4 焦心苦慮
「はあ……」
シロナ・ガーデンに行く気力なんかすっかり消え失せて、部屋に戻ってきてしまった。
ベレンシア公爵令息の話を一緒に聞いていたアンナが、心配そうな顔をしながらお茶の準備をしている。
『アレゼル殿下は昨日も今日も、聖女に会っておられるのですよ』
あのときベレンシア公爵令息の目に映っていたのは、同情なのか憐みだったのか。
『私は父がこの王宮で執務にあたっているので、その補佐をしているのです。昨日も今日も業務の合間にアレゼル殿下を何度かお見掛けしましたが、聖女ミレイ様とご一緒でした』
ベレンシア公爵令息の舐めるような声が、頭の中で無限に繰り返される。なんならエコーまでかかっている。
一昨日、昨日と感じた違和感や焦燥感が、待ってましたとばかりに明確な意味を伴って私の心を沈めてしまった。
一昨日の夜会で、聖女様に目を奪われていたアレゼル様。心ここに在らずといった様子の彼の心を占めていたのは、恐らく聖女様だった。引き寄せられるように、聖女様の姿を追う視線。『聖女』という言葉に対する不自然過ぎる反応。明らかに、アレゼル様は聖女様の存在に心を動かされていた。
そして昨日も今日も、聖女様に会いに行っているという。ルーグ殿下に呼び出されたと嘘をついてまで一日中一緒にいるなんて、衝動に駆られてまわりが見えなくなっているとしか考えられない。私のことなんか放ったらかしで聖女様を追いかけるその様は、出会った瞬間理性を失い本能を揺さぶられて私を王宮へと連れて行ったかつてのアレゼル様を思い出させる。
そう。
フォルクレドの王族が我を忘れ、激情のままに欲するものといったら一つしかない。
もしかして、聖女様もアレゼル様の『運命の乙女』なのでは……?
その可能性はゼロとは言えない。同じ人間が複数の王族の『運命の乙女』であったからこそ起こった二年前の悲劇を考えれば。あのときガストル殿下は言っていた。『運命の乙女』が被ることがあるのなら、一人の王族にとって『運命の乙女』が複数いる場合もあるのではと。ガストル殿下は見つけられなかったけど、アレゼル様が『二人目』を見つけてしまったとしたら。
私はそれを、受け入れられるのだろうか?
アレゼル様の愛情が、揺らぐことも薄れることもないとは思う。私が『運命の乙女』である限り、それが完全に消え去ることはないのだと思う。でも物騒なまでの執着や独占欲はその勢いを失うかもしれない。それはそれでいいのかも? いやでも多分、耐えられない気がする。あれが慣れっこになってしまった私は、きっと満足できない。そもそも、アレゼル様の愛情がほかの人にも向けられるなんて到底無理。男の人は何人もの女性を同時に愛せるなんて言う人もいるけど、平等な愛情なんてあるのか? ないでしょ、普通。
自分自身がどれだけ欲深く、そして彼の執着に依存してきたのかを思い知らされてしまう。
『運命の乙女』って、一体何なんだろう。何故こんな忌まわしい呪いじみた存在があるのだろう。そして聖女様もアレゼル様の『運命の乙女』だったとき、私はどうしたらいいのだろう。
……なんてことが、もうずっと頭の中に浮かんでは消えての無間地獄である。永遠に終わらないループ。ほんとため息しか出ない。
「ラエル様」
お茶の準備をしていたはずのアンナが一度退室し、戻ってきたと思ったらおずおずと口を開く。
「アレゼル殿下がおいでになりました」
お互いに、硬い表情を見合わせる。
……会いたくない、とは言えないよなあ……。
小さくため息をついたときだった。
バタン! と激しい音がしたかと思うと、アレゼル様が突進してくる。
「ラエル!!」
その声も表情も、噛みつくような殺意に溢れていた。
「グレアムに会ってたってほんとか!?」
「は?」
憤怒にまみれた顔を見上げる。叩きつけるような口調で、アレゼル様が叫ぶ。
「庭園でグレアムに会ってたんだろ!?」
「ベレンシア公爵令息のことですか?」
「そうだよ!」
「会っていたというより、偶然会っただけです。庭園にお詳しいようで、いろいろ教えていただきましたが」
冷静に答えたつもりだったけど、だいぶ棘のある声になったことは否定できない。
だって、何? 自分だって隠れて聖女に会ってたくせに、たまたまベレンシア公爵令息に会った私を非難するわけ? 何様のつもり? ああ、王太子様だったわね。ふん。腹立つ。
「あんなやつと話なんかするな。近づくな。あいつはダメだ」
「何故ダメなのですか?」
「何故って、あいつは昔から――」
「あなただって、好き勝手しているではありませんか」
「は?」
「昨日だって今日だって、一日中誰と何をしておいでなのやら」
「は!? ルーグに呼び出されたって言っただろ?」
「そうですか」
冷ややかな目線を向けられ、アレゼル様ははっきりと狼狽える。
「え、ラエル……?」
「すみません。気分が優れないので横になりたいのですが」
私がそう言うと、すべて心得ているハイポテンシャル侍女のアンナがすぐさま「ラエル様、こちらへ」と手を差し出す。
立ち上がった私の後ろで「え、ちょっとラエル!」「大丈夫なのか!?」「医者呼んでくるか!?」なんて一人で大騒ぎするアレゼル様の声がいつもと変わりなさすぎて、なんだかとても、泣けてきた。
◇◆◇◆◇
翌日。オルギリオン滞在六日目。もう六日目なのか。あちこち見て回るつもりが、一ミリも外出してないとはね。笑えない。
体調不良を理由に、今朝はアレゼル様に会っていない。医者を呼ぶと言い張るアレゼル様を宥めるのに苦労したと、アンナがぼやいていた。いや、アンナは実は、だいぶ怒りを抑えているのだ。私を崇拝するアンナがアレゼル様の所業を知って戦意を抱かないはずがない。あの穏やかな表情の裏に、殺気が漂っているのが薄っすら見える。
しかし私のまわりって、すぐ殺気を帯びるやつばかりだな。
部屋にいたところで気が滅入るばかりだし、結局アレゼル様に内緒で東方庭園へと向かう。なんかこうなると、どこへ向かおうがベレンシア公爵令息は現れるんだと思うのよね。どういう魂胆かは知らないけどさ。
東方庭園は、一昨日と変わらない荘厳かつ清涼な空気を湛えていた。不思議な形の朱塗りの門を抜けると、もはや神聖ささえ感じられるほどの圧倒的な風格を見せつける。
清らかな池の水に、赤い橋が映る。
その上に立つ私の、無様な顔が揺れている。
向き合わなくてはいけない。アレゼル様の妻として、王太子妃として、そして『運命の乙女』として。聖女様がアレゼル様にとって二人目の『運命の乙女』かもしれないという事実に向き合わなくては。逃げてばかりでは、亡くなったガストル殿下に顔向けできない。
でも、怖い。向き合いたくない。
どれくらい、そこでそうしていたのだろう。
「ラエル妃殿下」
ここまで来るともう驚かない。最初からここにいるのを知っていたかのように、不敵な笑みを浮かべて現れるベレンシア公爵令息。
「またお会いしましたね」
見覚えのある薄笑いは、もはや胡散くささしかない。私は一瞥し、「そうですね」とだけ答える。
「今日もお一人なのですね」
「ええ」
「アレゼル殿下は今日も聖女のところなのでしょう?」
「どうでしょうか」
「美しいあなたを置いて聖女の元へ通うなど、一国の王太子としてはいかがなものですかね?」
咎める声は下衆な嘲笑を含んでいる。
私だって確かにそうは思うけど、でも他人に言われると無性にカチンと来るのよね。しかも他国の王太子を批判するなんて、あなたこそちょっとどうなのよ?
と言い返そうとしたときだった。
「あなたこそ、他国の王太子を批判するなどこの国の貴族としていかがなものでしょうか?」
唐突に、懐かしい中性的な声がして振り返る。
「ディア……ン様……!」
そこに立っていたのは、王国騎士団の隊服を着こなす男装の麗人。そしてその隣には、見覚えのある強面の騎士。
「誰だ? お前は?」
「名乗るほどの者ではございません。見ての通り、王国騎士団近衛隊に所属する者ですが」
「ふん、騎士風情が何の用だ。無礼ではないか? 私がベレンシア公爵令息だと知っていてのことか?」
「もちろんです。我が国きっての切れ者と名高いベレンシア公爵家のグレアム様を知らぬ者など、騎士団にはおりませんので」
非難されたはずが何故か想定外の称賛を浴びることになり、ベレンシア公爵令息は思わず目尻を下げる。しかもあの様子だと、どうやら目の前にいる騎士が自国の王女であることに気づいていないらしい。そりゃそうか。ディア様の変装って、今やコスプレレベルなんだもの。
そしてそのディア様、いや男装をしているから『ディアン・エルガラド』様になるわけだけど、何を企んでいるのかニヤリとほくそ笑んでいる。あの悪い顔。妙にほっとするわね。実家のような安心感すら抱いてしまう。
「グレアム様ほどの貴人ともあろうお方が、騎士風情の戯れ言にいちいち腹を立てることなどありますまい」
「……まあ、それはそうだな」
「しかしグレアム様。お父上のベレンシア公爵があなた様をお探しだったようですが」
「え、何だって!?」
飛び上がらんばかりに驚いて、ベレンシア公爵令息は挨拶もそこそこに退散してしまった。あっという間だった。なんだあれ。
遠ざかる背中を見送りながら、ディア様は笑いをこらえきれないらしい。
「あいつはね、父親に頭が上がらないのよね。王宮で父親の補佐をさせているのだって、外でヘマをしないよう監視する意味もあるのよ。本人は知らないけれど」
光沢のあるたおやかな声で、ディア様がささやく。
「ディア様! お会いしたかったです」
「久しぶりね、ラエル。どうしたのよこんなところで」
「それはこっちのセリフですよ。ディア様こそ王宮に顔を出して大丈夫なのですか?」
「もちろん、許可は得ていないわよ」
事もなげに言い放つディア様。堂々とし過ぎている。さすがの破天荒ぶりである。
「聖女が降臨したって言うから見に来てみたのよ。夜会には出られないけれど、騎士団員のフリをしてこの辺をうろうろしていれば見られるかなって」
なんという野次馬根性。一国の王女ともあろう方が。でも自由すぎてウケる。
「それで? ラエルはどうしたの? アレゼルが一緒じゃないなんて珍しいじゃない」
気遣わしげな目で私の顔を覗き込むディア様に、涙腺が一瞬で崩壊しそうになる。
でもぐっと堪えてこれまでの経緯を説明すると、ディア様はその麗しい顔を歪ませた。
「アレゼルが聖女と? まさか」
「でもベレンシア公爵令息が……」
「ああ、あいつが言ったの? じゃあ信じなくていいわよ」
「え? なんで?」
「話せば長くなるけど、あいつ、アレゼルとちょっとした因縁があるのよね。多分いまだに逆恨みしていると思うから、あいつの言ったことは多分全部嘘よ」
「は?」
……全部、嘘? え、全部?
ちょっと待って。ベレンシア公爵令息が言ったことの、全部が嘘だとしたら。まあ、東方庭園や東方の国々に関するウンチクはさすがに本物だろうけど、それ以外全部ってこと? てことは、アレゼル様は聖女様に会っていない? じゃあ聖女様は『運命の乙女』じゃない? あれ? ほんと待って。そうなると昨日から私が散々悩んでいたことはどうなるわけ? まったくの取り越し苦労、無駄な勘繰りだったってこと? いやいやでも、夜会でのアレゼル様の様子は明らかにおかしかったわよね? どういうこと? いやもうなんか頭痛がしてきたわこれ。
「でもアレゼルがラエルを放置して、ルーグ兄様と遊び惚けていたことは事実なわけよね」
「遊び惚けてたのかどうかは……」
「そんなのどっちだっていいわよ。せっかく初めて二人でオルギリオンに来たって言うのに、大事な妻を放ったらかしで何をやっているのかしら。しかもグレアムにつけ入る隙を与えるなんて」
「え?」
「アレゼルのやつ、とっちめてやんないと」
そう言うと、怒り半分愉悦半分の表情をしたディア様が、すっと身を引いた。腰を落として片膝をついたかと思うと、私の手をそっと取ってその整った顔を上げる。
「ラエル妃殿下。私と一緒に参りましょう」
そして私は、そのままディア様に『拉致』されてしまった(二年ぶり三回目)。
最初に会ったとき、アレゼルがラエルを王宮に連れて行ったのも一応『拉致』としてカウントしました。
次回はアレゼル視点です(もやっとが少し解消されるかもです)。