12 栄枯盛衰(バルズ)
「なんてことをしてくれたんだ!」
目の前で地団太を踏みながら叫ぶ父親を、ただ黙って見つめ返した。俺の表情から何の感情も読み取れないことに苛立つ父親は、さらに声を荒げる。
「ラエル嬢に危害を加えようなど、何を考えているんだ!? 彼女はもうお前の婚約者ではない、恐れ多くも王太子殿下の婚約者なんだぞ! もはや気安く話しかけられるような相手ではないのだ! そんなこともわからないのか!」
興奮しすぎて肩で息をする父親を、俺は無表情のまま見つめ続ける。
「そもそもお前がドロシー嬢に騙されて、勝手にラエル嬢との婚約を解消していなければこんなことにはならなかったんだ! 我が家が窮地に陥ることもなかったんだぞ! 何もかもお前のせいだ!!」
見張りの騎士団員がすぐ脇にいるというのに、なりふり構わず叫び続ける父親。同じようなことを何度も何度も繰り返し怒鳴り散らし、しかし何を言ってもまったく反応を示さない俺にようやくすべてを諦めてくれたらしい。
最後には今日限り縁を切ると厳しい口調で言い残し、その場を去った。
騎士団所有の貴族牢は、思っていたよりもずっと簡素だった。
まさかこんなところにぶち込まれる人生になるとは思わなかったが。どこで間違ったのだろうと考えて、すぐ答えに思い至る。そんなのはもう、嫌というほどわかっている。
五歳のとき、俺は初めてラエルに会った。婚約者として初めての対面。それなりに期待していた俺は、その地味な見た目に正直がっかりしてしまった。まだ五歳、されど五歳だ。髪も目も、ありふれた地味な茶色でぱっとしないラエル。俺自身が母譲りの金髪翠眼で、まわりから容姿を褒められるのが当たり前だったからなおさら落胆は大きかった。貴族とは、俺のように華やかな色味を持つ人間を言うのではないのか。それなのに、妙に可愛らしくあどけない笑顔を見せるラエルに俺は複雑な心情を抱く。
思えば幼い頃から、ラエルはあまり感情を表に出さない子どもだった。初めて会った日にはあどけない笑顔を見せてくれたが、何故か次第に冷めた目をするようになる。俺はあの笑顔が見たくてあれこれ話しかけたり遊びに誘ったりしたが、尽く失敗した。まるで俺になんか関心がないみたいで、それが無性に腹立たしかった。
時が経つにつれて、ラエルは整った顔立ちの可愛らしい令嬢に成長していく。見た目の色味が地味だからあまり目立たないが、実は十分に可愛い。会うたびに募る恋情のようなものに、俺は戸惑うようになる。そしてイライラする。何を言ってもさほど表情を変えないラエルを前にすると、自分で自分が制御できなくなってさらに苛立ちが募る。
そんなある日、俺はたまたま、ラエルに幼馴染のドロシー・クレイトンの話をした。ドロシーは俺より一つ年上の子爵令嬢。領地が隣同士ということもあって幼い頃から行き来があり、天真爛漫で目立つ容姿の美少女だった。隣に並ぶならドロシーのような華やかな色味の令嬢が好ましいという思いもあった俺は、それをラエルにぽろっと言ってしまった。
その瞬間のラエルの表情が。
はっきりと、嫌そうな顔だった。一瞬だけ眉根を寄せて、あの可愛らしい顔が少しだけ歪んだ。俺は見逃さなかった。
そして俺の脳はかつてないほどフル回転する。俺に関心がないかのように振る舞い、心なしか冷めた目をしてどんなときにも冷静さを失わないラエルが、ドロシーの話をしたときだけささやかな嫌悪感を表す。何がラエルの表情を歪ませた? ラエルの心を動かしたのは何だ? もしかして俺がドロシーの話をするのが嫌だったのか? 何故だ? 嫉妬か?
嫉妬。
心の中を、甘美な優越感が満たしていく。震えるような恍惚感。その甘い毒にすっかり魅了された俺は、それから事あるごとにドロシーの話をするようになる。
ドロシーの名前を出すたびに、ラエルは一瞬だけ眉根を寄せる。顔を少し歪める。俺にはまったく心を開いてくれないことへの苛立ちをぶつけて溜飲を下げると同時に、嫉妬されているといううっとりするような優越感に浸ることができる。傷つけられた自尊心が癒されるのを感じることができる。
そうしてラエルを蔑ろにし、言葉だけではなく行動でもドロシーを優先するようになっていく。何かと理由をつけては頻繁にドロシーに会いに行くと、次第にドロシーも俺に明らかな好意を寄せるようになる。俺が顔を見せると無邪気に喜ぶその姿に、ドロシーの方が可愛いじゃないかと思う日さえあった。
クレイトン子爵家はあまり裕福とはいえず、そうこうしているうちにドロシーは大きな商家に嫁がされることが決まる。相手とはかなり年が離れていて、しかもドロシーは後妻になるという。ほとんど身売りのような結婚である。
その話が決まったとき、ドロシーは「そんなところにはお嫁に行きたくない」と泣き出した。「本当はバルズが好きなの」と、「離れたくない」と、そして「最後の思い出にあなたの情けがほしい」と目に涙を浮かべた。弱々しく腕に縋りつかれたとき、もう俺に躊躇する理由はなかった。
その後ドロシーの妊娠が発覚し、俺はラエルとの婚約をあっさり解消した。迷いはなかった。一度肌を合わせたことで否応なくドロシーに溺れてしまい、すぐさまドロシーと婚約を結び直した。ドロシーこそが俺の『真実の愛』だったと豪語し、それを信じて疑わなかった。
ただ両親としては、子爵令嬢のドロシーが伯爵家夫人としての務めをきちんと果たせるのだろうかという危惧があったらしい。ラエルは伯爵令嬢だし、学園でも成績優秀だと知られていたからそんな心配はなかったのだ。俺は問題ないと主張したが、聞き入れられなかった。両親の判断で、ドロシーには婚約後すぐ我が家の執事から事業や領地経営に関する夫人教育を受けてもらうことになった。
ところが、である。ドロシーはこの執事の教育にまったくついていけなかった。
ドロシーの学園での成績や令嬢としての教養について気にしたことがなかった俺は、衝撃を受けた。執事に言わせれば、目も当てられないほどのレベルだったらしい。一方でドロシーは「執事が怖い」「ひどいことばかり言う」「すぐラエル様と比べる」「これではお腹の赤ちゃんに障る」などと弱音を吐き、文句を言い、執事からの教育を回避するようになる。
お腹の子に何かあってはいけない。そう思って執事の夫人教育を中断させようとした矢先、今度は妊娠が嘘だったことが判明する。
これには関係者全員が愕然とした。茫然自失とはまさにあのときのことを言うのだろう。当然のようにクレイトン子爵家も巻き込んで大騒ぎとなった。でも俺は一度ラエルとの婚約を解消しているし、ドロシーとそういう関係にあるということはバレてしまっているから今更この婚約をなかったことにはできない。
そんな中、さらに追い打ちをかけるような事態が我が家を襲う。事業の経営状況が悪化し、収益の減少どころか莫大な負債を抱えることになりそうだと父親から知らされる。ラエルとの婚約を解消したことで段階的にプレスタ家との業務提携も終了することになっていたが、どうやらそのことが背景にあるらしい。
父親には、何もかもお前のせいだと何度も責められた。確かにラエルとの婚約を解消してから、すべてが悪い方に転がっている。カルソーン家も俺自身も八方塞がり。にっちもさっちもいかない状態に陥っていた。
◇◆◇◆◇
父親が出て行って、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
今度はカツン、カツン、と階段を下りる靴音がする。気づくと見張りの騎士団員の姿も見えない。
「こんなところにいるなんて、物好きね」
嘲笑うように、甲高い声が響く。
「二度も失敗するなんて」
冷笑に我慢できず、俺は語気を強めた。
「あなたのせいですよ!」
「私?」
「ラエルと殿下の婚約は嘘だと言ったじゃないですか! 何か事情があって婚約したふりをしているだけだと、ラエルは本当は俺のことが好きなんだと」
「そうよ。あんなのが殿下の婚約者だなんて、おかしいじゃない。きっと何か裏があるに決まってるわ」
「でもラエルは俺の話に聞く耳を持たないし、殿下だってあんなにラエルのことを――」
「私は認めないわ。あれは演技よ。いえ、殿下もきっと、騙されているんだわ。何か特別な事情があって、あんなのとの婚約を強いられているに違いないもの」
鉄格子の向こうで独り言ちながら、落ち着かない様子でその人が爪を噛む。そして不快感を露わにしながらこちらを睨みつける。
「あなただって、このままでいいの?」
「え……」
「このままじゃ、彼女は殿下のものになってしまうわよ? それでもいいの?」
「そんなこと言ったって……」
不意に、カチャカチャと音がした。
何故なのかどういうわけなのか、目の前の令嬢は鍵の束を手にしている。そして、いとも簡単に貴族牢の鍵を開けてみせる。
「もう一度、チャンスをあげるわ。彼女を殿下から奪いなさい」
「そんな……。どうやって……」
「私の言う通りにすればいいのよ。そうすれば、あなたは一番ほしいものを手に入れられるわ」
……俺の、一番ほしいもの。
かつてはすぐ手の届く場所にあったあの冷ややかな焦茶色の目を思い出し、俺は美しくも不気味な笑みに誘われるように、ふらふらと牢を出た。
驕れる者も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし