11 以和為貴
誤字報告本当にありがとうございます!
(あまりにも重大なミスで我ながらびっくりしました汗)
王宮の一室、初めてアレゼル様に『運命の乙女』の話を聞かされたあの応接室に連れてこられたのはいいとして、アレゼル様はほとんど言葉を発することなく、そのくせ私のそばから一向に離れようとはしない。ソファの隣に座り、私の右手を握ったまま。しかも、いつもの優しく触れるような握り方ではない。アレゼル様のしなやかな長い指が、私の指をからめとって離さない。
侍女が手際よく紅茶を運んできてくれて、その湯気を見たらなんだかほっとしてしまった。
「ラエル。大丈夫か?」
努めて平静を装っているアレゼル様の緊張が、指先から伝わってくる。
「はい。もう大丈夫です」
「……怖かっただろ?」
苦しげな声は、明らかに激しい自責感に囚われていた。
「驚きましたけど……。でもハラルド様に教わっていた護身術が役立ちました」
「まさか本当に使う日がくるとはな」
そうなのだ。
前回のバルズ様の襲撃以降、「何かあったときのために」とハラルド様が前もって護身術を伝授してくれていた。「手首を掴まれたとき」とか「後ろから襲われたとき」とかいくつかのパターンを想定し、興味津々で面白がったエリカと一緒に練習を重ねていたのだ。
ちなみにこの練習、実を言うと密かに困難を極めるものとなった。何故なら暴漢役を引き受けられる人がいなかったから。
そもそもアレゼル様は、保健室での一件を知らない。だから最初は何故護身術を学ぶ必要があるのかと訝しがった。ハラルド様が何とかうまく誤魔化すことに成功し、いざ練習しようと思ったら今度は「ラエルに触れるのは許さん」とか無茶苦茶なことを言い出す。
じゃあ、誰が暴漢役に? となったら「俺がやる」と言い出して、さすがにそれは私もやりにくいし下手したらアレゼル様に怪我を負わせかねないからおやめくださいとだいぶ説得したけど無理だった。結局アレゼル様相手に護身術を練習することになってしまい、毎回冷や汗をかいていたことは内緒である。当のアレゼル様は楽しそうだったけど。そりゃあね。後ろから抱きつくパターンのときとか、ちょっとノリノリだったもの。言わなかったけど。
そうした練習の成果を、まさか本当に発揮できる日が来るとは思わなかった。でもまあ、いざというときうまくできたのは教え方が的確だったハラルド様のおかげである。さすがは次期騎士団長。有能すぎる。
「俺がそばにいたのに、ラエルに怖い思いをさせるなんて……」
護身術のおかげで何事もなかったとはいえ、アレゼル様にとっては屈辱的でさえあったのだろう。悔しげに眉を顰めながらつぶやいて、こちらを見ようともしない。
「アレゼル様のせいじゃありませんから」
「……俺が嫌なんだよ。ラエルを怖がらせただけじゃない。あのクソ野郎、ラエルに触れたんだろ? 考えただけで反吐が出る」
強い言葉に思わず身構えると、アレゼル様は慌てたように握る手の力を強めた。
「違う、ラエルに怒ってるんじゃない。あいつがしたことを考えると、頭がおかしくなりそうで……。誰にも触れさせたくないのに……!」
泣きそうで、苦しそうで、少し震えるアレゼル様はまるで手負いの獣だった。その頬に、握られていない方の手を伸ばす。そっと触れたら、アレゼル様は予想外にびくっとした。
「私に触れられるのは、嫌ですか?」
「そんなわけないだろ? でもラエルに触れるともっと触れたくてそれしか考えられなくなるから、これでもずっと我慢してんだよ」
「え、そうだったのですか? 別にいいのに」
「は?」
「え?」
自分の口を衝いて出た言葉にもアレゼル様の反応にも驚いて、頬に触れていた左手を引っ込めようとした。でもその手を逃がすまいと、アレゼル様がすかさず捕らえる。私の両手は、どちらも逃げ場を失った。
「嫌じゃ、ないのか?」
「嫌じゃないです。触れられたいし、私も触れたいです」
「ラエル……」
「この際なので、今日お話ししようとしていたことを話してもいいですか?」
「え……っ」
なんとなく甘い雰囲気になりそうだったのを無情にも方向転換されて、アレゼル様はまごついた。しかも何の話をされるのかわからないから、怯えてもいる。
バルズ様の騒動ですっかり忘却の彼方になっていたけれど、今日はアレゼル様に大事な話をしなければと意気込んで来たんだもの。
両手をそれぞれ握られているせいで妙に近い距離感にどぎまぎしながら、私は覚悟を決めた。
「単刀直入に言いますね。私、アレゼル様がディアドラ殿下のお話をされるのが嫌なんです。最初はそうでもなかったんですけど、今はすごく嫌なんです」
「は?」
「アレゼル様が、ディアドラ殿下のことをなんとも思っていないことはわかっています。単なる友人の一人だと思っているからこそ、私の前で気にせずお話しされることも。でも、わかっているけど嫌なんです。アレゼル様がもともと婚約していた方だってだけでももやっとするのに、とても楽しそうにお話しされるじゃないですか」
「いや、そんなつもりは……」
「わかっています。でも嫌なんです。これはただの、やきもちです」
「え? やき、やきもち?」
あまりにも、あまりにも思ってもみないことだったのだろう。アレゼル様の目が点になっている。
「そうです。やきもちです。やきもちを焼くほど、アレゼル様のことが好きになっていたんです」
「え……、えっ……!?」
「それでディアドラ殿下の話をされるたびにもやっとして、知らないうちにアレゼル様のことを『殿下』と呼ぶようになって、でも自分なんかがアレゼル様を好きになるなんて厚かましいとかあれくらいでやきもち焼くなんて心が狭すぎるとか思って――――」
「ラエル」
私の言葉を遮るアメジストの目に、期待と困惑の色が浮かぶ。何か言いかけて静止し、しばらく逡巡したあと恐る恐るといった様子でアレゼル様が口を開く。
「今、俺のことを好きだと……?」
「言いました」
「ほんとに?」
「はい」
開き直って平然と答えると、「まじか」とか「まさか」とか「ほんとに……?」とか、一人で確かめるようにぶつぶつ繰り返すアレゼル様。それからだんだん、微妙に頬が緩んでいく。
その緩んだ頬のまま、目つきだけは真剣さを纏わせて私の顔をじっと見つめる。
「その……、悪かった。そんなふうに思ってたなんて知らなくて……」
「いえ。私も言いませんでしたから」
「ラエルがずっと、何か思い悩んでるんだろうなとは思ってたんだけど……」
「また『殿下』と呼ぶようになっていたからですか?」
「それもあるが……。少し前から、ラエルのオーラの色がどんどんくすんだ色になっていたから」
「オーラの色?」
突拍子もない単語が出てきた。オーラの色? オーラの色って、くすむの?
「前にも話しただろ? オーラの色味は生涯変わらないが、その人の感情状態で色鮮やかになったり沈んだ色になったりするんだって。ここしばらく、ラエルのオーラの色がくすんで濁っていた。最初は急激な環境の変化や王太子妃教育なんかで疲れてるんだろうと思ってたんだけど……。そのうち、もしや俺との婚約が嫌になったんじゃないかと……。それが怖くて、ずっと言い出せなくて……」
「え、オーラの色でそんなこともわかるんですか?」
「わかるさ。特に『運命の乙女』のオーラは強烈だからな。色がくすんだり濁ったりするとすぐわかる」
「それで、私がアレゼル様との婚約を嫌がってると思ったのですか?」
「ほかに思い当たることもなかったし、この婚約は俺の方が言い出した一方的なものだからな。『運命の乙女』だからという理由だけで婚約を強いたわけだし、王族からの命に逆らうなんてできないだろ? それに、自分では自制しているつもりでもどうしてもラエルへの気持ちが抑えられなくて、いよいよ君も鬱陶しく思うようになったんじゃないかって……」
だんだん勢いをなくして小声になるアレゼル様を見ていたら、なんだかおかしくなってきた。
結局私たちは、お互いがお互いを想う気持ちを暴走させたり閉じ込めようとしたりして、見当違いな拗らせ方をしていたということか。
ちゃんと話をしてみたら、なんとも単純なことだったのだ。
「ディアドラのことは、その、ほんとに悪かった。これからは絶対に言わない。もう金輪際、一切言わないから」
「そこまでは求めていないのですが……」
「いや、ラエルが嫌がることはもう絶対にしたくない。これからも嫌だとかつらいとか思ったらすぐに教えてくれ。全部改めるから」
「それも多分、100%というのは無理かと……」
「でも」
「アレゼル様。私たち、致命的に言葉が足りなかったと思いませんか? 私のやきもちも、アレゼル様の不安も、素直に話せていたらよかったんです。そうしたらもっと早く解決できていたとは思いませんか?」
「それは、そうかもしれないが……」
「だから、これからはもっと素直に、たくさんのことを話しましょう? 解決できることもそうでないこともあるとは思いますけれど。でも私だって、アレゼル様の憂いを払いたいのです」
からまる指に、力が入る。アレゼル様のアメジストの目に、甘やかな熱が宿る。
「ラエル」
「はい」
「もう一度聞くが」
「はい」
「本当に、俺のことを好きでいてくれるのか?」
「はい。アレゼル様が、好きです」
「俺も好きだ。前よりもずっと、一緒にいればいるほどどんどん好きになってる。もしも君が『運命の乙女』でなかったとしても、きっと俺はラエルのことを好きになっていたよ」
アメジストの瞳が、甘く優しく蠱惑的に煌めく。
その紫水晶がゆっくりと近づいてきたのを合図に、私はそっと目を閉じた。
「以和為貴」は「和を以て貴しとなす」という意味の造語です。