13 暗雲低迷
「いなくなっただと?」
王太子モードのはずのアレゼル様が、珍しく声を荒げる。
王宮のいつもの応接室。今日の授業が終わってすぐ、どういうわけか宰相補佐であるオリバー様に呼び出されたアレゼル様と私、そしてエリカとハラルド様。
クールな印象のモノクルがトレードマークのオリバー様は、何故かハラルド様の方をちらちらと窺いながら渋い顔をする。
「はい。今朝、貴族牢の見張りの交代時に王国騎士団員の一人が発見したそうです。牢の鍵は開け放たれ、見張りの騎士団員も捕らえられていたはずのカルソーン伯爵令息も姿を消していたと」
「どういうことだ? 逃げたのか?」
「恐らくは。状況から見て、見張りの騎士団員の手引きによるものと思われますが」
「ちょっと待ってください! 王国騎士団員がそんなこと――」
「残念ながら、その可能性が高いんだよ、ハラルド。この件はすでに王国騎士団団長でもあるデリング侯爵に伝えてある。騎士団の威信にかけて、早急に調べてくれるそうだ」
一昨日騎士団に捕らえられたはずのバルズ様が、忽然と姿を消したらしい。
その事実だけでも驚愕なのに、牢を監視するはずの騎士団員に内通者がいるとあっては騎士団を統括するデリング侯爵家の立つ瀬がない。もっと言えば、責任を追及されてもおかしくない。
ハラルド様は信じられないといった表情で立ち尽くす。いつもは無表情で淡々と辛辣な物言いをするハラルド様も、言葉がないらしい。
「ラエル様の元婚約者が血迷って暴走しただけの稚拙な行動かと思っていましたが、こうなると」
「そうとも言えないということか」
「はい。たかが伯爵令息が騎士団員を丸め込むなど不可能に近い。ましてやあの男、相当馬鹿ですし」
オリバー様が容赦なく言い放つ。え、今「馬鹿」って言った?
驚いて目を向けると、オリバー様は狡そうに微笑んでいる。あー、あの顔。エリカそっくり。
「お前、あの男と話したのか?」
「ええ、まあ。エリカがずっと『傍若無人男』とか『厚顔無恥男』とか呼んで、蛇蝎のごとく嫌悪していた男ですからね。どんな男なのかと興味を持ちまして。捕らえられた直後に会いに行ってみたんですよ」
「暇人だなお前」
「これでも忙しい身なのですよ? 宰相補佐ですからね」
そう言って、オリバー様は狡そうな笑顔のままモノクルを外して拭き始める。妙にもったいぶっている。でも様になっている。
「あの男、カルソーン伯爵令息でしたか。彼は私を見ると、宰相補佐の力でここから出してくれと言い出しましてね。俺は悪くない、ラエルと話したかっただけだと」
「あいつ、またラエルのこと呼び捨てにしてたのか」
「殿下、今はそこじゃないから」
「そうですよ」
「話したかっただけだとしても、ラエル様を無理やり部屋に引きずり込むのはまずいでしょう、とね、親切な私は教えてやったわけですよ。ラエル様が殿下に相応しくないと主張するのも不敬に値しますよ、とね。そしたら『ラエルが殿下の婚約者に選ばれるなんておかしい』『どうせ婚約したふりをしているだけだ』『ラエルは本当は俺のことが好きなんだ』などと――」
「は!? あいつ殺す!」
「「殿下!」」
「アレゼル様、落ち着いてください。話が進みません」
「あ、悪い……」
「どうにもあの男、殿下とラエル様との婚約を端から信じていない様子でしてね。おかしい、嘘だ、ラエルは俺のものだと言い続けて」
アレゼル様がまた何か叫びそうになったのを、黙って目で制す。そんなわけないでしょ、という気持ちを込めて隣に座るアレゼル様の手に触れる。なんだか拗ねたような顔をしたかと思ったら、調子に乗って一気に距離を詰めてくるアレゼル様。ち、近い。
「間違った認識を指摘されても改めようとせず、直情的かつ一方的に己の意見を主張するような馬鹿が自分一人の力で牢から出られたとは考えにくいですね。そんな器量はないでしょう。あの頑固さも妙ですし」
「妙とは?」
「何故あんなにも頑なに『この婚約はおかしい』『婚約したふりをしているだけ』などと断言できるのでしょう? 殿下とラエル様との婚約は国民全体に概ね好意的に受け止められていますし、学園に行けば殿下の執着ぶりを誰もが目撃しています。婚約そのものを否定し続けられる根拠とは?」
「あの男、もしかして本当はずっとラエル様を好きだったのではないですか? だから取り返そうと躍起になって、勝手な思い込みを信じて疑わないとか」
「まあ、そういう可能性もあるだろうが……」
いやいやそんなわけないから、なんて思っていると、ふと視線を感じる。真剣な表情のハラルド様と目が合った。
「ラエル様。保健室でのことを話してもいいでしょうか?」
「え? あ、はい」
私が答えると、ハラルド様は少し緊張した面持ちで意を決したように話し始める。
「実は、あの男がラエル様に接触しようとしたのはこれが初めてではないのです」
アレゼル様が途端に怪訝な顔をして、私の方を振り返る。私が頷くと、ハラルド様はあの保健室での騒動について説明した。待っていたのが実はバルズ様だったことも、同じようにおかしな言動を繰り返していたことも。
「……何故、黙っていた?」
アレゼル様の鋭く冷たい悪魔の声をまたしても聞く羽目になるとは。怒りが一気に頂点まで達したらしく、静かに凄んでいる。
「殿下に伝えれば、逆上して彼を殺しかねないと思いました。今となってはその判断が間違っていたと言わざるを得ません。申し訳ございません」
「そのとき殺していれば、こんなことにはなってなかっただろうな」
射るような視線を向けるアレゼル様。いや、殺しちゃだめだから。
「まあ、ハラルドがそう判断したとしてもおかしくはない。殿下はラエル様のこととなると、歯止めが利かなくなるからね」
「兄上……」
ん?
今「兄上」って言った? ハラルド様が? オリバー様を?
「ハラルド、だから俺を『兄上』と呼ぶのはやめろって言ってるだろう?」
「何故ですか? 俺とエリカは婚約していますし、いずれは兄上になるのですから」
「でもまだなってないだろ」
「時間の問題です」
「お前とエリカが結婚するのは卒業後だろ? まだだいぶ先なんだよ。気持ち悪いからやめろ」
「実際の結婚はまだ先ですが、気持ちはすでに夫婦ですし」
「は? 何言ってんだお前」
突然始まった不毛な言い争いに唖然とする。
エリカはちょっと呆れ顔をしていた。多分いつもこの調子なのだろう。もはや止める気もないらしい。
初めて見る珍しい光景に目を奪われていると、アレゼル様が早速耳元で「あいつら、いつもこうなんだ」「仲悪そうに見えるけど、意外に気が合うらしいんだよな」なんて頼んでもないのに教えてくれる。そして気づいたら、どさくさに紛れていつの間にか密着している。ち、近すぎる。
「まったくお前は、いつになったら俺の言うことを聞くんだよ?」
「俺は常に、兄上に対して従順なつもりですが」
「嘘つけ。どこがだよ。お前は昔っから、そういうところが生意気なんだよな」
「すみません。生意気ついでに、カルソーン伯爵令息の言動のおかしさが気になったので少し調べていたのですが」
「どうだったんだよ?」
「実は意外なことがわかりました」
「それは何だ?」
義兄弟のわちゃわちゃが一段落したところで、アレゼル様が興味深げに身を乗り出した。
「カルソーン伯爵家はプレスタ伯爵家ととある業務提携をしていましたよね?」
ハラルド様が、何の前触れもなくいつもの無表情で尋ねる。想定外に話の矢が飛んできて、思わず面食らう。
「あ、はい。もともとは私とバルズ様の婚約が決まったあとプレスタ領が被災して、そのときカルソーン家が資金援助してくれたことから始まったものです。でも、業務提携は婚約解消を機に段階的に終了することになったはずですが」
「その業務提携の規模が縮小していった途端、カルソーン家の事業経営が傾き始めたようなんです。どうやらプレスタ伯爵には、ずいぶんと商才がおありのようで」
「え?」
「つまり両家の業務提携で得られたとされていた利益は、実はプレスタ伯爵個人の商才によるものだったということか?」
「はい。業務提携の段階的な終了が進むにつれて、カルソーン伯爵家の事業経営は次第に厳しくなっていったようです。そのためカルソーン伯爵は、プレスタ伯爵家との業務提携を終了するそもそもの原因となったバルズに相当怒り心頭だったようですね。しかも、婚約解消の理由となったドロシー・クレイトン嬢の妊娠も嘘だったそうですし」
「そういえば、バルズ様そんなこと言ってましたね」
「このままでは廃嫡だなんだと大騒ぎしていたそうなので、ラエル様との婚約が元に戻ればすべて丸く収まると思ったのかもしれません」
「なるほど。無関係ではなさそうだな」
みんなが一様に頷く中で、どうにも腑に落ちない思いを拭い切れない。
本当に、それだけなのだろうか?
それだけの理由で、バルズ様は二度もあんなことをしでかしたのだろうか……?
そこはかとない不安の渦に呑み込まれる私に、オリバー様が余裕のある笑みを見せる。
「カルソーン伯爵令息のことは、もちろんこちらでも調べてみます。騎士団の内通者がわかれば、さらに明らかになる事実もあると思いますし」
「そうだな」
「それと、ここからが今日の最重要課題なのですが」
しれっとした顔で、さらりと今更感満載の発言をするオリバー様。アレゼル様が微かに棘を含んだ声で言い返す。
「じゃあ今までのは何だったんだよ?」
「本題に入るまでの脱線が思いのほか多くてですね」
「は? まあいい。それで?」
「カルソーン伯爵令息が消えた以上、今後心配になってくるのはラエル様の身の安全です。また狙われないとも限らないのですよ」
みんなの視線が一斉に私に集まる。そうだった。そういう可能性もあるのだということに、今の今まで気づかなかった。
「カルソーン伯爵令息一人なら、何も恐れることはないのですがね。協力者なのか黒幕なのか、とにかく敵の正体も真意もわからないのが不気味なのです。警戒する必要があるかと」
「確かにな」
アレゼル様が厳しい顔つきで頷いている。でもどことなく、口元が緩んでいるように見えなくもない。いや緩んでいる。あれは何か、企んでいる。
「お前たちに問いたいのだが」
唐突に王太子モードを発動させて、アレゼル様がやけに芝居がかった様子で立ち上がった。
「私たちは、ラエルの身の安全を確保しなければならない。そうだな?」
「あー、はい」
「そうね」
「そうですね」
「では、この国で最も安全な場所はどこだ?」
「どこですかね?」
「え、ここだろう? 王宮が最も安全な場所に決まってる」
「あ、そうね、王宮ね」
「その通り!」
自信に満ちた張りのある声で、勝ち誇ったように目を輝かせるアレゼル様。
「ラエルの身の安全を確保するためには、この国で最も安全な王宮で保護するのが一番だろう!」
その言葉で、アレゼル様の不埒な魂胆がわかってしまった私たち。私を除く全員が途端に冷ややかな目をして、得意満面の王太子を見上げる。
「あー、そういう?」
「殿下、確か婚約が決まったときにもラエル様にこのまま王宮に住めばいいとか何とか言い出したのでは……」
「そうそう。お父様が説得するの大変だったって嘆いていたもの」
「そういう意味では、ラエル様にとって王宮は果たして真に安全と言えるのだろうか?」
「逆に一番危ない場所かもね」
「殿下と四六時中一緒となったら、ラエル様の貞操の危機が――」
「お前らぁ!!」
結局、私がその日から王宮で過ごすことになったのは言うまでもない。
そしてその直後、事態は風雲急を告げる。