とある傭兵のお話
久しぶりの投稿で、人を選ぶ感じのお話で失礼いたします。
ボーイズラブを名乗っていいものか、という感じです。
よろしければご覧くださいませ。
「置いて行かないで」
素直にそう言えたなら、何かが変わっただろうか。
それとも、何も変わらなかったのだろうか。
誰も、俺に答えなどくれない。
***
「いってぇ……」
視界いっぱいに広がる青空に疑問符を浮かべながら、俺は体中の痛みに呻いた。
えぇと、どうして俺は倒れてるんだっけ。
冷たい石畳の上で体を起こすと、クラクラする頭を精いっぱい回転させて状況を把握しようと努める。
そうだ、俺はいつものように大通りを歩いている人間を物色していたんだ。そうしたら、白髪混じりの無精髭を生やした、冴えない年配の男が目に入った。のろのろと歩いているうえに、着ている服は古いがそれなりに上質な仕立てのようだから、格好のカモだと思って……。
目当ての爺に向かって駆け出して、ぶつかったふりをして財布をすろうとした。いつも使う手口だ。なのにこのザマは何だ。
「坊主」
しゃがれた声が降ってきたかと思えば、体がふわりと浮かび上がった。襟首の後ろを掴まれ、まるで猫の子のように持ち上げられたようだ。そのせいで首が絞まって喉から「ぐぇっ」とカエルが潰れたような声が漏れ出た。
「相手が悪かったな」
怒鳴られるかと思えば、爺は俺の顔を覗きこんで面白そうに口の片端を上げた。老体に似合わぬ怪力の持ち主は、何を思ったのか、俺を軽く肩に担ぎ上げてズンズンと歩き出した。
「じじい!何すんだ、離せよ!!」
自警団にでも突き出されるのかと戦々恐々で暴れ回ってみるが、老人とは思えないほどの強固な拘束はびくともしない。
なんとか抜け出そうと背中を殴って抵抗する俺を、爺は尻へのきつい一撃で黙らせた。痛すぎてちょっと涙が出た。
「いつもこんなことをしてるのか?思わず投げ飛ばしてしまっただろうが」
「こんなことでもしねぇと生きてけねぇだろ」
真っ当な説教を受けて、俺はぶすりと唇を尖らせた。
親の顔も覚えていない俺に、庇護者などいない。スリで小金でも稼がないと、今日食べるものにさえ困る生活なのだ。
絶えず起こる戦のせいで、国はそれほど豊かではない。それなりの規模のこの街でも、まともな仕事にはなかなかありつけない。そもそも、身元不明で礼儀も知らない、ましてや、いつ商品や売り上げを盗んで逃げるかも分からないようなクソガキを雇ってくれる親切な店など見つかるわけもない。
「……やってらんねぇ」
俺のぼやきは宙に消え、やがて街の外れに辿り着いた。粗末な建物の裏手にある井戸の前に連れて行かれ、やっと下ろしてもらえたかと思うと、服を剥かれて頭から水をぶっかけられた。
「冷たっ!?この季節に何考えてんだ!!じじい、ボケてんのか?!」
「だってお前、きったねーからさぁ」
当たり前だ。家もない孤児が小綺麗な訳がない。
「やめろ、やめろ!こんの、ボケカス!!ハゲ!!」
「禿げてはないな」
寒空の中、冷たい水で雑に丸洗いされた俺は、歯の根が合わないながらに震える声で思いつく限りの罵倒を爺に浴びせた。爺は気にした様子もなくカラリと笑った。
最後には寒さのあまりブルブル震えて口を閉ざした俺の様子に大笑いした爺は、びしょ濡れの俺をまた担ぎ上げて、古ぼけた扉を開いて部屋の中に入った。棚から引っ張り出した布で俺をぐるぐる巻きにすると、爺は濡れた自分の服を脱ぎ捨てた。
「じじい……何者だ?」
「なぁに、ただの流れの傭兵さ」
老人の体は鋼のような筋肉で覆われ、どこもかしこも傷だらけだった。顔に刻まれた皺を色濃くしてくしゃりと笑う爺は、歴戦の強者だったのだ。
「じじいじゃなくて、ギュンターさんと呼べ」
「ギュンター」
「呼び捨てかよ」
豪快に笑ったギュンターは、新しい服に着替えると、寒さに震える俺を膝の上に抱え上げ、ゴワゴワした布で濡れた髪をガシガシと拭いてくれた。乱暴な手つきだったが、人にこんな風に世話を焼いてもらったのは生まれて初めてのことで、腹の奥がムズムズしてすわりの悪い気分だった。
裸の俺にサイズの合わない服を着せると、ギュンターは俺を外に連れ出した。行き先は飯屋だった。
「食え。お前は痩せすぎだ」
誰かに盗られる心配のない、温かい食事にありつけたことなんて、記憶の中で一度もない。
「こんなことされても、何も返せねぇぞ」
疑いの眼差しを向けると、ギュンターは白い毛の混じった片眉を跳ね上げてこちらを見返してくる。
「お前みたいなガキに見返りなんざ求めねぇよ。まぁ、いらねぇなら誰かにやるか」
ひょいと皿を持ち上げたギュンターの腕を慌てて掴み、奪い取った皿の中身を急いでかき込む。
「お前、名前は?」
「そんなもんはねぇよ」
いつ野垂れ死ぬか分からないガキに、名前をつける奴なんかいない。そもそも、名前を呼ばれる機会さえなかった。
「そうか。それなら、お前をディルクと呼ぼう。俺の大切な友の名だ」
「勝手にしろよ」
ぶっきらぼうに返事して、嬉しさに滲んだ涙は、急いで食べて喉が詰まったせいにした。
***
食事の後でそのままギュンターの家に泊めてもらった俺は、翌朝、日に照らされた部屋の中で腕組みをしていた。
街の外れであまり人が寄り付かない場所にポツリと建った家の中は、よく見るとそこら中がホコリだらけだった。
「なぁ。この部屋、前にいつ掃除した?」
「知らん」
細かいことが気にならないらしいギュンターの代わりに、勝手に部屋を掃除する。ほうきや塵取りなんてもちろん、ろくな掃除道具がないので、ボロ切れであちこち拭き回ったが、尋常じゃない量のホコリが溜まっていて、ちょっと引いた。
人の家や店の掃除をして駄賃を稼ぐこともあった俺は、掃除の腕はそこそこだ。
「お前、よく働くなぁ」
掃除に勤しむ俺を他人事のように眺めてギュンターはカラカラと笑った。よく笑う爺だ。
「ほぅ、綺麗になるもんだなぁ」
ひとまず一通り拭き終わった部屋の中を感心したように見回すギュンターの横で、俺が次に目をつけたのは寝台だ。昨夜は黙って寝たが、控えめに言ってもかなり汗臭い。
「この敷布って洗濯してるか?」
俺が敷布の端を摘んでギュンターを振り返ると、ギュンターは白髪混じりの無精髭が生えた顎をさすりながら「さぁ?」と首を傾げた。
「なにせ洗濯しても干すとこがねぇからなぁ」
「アホか!そんなもん、あの木と木の間に縄でも張ればいいだろうが!」
窓から見える、井戸の横に生えた木を二つ指さして怒鳴りつけると、ギュンターはこたえた様子もなく破顔した。
「へぇ、お前は頭がいいなぁ」
これまた他人事のようにヘラヘラ笑うギュンターの背中を蹴り飛ばして、汗臭い敷布を寝台から剥がすのを手伝わせる。汗臭い敷布に顔を顰めながら、井戸から汲んだ冷たい水でガシガシと洗った。匂いはマシになったが、長年の使用で染みついた黄ばみはどうにも取れなかった。
一仕事を終え、パタパタと風になびく敷布を眺めながら、冷え切った手に息を吹きかけていると、建物の裏手から物音がした。覗いてみると、ギュンターが剣の素振りをしている。こちらには気づいていなさそうだ。
悪だくみを思いつき、地面に落ちていた手頃な長さの枝を拾う。素振りに集中しているギュンターの背後に忍び寄ると、枝を振りかぶって飛びかかった。
「隙あり!」
「甘い」
簡単に避けられ、出会った時のように首根っこを掴まれる。つまらなくて頬を膨らませると、地面に下ろされて剣を模した木の棒を渡された。
「俺に一発当てたけりゃ、ちょっと精進しろ」
俺を脇にやると、ギュンターはまた一心不乱に剣を振り始めた。ギュンターを真似て木製の剣を握り、彼の隣に並んだ。見よう見まねで振ってみたら、目を細めて「筋がいい」と褒められる。
こうやって、何かをして認めてくれる相手なんて、今までギュンター以外にいなかった。頰が緩んでにやけそうになるのを我慢して、真剣な風を装って木の剣を振り続けた。
日が暮れて、夕飯時。食卓に並ぶ食事は質素だ。
「肉が少ない」
「馬鹿者。贅沢は敵だ」
こんな食事でどうやってあの体を保っているのだろう。俺のせいで取り分が減ったのだろうが、ギュンターは楽しそうに少なめの食事を摘んだ。
久方ぶりの洗濯でサッパリした敷布が敷かれた寝台の、ギュンターの隣に潜り込む。
「ギュンターは、じじいのくせにあたたかい」
「おい、蹴り出すぞ」
ギュンターは体温が高くて、くっついて横になると、寒いこの季節でもぐっすりと眠れた。
それから何日経っても当然という顔をして図々しく居座る俺を、ギュンターは追い出そうとはしなかった。ただ、一つだけ約束させられた。
「俺のことは待つな」
訳が分からず首を傾げる俺の頭をガシガシと撫で回して、ギュンターは続けた。
「俺はいつ帰れなくなるか分からない傭兵の身だ」
俺は言葉の意味を悟って、俯いて歯を食いしばった。やっと居場所を見つけたつもりになっていた俺にとって、考えたくもない未来だった。
「じじいのくせに、まだ戦えるつもりかよ」
顔を上げずに憎まれ口を叩く俺の頭を、ギュンターのかさついた手のひらが優しく撫で回した。
***
ギュンターとたわいもない言い合いをして、穏やかすぎるほどに平和な日々を過ごした。まるでずっと昔から一緒にいたかのように、ギュンターの傍は居心地が良かった。
「また脱ぎ散らかして!脱いだ服はこのカゴに入れるって決めただろ!」
「お前、口うるさい女房みたいだなぁ」
「だ、誰が女房だ!!」
だらしのないギュンターの尻を叩いて、毎日部屋を綺麗に掃除して片付けた。ギュンターはくるくると働き回る俺を面白そうに眺め、暇ができれば生きる術を俺に叩き込んだ。
「そんな振り方じゃ、すぐやられるぞ」
「ふっ、くっ」
「ほら、足ががら空きだ」
「いってーー!!」
剣の扱いを、戦う術を。
「ほら、見ろ。木についたこの爪痕は、子連れの熊のものだ。警戒しろよ」
「もし出会ったら?」
「向こうは子を守るため気が立っている。敵わないなら必死で逃げるんだな」
街の外に出て、野山の歩き方を。
「この草の根は肉と一緒に炒めると美味い」
「これも同じ?」
「それはよく見ると葉先が黒いだろ。違う草だ」
「食ったら?」
「三日は腹を下すな」
「うげ」
食用の植物の見分け方を。
「動きが素早い獲物は、まず足を狙え」
「ぅぐっ」
「ほら、油断してたら角で一撃食らうぞ」
「っがーー!助けろよ!!」
「修行だ、修行」
動物の狩り方を。
「まず、獲物が生きているうちに血を抜け」
「次は?」
「ザッと洗ったら腹をかっさばいて内臓を取り出す。手早くな」
「説明が雑」
「文句が多いな。とにかく見て覚えろ」
獲物の捌き方を。
「ディルク、はこう書く」
「……ギュンターは?」
「自分の名前を一人で書けるようになったら教えてやる」
最低限の読み書きを。
「角ジカなんかの大物を売るなら、市場より商店街の肉屋の方だな」
「ふーん、いくらになる?」
「狩った後の処理が影響するな。お前の腕なら、まぁ安く叩かれるだろうなぁ」
「うっせ」
「何事も慣れだ。俺のやり方をよく見ておけよ」
余った獲物を換金する手段を、金の勘定を、交渉のやり方を。ギュンターは自分の持つ生きる術のすべてを俺に叩き込んだ。
「今日はご馳走だ!」
「ほれ、たんまり食え」
「ギュンター、調子に乗って飲みすぎんなよ」
狩りがうまくいった日の食卓は、獲物で豪勢に彩られた。
俺の名前の元になった、ディルクの話も聞いた。
「あいつは人柄がいいことだけが取り柄の、貧乏領主の倅でな。徴兵免除の金を払ってもらえず俺と一緒に戦に行った」
「徴兵免除?」
「貴族様はな、金さえ払えりゃ自分が戦いに出ることなんかないのさ」
「……クソ食らえ」
吐き捨てるように言った俺の頭を、ギュンターの手がかき回す。
「世の中はそんなもんだ。ディルクは、貴族と思えない人の良さで、ろくな生き方をしてなかった俺なんかを友と呼んだ」
「その人は今、どうしてんの?」
俺の無邪気な問いかけに、遠くを見るような目でギュンターは寂しそうに笑った。
「死んだよ」
「……!」
「鈍臭くて臆病なくせに、足を滑らせた俺を庇って刺されてなぁ。どこまでも人がいいあいつは、俺が無事でよかった、なんて呟いて笑って逝ったよ」
懐かしむように、慈しむように、ギュンターは言葉を紡ぐ。
「本当に馬鹿な奴だ……」
ギュンターの声があまりに辛そうだったから、少しためらった。でも、数日前に見かけた光景が思い浮かんで、聞かずにいられなかった。
「……俺じゃないディルクには、奥さんと子どもがいた?」
「お前、俺の後をつけてたのか」
数日前、ギュンターは俺に留守番をするように言いつけて家を出た。軽い好奇心で俺はその後をこっそり追いかけた。
街の中心にある住宅街の端っこの、小綺麗な一軒家を訪れたギュンターは、上品そうな婆さんに重そうな布袋を手渡していた。
「あの婆さんが、ディルクの奥さん?」
「あぁ……」
ギュンターは顔をくしゃりと歪めて無理やり笑った。
「もういいんですよ」「子どももとうに独り立ちしました」と何度も断る婆さんに、無理やり布袋を渡してギュンターは深々と頭を下げた。
腕の良い傭兵の稼ぎはなかなかだと、スリの仲間に聞いたことがある。あまりにも質素なギュンターの暮らしぶり。きっと、今までに得た報酬の大半をあの婆さんに渡してきたんだろう。
『ディルク』がいつ死んだか知らない。でも、ギュンターはずっと自分を許せずにいるんだろう。
不器用に笑うギュンターを椅子に座らせて、後ろからぎゅうと抱きついた。いつもギュンターが俺にやるように、その頭を撫で回した。
***
ギュンターと共に暮らすのは、言い様もなく楽しくて、俺はもう前の生活には戻れそうもなかった。
盗んで隠れて。真面目に働いたとしても蔑まれて、ひたすらに耐えて。ただ意味もなく、生にしがみついていただけ。今となっては、考えただけでゾッとする。
だが、そんな穏やかな日々がずっと続けばいいという、ささやかな願いは叶わない。異変は少しずつ、すぐ近くまで忍び寄ってきていた。
「最近、見慣れない人間が増えた」
「あぁ、そうだな」
市場を歩くと、細い路地のあちこちでくたびれた服装の人たちが疲れたように座り込んでいるのを見かける。少し前は自分の庭のようだった路地裏には、見知らぬ人間が行き交っていた。
「検問?一週前にはそんなものなかったのに」
「仕方ない。ディルク、帰ろう」
街の出入りは、持ち物検査など、厳しく取り締まられ、気軽に狩りや散策に出かけることができなくなった。
平和な日常には、あっけなく終わりが告げられた。少しの間落ち着いていた、隣国の侵攻がまた始まったのだ。
「小麦の値段がまた上がってた」
「……」
国境から少し離れたこの街ですら、影響は大きかった。
ギュンターの顔からは笑顔が消え、難しい顔で黙り込むことが多くなった。
一緒に暮らし始めて数ヶ月が経った頃、傭兵ギルドには徴兵の知らせが舞い込み、ギュンターも出兵することになった。
「約束は覚えてるな」
俯いて顔を上げられない俺の頭を、ギュンターはいつものようにガシガシと乱暴に撫でた。
「この家も、家にあるものも全部お前にやるよ」
そんなもの、いらない。雨風を防げる家があったって、ギュンターがいなければ何の意味もない。
そう泣き喚いて訴えたいのに、喉がひきつって声が出ない。
「じゃあな」
短い言葉と共に、そっと頭から温もりが離れる。
そんな、神妙に別れなんか告げないでほしい。いつもみたいに豪快に笑って、すぐに帰ってくるって言ってほしい。
俺は何も言えずに、ギュンターの背中をただ見送って、小さくうずくまった。
一緒に過ごした数ヶ月の間、ギュンターはよく笑っていた。だけど、ふとした瞬間、その顔には暗い陰がよぎる。
『ディルク』に対する贖罪の日々を生きるギュンターにとって、俺と過ごした穏やかな日々は、苦痛を伴うものだったのだろうか。
ギュンターの温もりなしに一人で眠る寝台は、冷たくて広すぎて、俺は何度も枕を涙で濡らした。
ギュンターが戦へと旅立った数ヶ月後、俺はギュンターの昔なじみだという傭兵から、彼の訃報を聞いた。
ギュンターは、自分が帰れないことを知っていた。
───いや、ギュンターはきっと、この家にはもう帰るつもりがなかったのだ。
***
ギュンターの家には、それなりの金額のお金が残されており、ありがたいことに当面の生活には困らなかった。
ギュンターの蓄えが底をついても、彼から学んだ知恵が俺を助けた。
幾年かの月日が流れ、俺もまたギュンターと同じく傭兵となった。戦乱の世で、身寄りも学も信用もない俺には、その選択肢しかなかった。ギュンターに筋がいいと褒められた通り、鍛え続けた俺の剣の腕前はかなりのものになった。
隣国との戦いはいまだに終わりが見えず、仕事には困らなかった。傭兵は使い捨ての道具にされることがほとんどだったが、危険がある分、報酬は悪くなかった。
戦に赴いた者の多くは、戦場で斃れ、故郷に帰れなかった。
初めての戦場で人を殺した日に、眠れぬ夜を共に過ごした奴も。
助けた礼にと、豪勢な飯をご馳走してくれた奴も。
「お前にだけは負けん」と、やたら俺を目の敵にしてきた奴も。
俺の名前の元になった、ギュンターの友であるディルクも。
そして、ギュンターも。
俺は戦場を駆け抜けて、無心で敵を殺しに殺した。それしか生き延びる術はなかった。ギュンターが俺に遺した、あの家に帰ることだけが心の支えだった。
戦場から生き延びると、興奮のせいで性欲を持て余すことが多い。それなりに整った顔と、鍛え上げた身体のおかげで、性欲発散の相手には困らなかった。女も男も、数えきれないほど抱いた。
俺もいつ帰れなくなるか分からない身だったので、特別な存在だけは作らなかった。家庭など、とても持つ気にならなかった。後に遺されるということが、とてつもない苦痛を伴うと、身をもって知っていたからだ。
だが、歳を取ってくると、だんだんと体力と性欲は衰え、ふとした瞬間に物悲しくなることがある。クソガキだった俺を拾ったギュンターの気持ちがなんとなく分かる気がする。
俺は気まぐれで、戦場から帰る度、街の教会に併設された孤児院に報酬の一部を寄付するようになった。ギュンターのように個人的に誰かの世話をする気にはならなかったが、静まり返ったあの家以外に居場所が欲しかったのかもしれない。
「お前、何が目的だ」
幾度目かに孤児院を訪れ、シスターにお茶をご馳走になった帰り、小さな影が俺の行く手を遮った。幼いながらにやたらと整った顔立ちの、ギラギラと鋭い目つきの少年だった。
絹のような銀髪に、深みのある碧い瞳。この容姿だ、今までろくな扱いを受けてこなかったのだろう。一目で、大人を信用していないのがよく分かった。
「目的なんかねぇよ」
「金持ちは、見栄のために教会に寄付してくる。でも、お前は違う」
「まぁ、そうだな」
一傭兵なんかがお目にかかったことなどない上流階級の人間は、慈善活動として教会に寄付することが多い。俺とは無縁の話だ。
「お前は傭兵のくせに、何のつもりだ」
「別に何も見返りなんざ求めてねぇよ」
いつかの、出会ったばかりのギュンターと自分のやり取りを思い出して、ふっと笑いが漏れた。
「坊主。お前、名前は?」
「……ユリウス」
警戒が浮かぶ眼差しで、それでもこちらを真っ直ぐ見つめてくる少年に思わず昔の自分を重ねた。
「ユリ坊、今度来る時は飴玉でも買ってきてやろう」
「だっ、誰がユリ坊だ!!」
ガシガシと頭を撫でてやると、ユリウスは顔を真っ赤にして怒った。
***
「ディルク!お前、また来ていたのか。暇人だな」
孤児院を後にしようとしていた俺の姿を見つけたユリウスが、勢いよく駆け寄ってくる。そっけない言葉選びと、喜びが隠せていない表情が噛み合っていないのがおかしくて、笑いが出てくる。
「おぅ。ユリ坊、大きくなったな」
「その呼び方、やめてくれない。俺、もう十四なんだけど」
「俺から見たら、まだまだ坊主だ」
随分高い位置になった頭を、皺が増えた手でガシガシと撫でると、頬を赤く染めたユリウスが俯きがちに口角をヒクヒクさせた。照れと喜びが混じった複雑そうな表情だ。
「ほら、飴玉だ。やろう」
「ガキ扱いはやめろと言っているのに」
不満を隠さない様子のユリウスの手に、無理やり土産の飴玉を握らせる。仕方なさそうに飴玉を口に放り込むユリウスは、その態度とは裏腹にかなりの甘党だ。仕方なさそうな態度を見せているが、嬉しそうに目が輝いている。まだまだ子どもだ。
シスターから話を聞いたところ、ユリウスは孤児院で年下の面倒をよく見る大人びた少年らしい。俺の前では年相応の子どもらしい一面が垣間見えるのだと、嬉しそうにシスターが語るのを聞いて、俺は彼を構ったことを少し後悔した。
自分の経験で、ほんの少しの時間を共に過ごした相手がかけがえのない存在になり得ると知っていたはずなのに。それでも、心を開く数少ない相手に俺を選んでくれたユリウスを邪険にすることもできないでいた。
俺の存在は、ユリウスの心の傷になってしまうかもしれない。俺が、ギュンターと過ごした、たったの数ヶ月を今でも決して忘れられないように。
歳を取った自分の剣技が衰えていることは薄々感じていた。何度目か分からない徴兵の知らせを受けた時、これが最後の戦になるだろうと思った。
「ディルク……また、戦に行くのか?」
シスターに出兵前の挨拶をした帰り、あえて別れの挨拶を避けていた俺を見透かすようにユリウスが待ち伏せしていた。
「俺にはそれしかできねぇからな」
「もう、いい年なのに」
「大きなお世話だ」
いつものように、ため息混じりに減らず口を叩くユリウス。その頭をいつものように撫でようとした手を引っ込めて、固く握りしめた。
「ユリウス。俺を待つなよ」
俺に待つなと言ったギュンターの気持ちが痛いほど分かる。ユリウスに辛い気持ちをさせたくて、彼を可愛がった訳ではないのだ。
ユリウスの、大人など誰も信用できないというような態度が、ギュンターに出会う前の自分を見ているようで悲しかった。彼がただ、何の憂いもなく楽しい時間を過ごせるようになるといいと思った。
ただ、ユリウスの幸せを願っただけなのだ。
「嫌だ!!戦なんか、行くな……!!」
勢いよく飛びついてきたユリウスが、ドンと俺の胸を強く叩いた。
思いのほか強い言葉が返ってきて、俺は言葉を失った。俺を見上げるユリウスの澄んだ瞳から、ぽろぽろと美しい涙がこぼれる。
「絶対に待ってるから、絶対に生きて帰ってこいよ!!」
あぁ───これは、ギュンターを見送ったあの日の俺が、どうしても口にすることができなかった、心からの叫びだ。
「……ディルク」
まだ幼さを残した整った顔立ちをクシャクシャに歪めて、ユリウスがこちらを真っ直ぐに見つめてくる。
「俺、お前が好き。好きなんだ」
思わぬ言葉に、一瞬頭の中が真っ白になる。
これはいけない。美しい将来有望な少年が、こんな老い先短い爺に心奪われるなんてことは。
「そうか。一度、抱いてやろうか?」
顎をすくって、真剣な思いをわざと茶化して軽く扱う。ひどく悪い爺もいたものだと、すぐに忘れてくれたらいい。
「そういうことじゃない!!」
真っ赤な顔で怒るユリウスに、ひらりと手を振って背を向けた。湿っぽい空気は苦手だ。
「ディルク!」
「ユリ坊、じゃあな」
悪い、ユリウス。俺には、無責任に帰ると約束することはできない。ギュンターの背中を見送った、あの日の俺が救われる方法を、俺はまだ知らないんだ。
***
俺が最後と決めた戦は、想像より随分と長引いた。
斃れた仲間の体を踏み越えて、終わりの見えない戦いに身を投じ続けた。爺の身には永遠と続くように思われる野営が堪えた。大して柔らかくもないはずの、家の寝台が恋しかった。
戦いの中、何度も危ない場面があった。諦めそうになる度、「絶対に生きて帰ってこい」というユリウスの言葉が自分を励ました。
あぁ、俺も、みっともなくギュンターにすがればよかったかもしれないと、今更になって悔やんだ。もしかしたら、それがギュンターをこの世に留めることになったかもしれないと。
季節が三度ほど巡り、長かった戦いに終止符が打たれた。終わりが見えず長く続く戦いにお互い疲弊した両国が、和平を結ぶ形となった。散々続いたわりには締まらない決着だが、しがない傭兵の一人である俺の知ったことではない。
俺は動きの悪くなった足を引きずり、恋しい家に帰り着いた。長らく無人でホコリだらけとなっていた家を片づけ、すっかり一人寝に慣れた寝台で泥のように眠った。
少しして孤児院を訪れると、歓迎してくれたシスターから、成人を迎えたユリウスがすでに独り立ちしたことを聞いた。彼の行き先は、とても聞くことができなかった。
戦を終え、平和を享受する国の片隅で、特にやることもなく、無為に日々を過ごす。ずっと浅い人付き合いしかしてこなかった自分は、ただ独り、このまま死んでいくのだろうと思った。誰も遺さなくて済むなら、それも悪くなかった。
「ディルク」
ひっそりと静まり返った家に、ノックの音と、自分を呼ぶ声が響いた。聞き覚えがあるが、記憶よりもずいぶん低い声だ。知らず震える手で、扉の取っ手を握った。
扉を開くと、見上げるほど立派に成長した青年が、呆然とする自分を見下ろしておもむろに口を開いた。
「生きて帰ったことは褒めてやる」
不機嫌そうな顔でぶっきらぼうに言い放つ、その姿が幼い頃の彼を彷彿とさせて、思わず出そうになった笑いを堪えた。
「立派になったな。もう、ユリ坊とは呼べんな」
「当然だ」
美しい碧い瞳が、心の内を見透かすように見つめてくる。
「ディルク。なぜ、会いにこなかった」
形のいい眉を片方上げて、ユリウスが睨め付けてくる。
「なんだ、ユリウス。お前はまだ俺が好きなのか」
「悪いか」
軽口に間髪入れずに返った言葉に、今度こそ笑いが漏れた。
「足を悪くしてな。お前を抱いてやれそうにない」
「馬鹿が」
混ぜ返してやればいつものように顔を赤くして怒るかと思ったのに、ユリウスはそれはそれは色っぽく笑った。
「抱かれるのはディルク、お前の方だ」
力強く抱き寄せられ、顔を赤くするのは、俺の方だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。