21 輸写心腹
ごつごつとした石の階段が続く。
最小限の灯りしかない狭い通路は薄暗く、先へ進むにつれ希望が一つひとつ削がれていく気さえする。
陛下の命で、ガストル殿下はひとまず王宮の地下牢に連れて行かれた。抵抗することも弁明することもなかったガストル殿下はただひたすら、退出するその瞬間まで静かに王妃殿下を見つめていた。
謁見の間に残ったのが王族と私だけになったのを見届けると、陛下がすぐさま立ち上がる。
「ヘルガ! 大丈夫か!?」
「陛下、ごめんなさい……。私は気づいていたのです……」
座ったまま目を潤ませる王妃殿下とその手を取って跪く国王陛下。
「気づいて……? 何を……?」
「ガストル様のお気持ちです。はっきりそうと言われたことはありませんが、時折私を見る目に熱情がよぎることがありました。ずっと、見て見ぬふりをしてきたのです。でもまさか、私がガストル様の『運命の乙女』でもあったなんて……」
王妃殿下の震える声に、陛下が首を振った。
「ヘルガは何も悪くない! そのようなこと、誰が予想できたと言うのだ? 一人の女性が複数の王族にとっての『運命の乙女』である可能性など、これまで知られてこなかったのだから……!」
確かに、以前アレゼル様も話していた。『運命の乙女』が被ることなどないと。同じ人間が複数の王族にとっての『運命の乙女』だった話なんて、長きに渡る王族の歴史の中でも聞いたことがないと。
起こり得ないと思っていたことが起こってしまったのだ。そしてそれが、想像を絶する大きな悲劇を生む。
「ヘルガは部屋に戻って休んでいなさい。ガストルの話は私が直接聞く」
悲嘆に暮れる王妃殿下の手を握りながら、陛下が振り返る。
「……お前たちも一緒に来るか?」
重く沈んだ陛下の声にそろって頷いた私たちは、そうして今王宮の地下牢へと向かっている。
つい数刻前、罪人としてここを歩いたであろうガストル殿下は一体どんな想いを抱えていたのだろう。その胸中を知ることは、陛下にとってもアレゼル様にとっても底知れぬ痛みと哀しみをもたらすに違いなかった。
私が転ばないよう、しっかりと手を繋いでいてくれるアレゼル様の温もりだけを頼りに歩き続ける。
王宮の地下牢は思っていたより豪華な造りだった。鉄格子さえなければ、少し質素な貴族家の客室と言っていいくらい。ベッドやソファ、文机なんかもある。
そのソファに項垂れたまま座り込んでいたガストル殿下は、鉄格子に近づく私たちの気配に気づいてゆっくりと顔を上げた。
「兄上……」
泣きそうな声だった。はっきりとは見えないけど、泣いていたのかもしれない。
見張りの近衛兵を下がらせた陛下が、威厳を保ったまま鉄格子の前に立つ。
「ガストル。ヘルガは部屋で休ませている」
「……はい」
「ラエル嬢の言わんとしていたことは本当なのか? 本当に、ヘルガはお前の『運命の乙女』でもあったのか……?」
いまだ半信半疑なのだろう。陛下の声は、戸惑いや迷いの色が深い。
「兄上は、私とヘルガ、いえ義姉上が初めて会った日のことを覚えていますか?」
「……私たちの婚約が決まったときだったか」
「そうです。まだ十歳と幼く、『運命の乙女』について聞かされてはいたもののその意味を正確には理解し得なかった私が義姉上を初めて目にしたとき、本能的にすべてを悟ったのです。この人が私の運命の相手であるのに、一生手に入ることはないのだと」
「ガストル……」
「『運命の乙女』に対する王族の執着はすさまじい。兄上は義姉上から片時も離れることはなく、王太子妃教育のために登城する義姉上に会えてもいつも兄上がそばにいた。しかし私の本能は常に義姉上を求め、どす黒い執着心が体の中に渦巻いていたのです。それは時に暴れ出し、私の身をも焼き尽くそうと襲いかかる。兄上を殺して義姉上の手を取る夢を何度見たかわかりません。義姉上に触れた瞬間の恍惚感を想像するたびに、しかしそれを手にすることはないという現実に、私はいつも引き裂かれるような苦しみと痛みを強いられてきた」
ふぅ、と小さく息を吐くガストル殿下。凄絶なまでの劣情に支配された日々を告白しているというのに、思った以上に穏やかな表情をしているように見える。
「しかし成長するにつれ、私はだんだん自分自身が怖くなっていったのです。このままではいつか本当に兄上や義姉上を脅かし、害するときが来るのではないかと。義姉上はもちろん、私は兄上だって失いたくはなかった。いつしか義姉上も兄上に対して明らかな恋情を抱くようになっていたし、己の愛する人が愛する相手を傷つけるような人間にはなりたくなかったのです。それに何より、私自身が兄上をこの上なく慕っていた」
「ガストル……」
「だから学園を卒業すると同時に王位継承権を放棄し、この国を離れることにしたのです。そして世界各国を旅してみようと思いました。もしかしたら義姉上以外にも、私の『運命の乙女』がいるかもしれないと思いついたのですよ。一人の女性が複数の王族にとっての『運命の乙女』であるなら、一人の王族にとって『運命の乙女』が複数いる場合もあるんじゃないかという希望を抱いてね」
「そんなことを……?」
「ええ。本当にあちこち回りました。この世界で足を運んでいない場所はないというくらいにね。それでも、『運命の乙女』は見つからなかった」
ガストル殿下の穏やかだった表情から俄かに感情が抜け落ちる。失望だけが、辛うじてその表情からうかがい知ることができる。
「そんなとき、アレゼルの婚約とオルギリオンへの留学が決まりました。私もそろそろ潮時だと思ったのです。『運命の乙女』が見つからなかったアレゼルに対して、同情する気持ちも強かった。『運命の乙女』を手に入れることのできない者同士、これからはアレゼルを力の限り支えていこうと思っていたのですが」
生気のない目が私を捉える。
「アレゼルの『運命の乙女』が、見つかってしまった」
「しかしお前は喜んでいただろう? 見つかってよかったと、自分の分までアレゼルには幸せになってほしいと言っていたじゃないか」
「そのときはね、確かにそう思いました。しかし幸せそうなアレゼルを見ているうちに、私の中で永くくすぶっていた劣情が再び激しく燃え上がってしまったのです。何故アレゼルは『運命の乙女』を手に入れられたのに、私はできないのか。見つからないのではない、目の前にいるというのに」
「そんな……」
一歩前に出たアレゼル様が、力任せに鉄格子に手をかけた。ガシャンという冷たい音が虚しく響く。
「俺のせいだったのですか……? 俺がラエルに出会ったことがきっかけで、叔父上はこんなことを……!」
「そうじゃない、お前のせいではない。私とて、お前の幸せを心から願っていた。しかし抗えなかったのだ。本能の渇きに、欲望の疼きに、私は屈してしまった……!」
ガストル殿下が両手で顔を覆う。薄暗い地下牢に、いつ果てるともわからない沈黙と静寂が訪れる。
しかし陛下の冷徹な声が、それを躊躇なく破った。
「お前が、セヴァリー侯爵を唆したのか?」
「……そうです。彼はイアバス侯爵を疎んじ、あまつさえ宰相の座を狙っていた。王宮内部の図面を持ち出して騒ぎを大きくするために、彼の野心をうまく利用しようと」
「グリムド辺境伯は?」
「セヴァリー侯爵から味方に引き入れようと提案されました。グリムド辺境伯は実はオルギリオンの政界中央に進出する夢を抱いていて、自分の立場に大きな不満があったのです。すべてがうまくいった暁にはオルギリオンから独立し、改めてフォルクレドの貴族として私に忠誠を誓いたいと」
「お前は彼らと結託し、王位簒奪を企てたのか?」
確かめるように、陛下がガストル殿下の目をじっと見つめる。
「こんなことを言っても信じてもらえないでしょうが……」
「なんだ」
「セヴァリー侯爵とグリムド辺境伯は、わたしが王位簒奪を目論んで今回の一件を企てたと思っています。でも私は、そういうつもりではなかった」
「どういうことだ」
「私はただ、ヘルガがほしかった。義姉上さえ手に入れば、あとのことはどうでもよかったのです。王位とか国王になるとか、そんなことは考えていなかった。この国を混乱に陥れ、有耶無耶のうちに義姉上を手に入れるために、王位簒奪をチラつかせてあの二人を利用しました」
「では先程の謁見の間での行為は?」
「義姉上を連れ去ろうと思っていたのです。兄上は義姉上を王宮の奥に囲い、事務官や護衛騎士までもすべて女性のみにして男は一切近づけないようにしている。私でさえ、義姉上には容易に会うことができないのです。そんな義姉上に会うには、謁見の間まで出てきてもらう必要がある」
「それで王宮内部の図面を持ち出すことを考えたのか? 自分に疑いの目が向けられ、我々に呼び出されるのを待っていたというのか?」
「はい。どのみち、この策略がすべてうまくいくとは思っていませんでしたから。ギルノール辺境伯家がグリムド軍に負けるとは思えませんでしたし、セヴァリー侯爵が辣腕と名高いイアバス侯爵に取って代わるなど不可能に近い。いずれ計画は破綻するだろうと。でも私としては、図面のことで呼び出されるのが一番の狙いだったので」
「……あの、一つだけ、お聞きしたいことがあるのですが」
鉄格子から一番離れた位置にいた私がおずおずと声をかけると、ガストル殿下が興味深げな顔をして頷く。
「私を害そうという企ては、殿下の指示だったのですか?」
「ああ、それは……」
ガストル殿下の視線が、不自然に彷徨う。しばらく煮え切らない様子で思いあぐねていた殿下は、諦めたように重い口を開く。
「……正確に言えば、私の指示ではない。マリエラ嬢がアレゼルに想いを寄せているのを知っていたセヴァリー侯爵が言い出したことだ。ただ私は、それを止めることはしなかった」
「何故ですか?」
「何故だろうな。私は羨ましかった。何の憂いも後ろめたさもなく、真っすぐその愛情をラエル嬢に向けることのできるアレゼルが。私の苦しみなど知る由もないのに、私と同じように苦しめばいいと思ってしまったことは否定できない」
「叔父上……」
鉄格子を握るアレゼル様の手が、震えていた。行き場のない感情を押し殺す陛下は、その肩に手を置いてきっぱりと言い放つ。
「ガストル。お前のしたことはもはや取り返しがつかない。お前にその意志がなかったとしても、傍から見れば王位簒奪を目論んだと判断されても仕方がない」
「……はい」
「お前の処分はこれから招集する枢密院で議論され、決定されることになるだろう。覚悟しておけ」
温度の感じられない陛下の声に、かえってその傷つきの深さが垣間見える。
アレゼル様の手は、まだ小刻みに震えている。
ガストル殿下だって、きっとこんなことを望んでいたわけじゃない。あの温厚で慈悲深い人が、自分の大切な人たちを傷つけたかったわけがない。
すべては『運命の乙女』という存在に翻弄されてしまう、王家の呪われた血のせいなのに。意志の力だけでは抗い難い本能と衝動のなせる業なのに。何故、こんなことになってしまったのだろう。
陛下の言葉に弱々しく頷いたガストル殿下を、無言で見ていることしかできなかった。
◇◆◇◆◇
数日後。
枢密院が招集された。議論は白熱し、今回の件にかかわった者たちの処遇について結論が出るまでさらに数日を要した。
その間、アレゼル様は毎日のように顔を出しては憔悴しきった様子を見せる。そして話し合いの行方を、ぽつりぽつりと吐き出していく。
「セヴァリー侯爵の処刑は免れないだろうが、マリエラは国外追放か修道院送りになるだろうな」
「グリムド辺境伯も同様だ。オルギリオン側も極刑を望んでる」
「叔父上の処罰で議論が分かれてるんだ」
「王位簒奪を企てた叔父上の処刑を求める声が多い。でも陛下がそれに反対している」
アレゼル様は、私との出会いがガストル殿下を凶行に走らせたのだという罪悪感に囚われていた。自分が『運命の乙女』に出会わなければ、そして私を手に入れなければ、こんな悲劇は生まれようがなかった。ガストル殿下がいくら否定したとしても、その事実を眼前に突きつけられたらひれ伏すしかない。
それでも、どれほど罪の意識に苛まれようとも、王族が『運命の乙女』を手放すなんてできるわけもない。引き裂かれるような苦悩と葛藤を強いられ、アレゼル様は目に見えて消耗していった。
ガストル殿下が地下牢で亡くなったのは、それからまもなくのことだった。