5 周章狼狽(アレゼル)
夜会で初めて聖女を見たとき、俺は我が目を疑った。
なんだあれは。あのオーラは。あれは、まさか――――
ルーグにエスコートされる聖女がその身に纏うオーラに、幼少の頃父上に教えてもらった話を思い出す。フォルクレドの王族は、生まれながらにして人のオーラが見えてしまう。それがどんなもので何を意味するのか、そしてどう扱うべきなのか、国王であり父親でもあるその人から直接教示を受けるのがしきたりとなっている。最後に『運命の乙女』の存在についても説明され、己を律することの必要性をこれでもかというくらいしつこく説かれる。
あのときの父上の話が本当なら、聖女をこのままにしてはおけない。彼女はルーグと婚約する可能性もあるのだ。友人の身にこれから起こり得る悲劇を、黙って見過ごすことなんかできない。
聖女のオーラが気になって、正直夜会なんかどうでもよかった。それでなくてもたくさんの男たちが気品あふれるラエルの美しさに目を奪われていて、気が気じゃなかったのに。早くこの場から抜け出して、ラエルを独り占めしたい。でも聖女のオーラのことも気にかかる。聖女は早々に退席したようだが、だからこそもう一度あのオーラを直接確かめなくてはと思った。
翌日、聖女に関してルーグに話を聞こうと思っていた俺は、運よく朝からそのルーグに呼び出された。
「実は、お前に相談があるんだよ」
二つ年上のルーグはディアドラのすぐ上の兄で、お調子者だが面倒見がいい。俺がディアドラと婚約してオルギリオンに留学したとき、真っ先に声を掛けてくれたのもルーグだった。それ以来の仲なのだが、社交的でときに軽薄さの目立つルーグが『相談』なんて言葉を使うのを初めて聞いた。
「珍しいな。なんだよ?」
「聖女のことだ」
「聖女?」
「俺と聖女との間に婚約の話が出てるのは知ってるよな?」
「ああ」
「あの聖女、実はなかなか厄介でさ」
困り果てた顔をするルーグの話によると。
聖女ミレイは三ヵ月程前、王都の孤児院の前で倒れているのを発見された。見慣れない衣装を着ていて、最初は聞いたこともない言葉を話していたらしい。でも孤児院を運営しているのがフレア神殿でもあったから、これは伝説の聖女なのではと大騒ぎになってすぐに認定されたそうだ。
その後まもなく、聖女は王宮に移り住むことになった。オルギリオンではそれが慣例らしい。その頃にはこの国の言葉も難なく使えるようになっていたようだが、一日中部屋に閉じこもっていることが多く、侍女の話によれば暗い表情でほぼ口も利かないのだという。
この国では、聖女が降臨すると王族と婚約するのもまた慣例らしい。ただそうなると、相手はルーグしかいない。だから聖女の世話役も兼ねて頻繁に聖女の部屋に顔を出しているのだが、警戒心が強いのか一向に打ち解ける気配がないのだという。愛想が良くて、誰とでもすぐ仲良くなれる天然人たらしがそこまで苦戦するとは。
「そんなに手強いのか?」
「手強いなんてもんじゃない。まともに目も合わせてくれないんだ」
「なんで」
「知らないよ」
まったく心を開かない頑なな聖女。あの異常なオーラと何か関係があるのだろうか?
ルーグに連れられて、俺も聖女の部屋を訪れた。聖女は文机に座り、無言で窓の外を見ていた。毎日のように会っているルーグの姿を目にしても、初対面の俺に気づいても、顔色一つ変えない聖女。そしてそのオーラは、やっぱり夜会のときに見たものと同じだった。間違いない。これは、多分まずい。
しばらく聖女の部屋で歓談を試みたが、はっきり言って梨の礫だった。聖女は俺たちの話を聞いているのかいないのか、興味なさげな様子で時折窓の外に目を向ける。辛うじて食事は摂っているようだが、青白い顔に生気は感じられない。やっぱり相当まずい気がする。
でも何をやってもめぼしい反応はなく、俺にとってはほとんど地獄のような時間だった。いい加減もう帰りたい。今日はラエルとオデルの街へ出掛ける予定だったってのに。でも、このままにもしておけない。葛藤に苛まれ、ほとほと疲れ切った俺が聖女の部屋を出たときには夕方をとっくに過ぎていた。ちょっと顔を出してすぐ戻るつもりが、こんな時間になってしまった。ラエルに何て言って謝るか、それを考えるとひどく憂鬱になる。
本当はあの夜会のあと、そしてルーグの話を聞いたあとにもラエルにすべてを話そうかと思ったのだ。でもルーグに「このことはまだ誰にも言わないでくれないか?」と念を押されてしまったし、それに、何よりも。
ラエルに余計な負担を掛けたくなかった。厄介事に巻き込んで、また傷つけるようなことは絶対に避けたかった。二年前の悲劇は、いまだ俺たちの間に暗い影を落とす。俺たちが出会ってしまったからこそ失った命があるという事実に、ラエルを巻き込んでしまった。ラエルの人生に本来不要だった罪悪感を、俺は与えてしまったのだ。俺にさえ会わなければ、ラエルが冷たくて重い十字架を背負うこともなかったのに。
だから、言えなかった。
翌日もルーグに呼び出された俺は、聖女に会って話すより聖女という存在についてきちんと調べた方がいいのではと提案した。昨日のような地獄の時間は御免被りたかった。だから二人で王宮の図書館に籠り、夢中であれこれ調べているといきなり声を掛けられる。
「二人とも、こんなところで何してるんだ?」
それはディアドラの二番目の兄、キアン殿下だった。キアンはルーグよりさらに三つ年上、俺からすれば五つも年上である。だがオルギリオンの兄妹は全員が気さくで、友好的で、人懐っこい。しかもキアンは器用で、まわりをよく見ていて、何でもそつなくこなす逸材なのにそれをひけらかすことはないという人格者でもある。
俺たちがこれまでに降臨した聖女のことや聖女そのものについて調べていると話すと、聖女について詳しく書かれてある本を幾つか教えてくれた。そして、そのついでとでも言うように軽い口調で、
「そういえばベレンシア公爵のとこのグレアムって覚えてるか?」
「忘れるわけないでしょう」
「ラエル妃殿下とも面識があるのか?」
「は? あるわけないですよ」
「でも、さっき一緒に歩いてたぞ。シロナ・ガーデンに向かってるようだったが」
その言葉を聞いて、俺は開いていた本を危うく投げつけそうになった。目の前にいた二人の兄弟王子のことなんか完全に頭から消え失せた。胸の芯が焼けつくような仄暗い衝動に駆られて、気づいたらラエルの部屋に突撃していた。
ラエルは部屋に戻ってきていた。グレアムに近づくなと話したら、何故かとても冷ややかな目で見返された。見たこともない目の色だった。いつものチョコレート色なのに、温度も輝きもない。
そのまま体調不良を理由に、会うのを拒絶されている。
具合が悪いなら医者を呼ぶと言ったら、侍女のアンナに「医者に見せたところで治るものではありませんので」と冷たく言い返された。何を言ってもまったく相手にしてもらえない。体調が悪いんじゃないのか? 医者に見せても治らないって何だ? 気が気じゃないのに会ってもらえない。話をしたいのに顔も見せてくれない。気になって、会いたくて、触れたくて、じりじりとした焦燥感に呼吸さえままならず、爆発しそうな独占欲を抑え込みながらじっとしていることもできずに部屋の中をただうろうろしながらいよいよ限界になってとにかくもう一度だけ声を掛けようと思ったときだった。
「アレゼル殿下」
ノックの音がして、アンナの平坦な声が耳に届く。
ラエルに何かあったのかとすぐさまドアを開けると、無表情のアンナが立っていた。
「どうした?」
「これをお預かりしてきました」
差し出されたのは一通の封筒。糊付けはされていない。
「ラエルからか?」
「いえ。見ていただければわかるかと」
ラエルからの手紙じゃないのか? じゃあ一体誰が?
急いで便箋を取り出し広げると。
『放置するならもらいます ディアドラ』
◇◆◇◆◇
一体、何がどうなってやがるんだ?
俺は居ても立っても居られず、すぐさまラエルを迎えに行く馬車に飛び乗っていた。
いや俺だって、最初は怯んだ。一瞬悩んだ。『放置』と言われて否定はできない。そんなつもりはなかったなんて、言い訳にもならないことはわかってる。
でも、なんでそこにディアドラが出てくるんだ? あいつ、また西の離宮から出てきてフラフラした挙句、ラエルを掻っ攫っていったのか? 俺からラエルを奪うなんてどういうつもりなんだ。ラエルが目の届く場所にいないなんて、気が狂いそうだ。
とにかくラエルを迎えに行こう。大体『もらう』ってなんだ。ラエルはモノじゃないんだ。もらう、もらわないじゃないだろう。ラエルの意志で帰ってきてもらわなければ。そのためには、やっぱりきちんとすべてを明かす必要がある。最初からそうすればよかったんだ。そしてラエルの協力を仰ぐべきだった。聡明で、冷静で、度胸も度量もあるラエルだったら俺たちが思いつかないような突破口を探してくれたかもしれない。あらゆる憂いからラエルを遠ざけてやりたいなんて尊大な願望ともう二度と厄介ごとに巻き込みたくないというくだらない自責感のせいで、ラエルに見向きもされなくなったら本末転倒もいいところだ。
ディアドラがラエルを連れ去ったであろう西の離宮の場所をルーグに尋ねると、
「ディアドラなら、西の離宮にはいないと思うが?」
「は? じゃあどこにいるんだよ」
「リストのところだろ」
リスト・アングラスはディアドラの護衛騎士であり、恋人でもある。厳つい強面の男だが律儀で情に厚く、わがまま放題のディアドラをとても大切にしている。破天荒で常識外れのディアドラを何だかんだ言ってうまくコントロールできるのは、リストくらいしかいないだろう。
そのリストは現アングラス伯爵の弟だったはず。ということは、王都のアングラス伯爵邸にいるに違いない(現アングラス伯爵もディアドラが病気ではないと知っている数少ない人物である)。
ていうか、ディアドラはほんとに何をやってるんだ。そして、西の離宮にいないことを知っているのに気にも留めないルーグも何なんだ。王族なんだしもうちょっと危機感を持つべきだろう。オルギリオン、ほんとに大丈夫なのか?
なんてことを考えていたら、馬車はアングラス伯爵邸の前で止まった。ドアが開くまでの時間も煩わしく、急いで降りて玄関に向かうと待ち構えていたのはリストだった。
てっきり、ディアドラが玄関で仁王立ちでもしてるんじゃないかと思っていたから肩透かしを食らう。
「アレゼル殿下、お久しゅう――」
「ラエルは!?」
俺の剣幕にも涼しい顔をして、リストは答える。
「応接室にてお待ちです」
そのまますんなりと応接室に通され、果たして中にいたのは。
「あら、アレゼル。来るのが早すぎるのよ」
何故か騎士団の隊服を着た男装の王女と、俺の愛しい人だった。
次回以降はラエル視点に戻ります。