分で色目を使うとは何事か。私にちょっかいを出すなんて、アレゼル様を侮辱することと同義なのだ。思い知ったか。
なんて鼻息を荒くしていきりたっていたら。
「あの補佐官、なんだか俺と同じ匂いがするんだよな」
「同じ匂い? なんですかそれ」
「わからん。でも初めて会ったときから、妙に懐かしい気がするというか」
「懐かしい? オーラを見てそう思ったのですか?」
「そういうわけでもないんだが……。まあ、だからと言ってラエルに触れたり粉をかけたりするのは言語道断だけどな」
そう言ったアレゼル様は瞬きもせずに私を見つめたかと思うと、急に飢えたような目つきになって私の手を取った。
「ラエルは俺のものだからな」
まるで上書きするかのように、ゆっくりと手の甲に口づける。やけに甘ったるいその仕草に、心臓の奥が強烈な一撃を食らったその瞬間。
「きゃーーーー!」
突然女性の悲鳴と共に、ガシャンと何かが壊れる音とドサッと倒れる音が響く。
振り返ると、さっきまで一緒に談笑していたタカラ様が床に倒れていた。悲鳴は近くにいた女性のものらしい。タカラ様のそばには、手にしていたワイングラスが砕け散っている。
「タカラ!」
「タカラ様!」
複数の人が駆け寄っていく。一番近くにいたレオファ様をはじめ、ほかの補佐官やサララ様までもが慌てた様子でタカラ様のそばにしゃがみ込む。
「タカラ、しっかりして!」
「ワインを飲んだら突然倒れられたのです」
「ワイン?」
「どういうことだ?」
「それよりタカラを!」
「いや、無理に動かさない方がいい」
たくさんの声が飛び交い、バタバタと足音が行き交い、華やかなパーティーは一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化す。
大半の人たちが一定の距離を置いてタカラ様とそのまわりを取り囲むサララ様たちを不安げに見つめる中、待機していた老年の医者が従者と共にホール内に入ってくる。万が一のために医者を待機させていると言われてはいたけど、本当に出番があるとは。
医者は慣れた様子でタカラ様を診察し始めた。脈を測ったり、まぶたをこじ開けて覗いたり、口元に鼻先や耳を近づけたりしたあと、真剣な表情でサララ様に目を向ける。
「ワインに毒が入っていたようです。ただ、脈ははっきりしていますし解毒剤もすぐに準備できますので大事には至らないかと」
その言葉に、サララ様は心からほっとしたのか大きなため息をつく。緊迫した空気も少しだけほぐれ、まわりにいたほかの補佐官たちの表情にも安堵の色が見える。
サララ様はすぐにタカラ様を運ばせ、医者もそのあとに続いて退場した。ホールには衝撃と動揺、そして混乱と虚脱感が残される。
「みなさま申し訳ございません。せっかくの機会ではありますが、今日のところはここで閉会とさせていただきます。詳細がわかり次第、追ってご連絡いたします」
サララ様の震える切羽詰まった声が、事態の深刻さを物語っていた。
◇◆◇◆◇
「大丈夫でしょうか」
離れの部屋に戻っても、なんとなく落ち着かない。あんなことがあった直後である。穏やかな気持ちでいられるわけがない。
「医者が大丈夫と言ってたからな。命にかかわることはないだろうが」
「お医者様に待機してもらっていたのは不幸中の幸いでしたね」
「そうだな」
「あのお医者様、解毒剤もすぐに準備できると話してましたよね?」
「診察してみて何の毒を飲んだのかわかったんだろ」
すごいなそれ。
王太子妃になってすぐ、あの『王宮の宝物庫の奥』に保管されていた『多種多様の毒』を目の当たりにした日を思い出して身震いしてしまう。
王家が保管する毒の数と量、本当に半端なかった。どこでどうやって集めてきたんだか。毒を使う場面なんてないほうがいいに決まってるけど、もしものときのために用途と用法、用量は正しく覚えておく必要があるのだよと優しく諭す国王陛下が微妙に怖かった。ほんと、フォルクレド王家の闇深さを垣間見た瞬間だったわ(というかどこの王家もそれなりに闇深さを抱えてるよな、などと思ったりもする)。
「アレゼル様、お茶でも用意してもらいましょうか?」
気分を変えようと提案すると、アレゼル様も「そうだな」と頷く。部屋の外にいつも控えている衛兵か侍女に声をかけようとドアを開けてみると、あいにく廊下には誰もいない。
タカラ様のことで御所中が右往左往し、上を下への大騒ぎなのだろう。きっとこっちにまで手が回らないに違いない。
「ちょっと、声をかけてきます」
「一人で大丈夫か?」
「はい」
なんて深く考えることなく廊下に出て、一人で出歩くのは初めてだったと気づいたときにはもう遅い。いつもはアレゼル様か御所の侍女が一緒だったから、案の定簡単に迷ってしまうという。
誰も見つからないし完璧に迷子だし、これはまずいと歩みを止めたそのときだった。唐突に耳に届く、ヒソヒソ声。
「それって補佐官の誰かの仕業なんじゃないの?」
「やっぱりそうよね。イズミ様あたりじゃない?」
「あり得る。あの人、目つき悪いけど性格も結構えぐいし」
「アスカ様にお熱なのがバレバレなのよ」
「そうそう。アスカ様、タカラ様には殊更優しいものね」
「ていうか、単純に執政官の後継者争いなんじゃないの?」
「あ、タカラ様が最有力って言われてるから?」
「そうよ。アスカ様、次の執政官の座を虎視眈々と狙ってるって噂だもの」
「うわー、えげつなっ」
二~三人の下女がヒソヒソ声からだんだんボリュームアップして、下世話な話に興じている。私がすぐそばで聞き耳を立てていることにも気づかないほど。
しかしこれは。それこそ結構えげつない話を聞いてしまったような。
どうにか奇跡的に部屋へと戻ってこれた私の顔を見て、アレゼル様が怪訝な表情をした。
「どうした?」
「誰もいなくて……」
「まあ、仕方ないさ。それどころじゃないんだろ」
「それと、ものすごくやばい話を小耳に挟んでしまいました」
「ものすごくやばい話?」
飛び込むようにアレゼル様の隣に座った私は、さっきの下女たちの話を一息でそのまま伝えてみる。
「なんだそれ」
アレゼル様の声は、心なしか棘を含んでいた。
「執政官の後継者争い?」
「はい。それで補佐官の誰かがタカラ様に毒を盛ったのでは、と」
「単なる噂話じゃないのか?」
もちろん、私だって下女たちの俗っぽい噂話をそのまま信じるつもりはない。ないけれど、火のないところに煙は立たないというじゃない。
どこの王家も人知れず闇深さを抱えている。王も爵位もない、国民に投票で選ばれた代表が統治するこの国にだって、底知れぬ闇が潜んでいてもおかしくはない。
「単なる噂かもしれませんが、それで片づけてしまうのもどうかと……」
「まあ、確かにな」
「それに、あの状況だと誰かがタカラ様のワインに毒を盛ったということにはなると思うんです」
「だよな。俺たちと話してる間、タカラ様はずっとワイングラスを手に持ってたよな?」
「はい。口をつけることはありませんでしたが」
「持ってるワイングラスに直接毒を入れるのはさすがに無理だろ」
「じゃあ、持つ前?」
「でもレオファもワイン飲んでたよな?」
あれ。いつの間にか呼び捨てである。まあいいや。この際無視しよう。
「飲んでました」
「てことは、毒はワインに入ってたわけじゃなく、グラスのほうに何かしら細工されてたってことになるよな」
「でも、あのワイングラスはテーブルの上にたくさん置かれていたものの一つですよ。レオファ様もそこから手に取っていましたし」
「じゃあ、タカラ様が手にしたグラスにだけ毒が細工されてたってことか?」
「そうかもしれません。でもどうやって?」
そこで一旦アレゼル様は視線を落とし、しばらく何か考え込む。
「わからん。……いや、もしかしたら、あれはタカラ様を狙ったんじゃないのかもしれないな」
「誰が取るかわからないグラスだからですか?」
「ああ。誰でもいいからってこともあり得るだろ」
ううむ。それは無差別殺人を目論んだことになるのでは? 得体の知れない恐ろしさがひたひたと近づいてくるようで、身の毛がよだつ思いがする。
「とにかく今は、タカラ様の無事を祈るしかないですね」
そうして、怒涛の夜は更けていった。
◇◆◇◆◇
翌日の朝。
「アレゼル殿下、ラエル妃殿下、よろしいでしょうか」
朝食を終えた私たちの元に現れたのは、あのレオファ様だった。はからずも仏頂面になってしまうのは仕方がない。昨日の因縁の続きか? とでも言いたくなってしまう。
「昨夜のパーティーでのことについてご説明をと思いまして」
昨日あんなことがあったせいなのか、今朝はまともな補佐官らしく神妙な顔つきをしている。よくわかんない人だなと思いつつもソファに座るよう勧め、私たちも向かい側に座った。
「タカラは意識を取り戻しました。毒が致死量ではなかったらしく、医師の解毒剤も効いたようです」
「それはよかったな」
「ありがとうございます。お二人には、遠路はるばるこの国までおいでくださいましたのにこのようなことになってしまい、大変申し訳ございません」
「そんなことは気にしなくていい。それよりなんでこんなことに」
「現在調査中です。タカラも意識は回復しましたが、まだ話を聞けるような状態ではなく」
「それはそうだろうな」
「……あの」
二人がお互いの渋い顔を見合わせた、隙を突く。
「昨日、ちょっと聞き捨てならない話を耳にしまして」
そうして私は、二人の様子を注意深く窺いながら昨日の下女たちの話をふんわりとオブラートに包んで説明した。そのまま話してしまうのは、さすがに無神経かなと思ったりして。
「もちろん、この話を鵜呑みにする気はありません。ただ、下々の者の下世話な話というものは時に物事の本質を捉えていることがあります。もとより今回は、人の命にかかわる重大事。これを単なる噂話だと簡単に切り捨ててしまっていいのでしょうか」
きっぱりと言い放つ。レオファ様の整った顔立ちを見据えると、ローズクォーツの瞳が妖しく光る。
「……妃殿下は」
観念したような顔は、むしろ歓喜を宿していた。
「思っていた以上に聡明で思慮深い方のようです。わかりました。俺の知ってることをお話ししましょう」