2 合縁奇縁
「ラエル!」
馬車を降りると、よく通る涼しげな声に呼び止められた。
「久しぶりね! 元気にしていた?」
「ええ。エリカは?」
「私はもちろん元気よ。それよりどうしたの? 何かあった?」
たった一言二言挨拶を交わしただけで、私の変調に気づくとは。さすがはエリカ。鋭い。
「ちょっとね。でもここではちょっと」
「わかった。じゃあ、お昼にゆっくり聞くわ」
そうして午前の授業が終わってすぐ、私とエリカはランチルームの中にあるいつもの個室に向かった。
学園の生徒たちがお昼時に使うランチルームには、申請をした高位貴族だけが使える個室がいくつかある。一番奥にある個室が、私たちの定位置だった。
「で? どうしたの? もしかしてあの傍若無人男のことかしら?」
「ご名答。婚約解消になったのよ」
「まあ!」
あからさまにうれしそうな顔をして、エリカが貴族令嬢らしからぬ大声を上げる。
エリカは出会った頃から、バルズ様のことを毛嫌いしていた。入学当初、同じクラスで隣同士の席になった私たちはすぐに意気投合したけれど、だからこそバルズ様の横暴な態度を間近で見てきたエリカは彼のことを蛇蝎のごとく嫌悪していた。
「ちょっと待って。『解消』? 『破棄』ではなくて?」
「そうよ」
なんとなく腑に落ちない表情をするエリカに対して、私は夏休み中にあった出来事をできるだけ詳細に説明し始める。
話し終わっても、エリカはなんだか納得いかないといった表情のままだった。
「あいつとの婚約がなくなったのはよかったけど……。なんとなく屈辱的ね」
「そう?」
「ラエルは悔しくないの? もっとこう、ぎゃふんと言わせたくない? 正義の鉄槌を下したいとは思わないの?」
「正義の鉄槌って何よ」
「あることないことでっち上げて恥ずかしさのあまり外を出歩けないようにしてやるとか、あちこち痛めつけて足腰が立たないようにしてやるとか、もっと直接的に口の利けない体にしてやるとか」
「エリカが物騒なんですけど」
「こんなの通常運転じゃない。うちの力を使えば訳ないけど?」
「だから」
「もう。ラエルは欲がなさすぎるのよ」
「うーん、欲がないわけじゃないんだけどね。悔しいとかいうより、ほんとに清々したというか。もうバルズ様になんだかんだと言われなくて済むってだけで、解放感が半端ないというか」
「そうね。もうあんな男に振り回されずに済むのだものね。でもあいつのことだから、自分のことは棚に上げてラエルのことを悪く言ってそうよね」
「多分ね。今頃、まわりの人たちには自分にとって都合の良いことばかり話して、浮気のことをうまくごまかそうとしてると思うの」
「やりかねないわね。『真実の愛』とかなんとかほざいてそう」
物騒かつ治安の悪い物言いがちょっとばかり多いエリカは、実はイアバス侯爵家の長女である。
イアバス侯爵家といえば、我が国の三大侯爵家の一つ。代々宰相を務める由緒ある家柄で、頭脳明晰かつ博学多才な人材を数多く輩出している。エリカのお父様は現宰相であり、兄のオリバー様は宰相補佐を務めている。
「婚約解消は百歩譲って良しとしても、ラエルはこれから新しい婚約者を探さないといけないわけでしょう? いい人が見つかってくれるといいんだけど」
「あー、そうね。でもお父様が心配しなくていいって言ってたし、バルズ様よりひどい人なんてそうそういないと思うからなんとかなるんじゃない?」
「なんならうちの兄なんてどう? だいぶ変人だけど悪い人間じゃないわよ」
「次期宰相様なんて恐れ多いわよ。それより婚約者って言ったら、エリカの婚約者は今日から学園に来るんでしょ?」
「そうみたい」
言いながら、エリカはその頬をぽっと赤らめる。
朝日を編み込んだような金髪に空の青を溶かしたような目をした整った顔立ちのエリカは、ともすれば派手な印象を与えがちである。
長きに渡って我が国の宰相を務めるイアバス家の娘だけあって、どんなときでもわりとはっきり自分の意見を主張するエリカ。だからなおさら強気で物怖じしない令嬢だと評されることも多いのだけど。
その実、とても気さくで愛情深く、感情豊かな人なのである。ちょっと腹黒で過激でもあるけど。そして、婚約者との仲はすこぶる良好という。微笑ましい。
「向こうの学園で三年間勉強してから帰国する予定だったじゃない? でもなんだか突然事情が変わったみたいで」
「殿下が帰国されるとなったら、ハラルド様も帰ってこないわけにはいかないものね」
エリカの婚約者は、ハラルド・デリング侯爵令息。
三大侯爵家の一角でもあるデリング侯爵家。当主は我が王国騎士団団長であり、その長男で次期騎士団長の呼び声も高いハラルド様は、隣国オルギリオンの学園に留学していた。
それは、我が国の王太子アレゼル・フォルクレド殿下の留学に側近かつ護衛として付き従っていたから。アレゼル殿下はオルギリオンの第一王女であるディアドラ殿下と婚約していて、世界各国の情勢を知り見聞を広めるためオルギリオンに留学していた。
本来ならオルギリオンで三年間学んだあとディアドラ殿下を伴って帰国する予定だったのが、何故か急遽留学を取りやめて帰国することに決まったのがこの夏休み中なのだ。
「どんな理由があってのことかはわからないけど、ハラルド様が予定より早く帰ってきてくれるのはよかったじゃない」
「そうなんだけど……。突然『帰国することになった』って手紙が来て、それきり詳しい事情はわからないのよね」
「イアバス侯爵は何か言ってないの?」
「明らかに事情を知っているけれど、教えてくれないのよ。ハラルドから聞けばいいって言うばっかりで」
「え、じゃあこんなとこで悠長に私の話なんか聞いてる場合じゃないわよ。ハラルド様を探しに行こうよ」
「今日はいろいろな手続きがまだ残ってるから、登校するのは昼過ぎになるって連絡が」
「もうとっくに昼過ぎじゃない。登校してるかもしれないし、さっさと行くわよ」
「えぇー?」
久しぶりの対面を前に会いたさと恥ずかしさとで明らかに狼狽えている親友を促しつつ、私は個室を後にした。微笑ましい二人を目の当たりにできるかもしれない。仲良きことは美しきかな。私もあやかりたい。
ちょっとうきうきした気分で生徒たちの集まるオープンなスペースに出ると、いくつかの集団から嫌な視線を向けられていることに気づく。
「あれがあの……」とか、「あの見た目じゃあね」とか、「バルズ様もお気の毒に」とか。
挙句の果てには「バルズ様の『真実の愛』を邪魔する悪役令嬢」なんて憎々しげな声も聞こえてくる。
思わずぴたりと止まってしまった私の前に、本当に運悪く、今一番会いたくない人が、最悪のタイミングで飛び出してきた。
「なんだ、ラエル。俺に会いに来たのか?」
もう会うこともないと思っていた元婚約者が、吐き気のするような下卑た笑顔で私たちの前に立ちふさがる。
「バルズ様。私たち、先を急いでいるのですが」
「だからなんだよ」
バルズ様は腕を組み、一向に動く気配がない。いやらしいというか、柄が悪いというか、品性に欠ける笑みを浮かべたまま。
エリカが何か言い返そうとしたのを制して、私は伏し目がちにバルズ様を見返した。
「バルズ様。私たち、急いでいますので」
「は? 俺が邪魔だって言うのか?」
「そんなことは」
「今まで散々、俺の『真実の愛』を邪魔してきたお前が俺のこと邪魔だって言うのかよ?」
紛れもなく、まわりにいる学園生たちにわざと聞かせるような言葉だった。
言った本人は私たちの目の前に悠々と立ちながら、ニヤニヤと悪趣味な薄笑いを見せている。
咄嗟に言い返そうとして、でもいつもの癖でぐっとこらえてうつむいてしまったその瞬間。
「君……! 名前は……!?」
唐突に、バルズ様と私たちとの間に割って入った人物の切羽詰まった声がした。
顔を上げると、漆黒の夜を宿したような黒髪の男子の透き通るアメジスト色の目が飛び込んでくる。その目は、喜びとも戸惑いとも受け取れる複雑な色に揺れていた。
「え……」
「君、名前は……?」
「あ、あの、プレスタ伯爵家が長女、ラエル・プレスタと申します。アレゼル殿下」
黒髪に紫色の目は、王族の証。いくらお会いするのが初めてだとはいっても、今私の前に立つ見目麗しい人物がアレゼル殿下であるということに、恐らくこの場に居合わせた生徒全員が気づいていた。
「ラエル……」
感極まって震える声は、どういうわけだか切なく響く。
殿下の登場で突然時間が止まったかのようなその空間は、水を打ったように静まり返った。
何が起こったのか理解できない私やバルズ様にはお構いなしで、殿下は容赦なく猛攻を開始する。
「ラエル・プレスタ嬢は、何年生?」
「三年です、殿下」
「じゃあ、私と同じ?」
「はい、そうです」
「婚約者はいる?」
「……いえ」
「好きな人とか、将来を約束した相手とかは……?」
何故そんなことを逐一聞かれるのだろうとは思いつつも。
殿下の表情にはどこか祈りにも似た緊迫感が漂っていて、下手なごまかしや一時しのぎの出鱈目を言う気にはなれなかった。
「そのような相手はおりません」
「じゃあ、午後の授業は?」
「え、午後ですか?」
いきなり現実的な質問をされて面食らった私は、隣にいて同じように困惑しているエリカに目を向けた。
「午後は確か、外国語と歴史の授業です、殿下」
「あれ? もしかしてエリカ?」
「はい。お久しぶりです、殿下。無事のご帰国、何よりでございます」
「ありがとう。ハラルドにはもう会ったのか?」
その声とともに、殿下の後ろから精悍な顔つきをした長身の偉丈夫が颯爽と現れる。
「エリカ」
「ハラルド……!」
無表情の偉丈夫を目にした途端、感極まって涙を浮かべるエリカ。親友が待ち焦がれた愛しい相手との再会は感動的ながらも、なんとなくまとわりつく視線を感じてしまう。
顔を向けると、何故かうっとりと私を見つめ続けるアレゼル殿下と目が合った。
「外国語と歴史の先生には断りを入れておこう」
「は?」
「ラエル・プレスタ嬢。一緒に来てくれ」
気がつくと否応なしに手を引かれ、それきり無言のアレゼル殿下に拉致されていた。